下世話な話だが、挿入したいかしたくないかで言えば、そんなのはしたいに決まっている。
同性相手の経験は他にないが、和司は恋愛的な意味で志生を好いているし、好きな人を抱きたいというのは三十前の成人男性としてはごく一般的な感情だ。
今までも、二人は何度も性的な行為には及んでいる。キスもするし、直に肌に触れ合ったりもするし、明らかに男でしかない志生の裸体にも和司は当たり前のように欲情する。
それでも挿入に至っていない理由としては、ひとつは一度和司が強引に行為に及ぼうとしてしまったことに対する反省が強く尾を引いていること、そしてもうひとつは志生が消極的な姿勢を見せたことだった。
つき合い始めて、行為も何度目かになって、可能であれば深く繋がりたいという欲求が強くなってきた頃。以前それを無理強いしかけてしまった手前、なかなか言い出せないでいた和司に、志生は躊躇いがちに釘を刺した。
――あの、俺は今のままでも、充分満足してるから。
だから志生はそれ以上の行為は望んでいないのだと、要するに彼は挿れられたくないのだと、和司はそういうふうに受け取った。
考えてみれば、高校時代に関係を持っていた吉澤とも、最後まではしていないと言っていた。性への関心旺盛な時期にすらそこまで至らなかったのは、アナルセックスを嫌厭してのことだったのかもしれない。そうであるなら、なおさら和司にそれを迫られるのは怖いだろうし、怖がらせるような真似をするわけにはいかない。
そう自戒したから、和司は志生の後ろを脅かすようなことは一切しないようにしてきたのだ。強固な精神力をもって。
なのにその結果、その状態が可哀想だとはどういうことだ。不安そうで、寂しそうで、悲しそうだとはどういうことなのだ。
「葉月!」
吉澤の言い分には到底納得できず、帰宅の扉を開けるなり、着替えを持って風呂に入ろうとしていた志生に向かって和司は声を上げた。
「うわびっくりした、ちょっと声でかいよ。お帰り、どうした早いな」
いつもより早いとはいえ時刻は夜十一時を過ぎていて、近所迷惑を気にして志生が慌てる。
「早退してきた」
「え、そうなの。体調でも悪い? 大丈夫?」
「悪くねえ。今日休憩時に吉澤が来た」
「そうだったんだ。うちにも来てたんだよ、探してた画材を持ってきてくれて」
「画材届けるついでに、おまえらなんつー話してんだ」
「え」
「おまえは俺に挿れられてえのか」
会話しながらいつの間にか後方に追い詰められていた志生は、壁ドン状態でとんでもない直球の質問を食らって真っ赤になった。
昔から基本的に心根は優しい和司ではあるが、残念なことにデリカシーというものは持ち合わせていない。
「な、なんで。そっちこそ先生とどんな話してんだよっ」
「俺はあいつに、なんでおまえに挿れてやらねえんだってなじられたぞ。挿れてもらえないって相談してたのか」
「はあ!? するわけないじゃん! ら、ラブラブ毎晩ヤってんだろ、とか言われたから……やってないって、否定した流れでその……最後まではしたことないって、言っちゃっただけで……」
尻すぼみに答えた志生は、真っ赤な顔を腕に隠して気まずげに視線を逸らせる。
確かに吉澤の下世話な想像は的外れである。今も二人は寝起きする部屋を分けていて、触れ合うのもせいぜい週に一度か二度だ。ラブラブ毎晩云々というのはまるで当たらない。
では、挿れてもらえなくて不安そうで寂しそうで悲しそうだというのも吉澤の単なる的外れな想像か、と思ったら、俯いた志生がぽつりと呟いた。
「……いいんだよ。俺、男だし」
その沈んだトーンの言葉は聞き捨てならず、どういう意味かと問おうとすると、パッと顔を上げた志生は顔を赤くしたまま困ったように笑みを作った。
「そもそも女の子の体と違うし、挿れたってたぶん、良くないと思うし。宮村はゲイじゃないから、男に挿れるの、抵抗あるのもわかるし。き、汚いもんな、ごめんなこんな話」
あはは、と再び視線を落として取り繕うように笑う。
「……俺が女だったら、普通だったのにな」
その表情に、ようやく吉澤の言った『不安そうで寂しそうで悲しそう』というのを理解した。
一緒に住んでいる恋人の気持ちを、実はまるっきりわかっていなかったことを、和司は初めて認識したと同時に衝撃を受けた。隣にいながら、なんとその恋人は、根っこのところで和司との恋愛を諦めていたのだ。
その事実が侘しく、一方で腹立たしく、和司は志生から体を離した。
「……風呂入れ」
「あ、う、うん」
「しっかりケツ洗ってこいよ」
「……っえ?」
「今日絶対挿れるからな」
宣言すると、困惑した志生が、赤いのか青いのかよくわからない顔色になる。
「いや、宮村、無理しなくていいってほんとに。挿れなくても、俺は今のままで充分、時々触ってもらえるだけで嬉しいから」
「おぉまぁえぇ~。今のままで充分満足ってのはそういう意味か。言葉が足りねぇんだよ!」
「えぇ!? なに怒ってんの!?」
二人の間に大きな勘違いがあったことが判明して、これはもはや皆まで言わねば相互理解はあり得ないと、和司は志生をこんこんと諭しにかかった。
「おまえが今の、素股と兜合わせ止まりの状態で充分満足とか言うから、俺はおまえがアナルセックスしたくねえんだと思ってたの! だから今まで、挿れたくてもすーげえ我慢してきたの! なんなら初回から毎回挿れたかったからな俺は!」
「!? うっそだぁ」
「何が嘘だ」
驚きのあまりに目を剥いて、正直に語る和司を否定した志生だったが、逆に和司に歯を剥かれて気勢を下げる。
「だ……だって宮村、俺とエッチするとき、……なんかちょっと、躊躇ってたじゃん」
その躊躇いの理由を曲解してひっそり傷ついていた志生に気づけなかったことが情けないやら悔しいやらで、和司の中のぶつけどころのない怒りはもうピークだ。
「あぁ!? 仕方ねえだろ、俺初回でおまえのこと強姦しかけたし。あんま押しまくったら、怖いだろおまえ。その反省もあったし、だいたい俺も男相手は初めてなんだから、多少の手際の悪さは多目にみろよ!」
「えぇ……なにそれ……優しいし可愛いかよぉ」
「可愛いとか言うな!」
あさってな感想が癪に障って、和司は脱衣所のドアを開け、その中に志生を放り込んだ。
「そんじゃあ今夜は俺がこれまでどんだけ我慢してきたかを、おまえの体に一から説いて聞かせてやろうじゃねえの」
そう言って昏く笑った和司に志生は怯えた表情を見せたけれど、もう弁解を聞く気はなく、和司は外からドアをパタリと閉めた。