※これは志生と和司がつき合い始めて二ヶ月経った頃のお話です。
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店のドアが開き、客の来店を察してすぐ、和司は顔を上げてそちらを向いた。
居酒屋ではないので、いらっしゃいませーと大声を張り上げたりはしないが、来客を迎えて空席へ案内しなければならない。が、まだ慣れないその業務に、和司の表情はぎこちなく固い。
二ヶ月前、高校時代の友人だった志生と十年越しに思いを通じ合わせ、恋人同士となった。それを契機に、これまでは自信を持てず諦めかけていた自分の店を持つという夢を、本格的に実現させるべく動き始めることにした。
手始めに和司はバイト先の店長に相談し、飲食店経営のノウハウを学ばせてほしいと頼み込んだ。和司の真面目な勤務態度や確かな調理技術を評価していた店長は快諾し、それなら厨房だけでなく接客も経験した方が良いと勧めてくれ、和司は時々ホールにも出るようになった。
路地裏のダイニングバーは、目立たないながら連日盛況しており、今日みたいな週末の夜はなかなかの客入りで忙しい。
注文をとる、運ぶ、片付ける、呼ばれたら急行する、と忙しなく足を動かしながら、ミスしないことで精一杯の和司はいつの間にかいつもの仏頂面になっていて、それを店長に指摘されて眉間を捏ねる。正直、やっぱり自分には厨房仕事の方が性に合っているなと、つくづく思う。
休憩時間になり、店の裏手の勝手口から外に出て、缶コーヒーを開けて一息つく。時刻はもうすぐ二十二時。恋人は帰宅して、用意しておいた夕食を食べただろうか。
引っ越し先を探していたタイミングでつき合うことになったので、和司は今も志生の家に居候している。この家主が料理に関しては腕も意識も壊滅的で、放っておくとカップ麺やらコンビニ弁当やらを、それすら食べたり食べなかったりで済ませてしまう。見過ごせない和司は母親のごとく食事の面倒を見、出されたものは何でも美味しくいただくというスタンスの志生は以前より体調も顔色も良さそうで、WIN-WINの関係が成り立っている。
そんな家主に、和司は高校時代から片想いしていた。
最初は同い年ですごい絵の才能を持った生徒への純粋な興味だった。想定外の敵対心を抱かれていたことに驚きはしたけれど、天才にありがちな気難しいタイプなのだろうかと、特に気にはしていなかった。彼を虐めていた人間との関わりを絶ったのも、好意からというわけではなく、単純に和司の倫理観と合わなかったからだ。
けれど志生と美術教師との秘め事を目にした和司は、なぜその相手が自分ではないのかと、歯噛みするような嫉妬心に取り憑かれた。
自分と同じ男子生徒に恋愛感情を抱いたことに、それまで女性としかつき合ったことがなかった和司が戸惑わなかったわけではない。それでも、清純そうに見える彼のきっちりと着込まれた制服の下を暴きたい衝動は消えることがなかった。
それから、どうにかして自分の方を振り向かせようとあれこれ画策してみたものの、志生の態度はまるで変わらず、美術教師とは相変わらず親しげで。しかも美術教師が学校を去ってからは和司との接触を避けるようになり、これは脈なしだと諦めることにした。
卒業式の日、『好きになってほしかった』などと未練がましいことを、よりによって志生の聞こえない方の耳に囁いて傷つけて。あまつさえキスして逃げたのは、本当に最低だったとその後も思い出す度に猛省している。
その後、進んだ専門学校で大きな挫折を経験して。もう自分の人生にあまり期待はできそうにないと、就職先のオーナーからのアプローチを安易に受けて、この先は安寧の中で流されていくのが良いと思っていた。
そんなとき、十年ぶりに再会した志生は絵をやめていて、和司のような色覚特性のある人のためのデザインを学んで仕事にしていた。とてつもなくショックだった……と同時に、ひとつの確信が生まれた。
――葉月は俺のことが好きだ。
そうでなければ、あの葉月が絵をやめるわけがない。十年以上、葉月の頭の中には、ずっと俺がいたんだ。
そう確信したら、安泰の結婚話をご破算にすることにも躊躇はなかった。目算通り、和司の目のことを知った相手は自ら破談を申し出て、和司は職と家を失う代わりに金と自由を得た。
志生の家に転がり込んだ時点で、実は和司には、けっこうな勝算があったのだ。
けれど、志生は絵をやめてなどいなかった。ただ表に出すことをしなくなっただけで。志生が絵の才能を捨てていなかったことにはただただ安堵したものの、ここで和司の確信が揺らいだ。
――好きなのではなく、ただの罪悪感だった?
その証拠に、志生は和司が自分のせいで色覚異常を自覚してしまったと、それで傷つけてしまったことをひどく負い目に感じていた。その罪悪感はたびたび感じるものの、志生から自分への恋慕を感じることはできなかった。
今にして思えば、志生は自身の恋情を抑えていたのだとわかるのだが、そのときの和司はまたすとんと自信を失ってしまった。
志生の気持ちが恋愛感情などではなく、和司の存在がその罪悪感を掻き立てるだけなら、早く彼の傍から離れた方がいい。そう考えて部屋探しに本腰を入れた矢先、和司は志生がまだ吉澤と繋がっていることを知った。
高校時代、志生は吉澤を好いているように見えたし、実際二人は性的な関係にあった。きっと今も肉体関係があるに違いない。
なのに志生は、吉澤とつき合っていないと言う。要するにそれは、志生はつき合っていない相手とでも性行為をできてしまう人種だということではないのか。
――つき合ってもねえ吉澤とヤってんなら、男なら誰でもいいんだろ。俺にもヤらせろよ。
そう言って抵抗する志生を無理矢理組み伏せた自分の言動を、取り消せるものなら今からでも取り消したい。普段の和司なら絶対にやらないはずのこと。でもそのくらい、あのときは頭に血が上っていた。
結局それは純粋に想い続けてくれていた志生を傷つけ、泣いた彼が気持ちを明かしてくれたことで誤解は解けた。結果オーライではあったかもしれないが、和司はそうは思えず、あのときの自分を今も許せないでいる。
はあ、と深くため息をついて、後悔を食み返す。その念は自戒となり、この二ヶ月、和司は自分なりに志生を大事にしているつもりだ。
「あー、店員さんがサボってる」
不意にからかうような声がかかり、振り向くと、関係者以外は来ることのない店の裏手に、なぜだか吉澤が立っていた。
「……正規の休憩時間だよ。なんであんたがここにいんだ」
「わざわざ会いに来てやったのに、つれねぇなぁ」
「はぁ?」
「葉月んちに寄った帰りだよ。今の時間はちょうど店の裏で休憩してるって聞いたからさ」
志生と会っていたと聞いて、イラ、と反射的に和司の眉が寄る。
「あいつに何の用だよ」
自分で思うよりも剣呑な声が出た。
「あらやだ怖いセコム。頼まれてた画材届けに行ってただけよ~」
わざとらしくオネエぶっておどけた吉澤は、志生が絵を続けていたことを白状して以来、その本格復帰をバックアップすべく何かと相談に乗っているらしい。
二人は和司のいないところで会うことが多く、もし同席したとしても和司には二人の専門的な会話はほとんど理解できない。なのでそれについて和司が口出しすることはないのだが、懸念はあった。
「まぁ、付け入る隙があるなら、狙わない手はねえと思ってるけどな」
そう言ってにやりと笑う吉澤はどうやら、本音では志生に対して師弟関係以上の情を残しているようなのだ。
当の志生は、それにまるで気付いてもいないし、気を付けろと忠告しても冗談で済ませて取り合おうともしないけれど。
「……おい、あいつに手ぇ出したら社会的に抹殺するからな」
現役教師が元教え子に、高校時代から手をつけていたネタを握っている以上は確実に和司の方が立場は強いし、そもそも志生は和司の恋人で、和司以外眼中にないので、取られる心配はしていない。が、過去に既成事実のある人間が志生の周りをうろつくのは、やはり全然面白くない。
そんな和司の青い牽制をさらりとかわして、吉澤はふふっと笑う。
「でもおまえら、聞いてる限りじゃあんまりうまく行ってないんだろ?」
「……は?」
「つき合って二ヶ月も経ってるのに、まだバニラなんだって? 葉月不安そうだったぜー、可哀想に」
「バニラ?」
「未挿入ってことー」
親指を人差し指と中指の間に入れた卑猥な握り拳を目の前につき出されて、かっとなった和司は思わず吉澤のその手首を掴んだ。
「なんでおまえらがそんな話してんだよ!」
「おっと、待て待て。べつに葉月が進んで話したわけじゃねえから怒ってやんなよ。素直なあいつが俺の誘導尋問に引っ掛かっちゃっただけ。なぁんか寂しそーで悲しそーにしてたから、ちょっと探ったらそういうことかって」
そう言って吉澤は、近づいた距離をさらに詰めてくる。
「なんで挿れてやらんの? 脱がせてみたらやっぱり男のカラダは無理だった?」
「っ……!」
間近で細めた目に見据えられて、和司は突き飛ばすように吉澤の手を振り払った。
「んなわけねえだろ!」
怒りのままに声を荒らげ、その勢いで和司は店の勝手口をくぐって力任せにドアを閉めてしまう。
残された吉澤は半笑いで天を仰ぎ、掴まれた手首を振りながら、「はーやれやれ、世話のやける……」と呟いた。