secret color -16-


 和司が部屋探しを本格的に始めてしまった。
 週末、仕事が終わって帰宅し、不在の和司が使っている寝室を覗く。ベッドサイドのテーブルに置かれた住宅情報誌に、八つ当たりのような怒りがわいてしまう。
 キッチンには今日の夕食。筑前煮と焼き鮭と大根の味噌汁。温め直して手を合わせて、一口食べて優しい味付けに泣きそうになる。
 もうすぐこんな生活もおしまい。わかっていたことだけれど、とても寂しい。
 片恋相手である上、さらにがっちり胃袋を掴まれてしまっただけに、その寂しさはひとしおだ。
 和司が部屋を出て行っても、何か繋がりを残すことはできないだろうか。
 悶々と考えていたところへ、メッセージの受信通知で携帯が震えた。相手は吉澤だ。
『久しぶりに飲まん?』
 吉澤には、和司と同居を始めたことやそのいきさつは伝えてあるが、それ以降の近況はほとんど話していない。そろそろ野次馬精神で様子を聞きたくなったのだろう。
 吉澤と会うならいつものゲイバーか、と予定を確認しようとして、思い付いてしまった。食事と飲みが目的なら、和司の勤め先のダイニングバーへ行ってみるのはどうだろう。
 実は志生は、和司の勤め先にはまだ行ったことがない。店のサイトを見るからにおしゃれ気で、一人で入るには敷居が高くて尻込みしていたのだ。
 でも吉澤と一緒なら、気後れせずに入れるかもしれない。そして一度入ってしまえば、次からは一人でも行けるかもしれない。そうしたら、和司が部屋を出て行った後も、会いに行く口実ができる。
 これは名案だと、志生はいそいそと吉澤へ返信して和司の帰宅を待った。

 和司が仕事を終えて帰宅したのは、午前二時を回っていた。
「おかえり!」
 いつもはリビングのソファーベッドで寝ているはずの志生が出迎えたことに、和司は面食らった様子だ。
「どうした、まだ起きてたのか」
 部屋に上がりながら、和司は風呂上がりの志生の濡れ髪に触れて、ちゃんと乾かせよと小言を言う。
「うん。あのさぁ、明日の夜、宮村の店に行ってもいい?」
「明日? てかもう今日か。そりゃ別にいいけど、土曜の夜なら席取っといた方がいいかもな。一人?」
「ううん、二人」
 浮かれた志生が楽しげに答えると、ふと和司は微妙な表情で右の口角だけを上げた。
「……なに、デート?」
 志生はその表情に気付かずただ笑い飛ばす。
「違うよ! んなわけないじゃん。宮村、高校の時の美術の吉澤先生って覚えてる?」
「――吉澤?」
「うん。だいぶ前に偶然再会して、そっから時々会ってるんだけど。もしできれば、店で宮村とも三人で会えたらなって思ってさ」
 ソファに座りながら、志生は一人で、「あ、でも仕事中だと宮村は会えないのかな?」などと喋り続けている。
 その肩を、ぐっと、和司が掴んだ。
「吉澤とつき合ってんの?」
「え……? いや、だから、つき合ってる人いないって」
「つき合ってないのにあいつと時々会ってるわけ?」
 肩を掴んだ和司の手に力がこもり、その表情から笑みが消える。
 何か変だ、とやっと志生も思い至った。
「そうか、そうだよな。高校ん時もおまえら、つき合ってもないのにあーゆーことしてたんだもんな」
 そう言ったくちびるが、不意打ちのように志生のくちびるを塞ぐ。
 言われた言葉の意味も咀嚼しきらないうちの行為に、完全に志生の頭は混乱した。
(――何? なんて……?)
 訳がわからないうちに、視界が回転して、目の前の和司の向こうに天井が見える。パジャマの内側の脇腹に熱いてのひらの感触を覚えて、押し倒されていることに気がついた。
「宮村!? やめ、……なにっ……!」
 咄嗟に抵抗しようとした、その両手はあっけなく一まとめにされて、頭上で和司の片手に押さえつけられる。力では全く敵わない。それでもなんとか逃げようとした、その胸元を和司が強く引いて、ボタンがひとつ、弾け飛ぶ。
「清楚ぶんなよ。つき合ってもねえ吉澤とヤってんなら、男なら誰でもいいんだろ。俺にもヤらせろよ」
 昏く、荒んだ声。
 床に落ちたボタンを目で追いながら、降ってきた言葉が、やたらゆっくりと胸に突き刺さってくるのを志生は感じた。
 長い片恋が、伝わっているとは思っていなかった。それを期待したこともない。伝えることも諦めたままだった。
 だけど、まさかこんな誤解を受けるとも思っていなくて。
 ずっと、一人だけを想っていた。叶わないのに、よそ見をすることもできずに。ただ一人の存在が、胸を占めていた。
 それなのに、男なら誰でもいいと、そんなふうに思われてしまうのか。誰でもいいうちの一人として、彼は自分を抱こうとしているのか。
 それはいくらなんでも、あんまりじゃないか。
「……」
 小さく息をついて、志生は抵抗をやめた。
 少しの迷いがあった。
 このまま犯されてもいいかと思ったのだ。
 成就することのない片恋の結末に、一度きり抱いてもらえた思い出が残るならそれもいいかと。初めからなかったのだと思えば、志生の純恋など躙られ消えても同じことではないかと。
 けれどそう思う一方で、誤解された愛情が捻れて痛んで、悲しくて仕方がなくて、涙になって溢れ出た。
 それはもう、とどめようがなくて。
「……っ、葉、月……」
 涙を見た和司が、我に返って息を飲んだのがわかった。一絡げにされていた両手が解放される。
「悪い、俺、何やって……。ごめん葉月、ごめん」
 のし掛かっていた和司の体が慌てて退いて、急に軽くなる。志生は涙を止められないまま、胸の合わせを閉じて、のろのろと体を起こした。
 ソファーの下で、自分の言動を振り返った和司は項垂れている。
 衝動的な行いを悔いているのだろう和司は、もうこれまでと同じようには接してくれないかもしれない。
 どうしても、彼に誤解されたままなのは嫌だなと、志生は思った。
「……誰でも良くないよ」
 喉が、恐怖で震えていた。好きな人に、好かれてもいないのに抱かれることは、怖いことだと知った。
「俺は、宮村がいいんだよ」
 伝えるなら、もう今が最後の機会だ。
 志生はソファーを降りて、リビングの端に置いた大量の絵の奥から、隠すようにしていた一枚を取り出した。少し躊躇って、それを和司の前に差し出す。
「……え、これ……俺?」
 和司が初めて家に来た時、見せられなくて、整理する振りで隠したままにしていた。緑一色の濃淡のみで描いたそれは、高校の頃の和司の肖像画だ。
 それを見た和司が、はっとしたように目を見開く。
「秘色――」
 その呟きに、志生も驚いた。
「覚えててくれたの……?」
 放課後の美術室でいつか語った、他愛もないやりとり。
 ――俺は、このやわらかい色と、名前がすごく好きで。
 ――いつかこの色をうまく使いこなして、大事な一枚を描きたい。
 その言葉通り、志生はこの十年の間に、秘めた想いを、宮村和司の姿を描いたのだ。
「……あの頃から、おまえは吉澤のことが好きなんだと思ってた」
 その色で十代の自分が描かれた意味を、和司は今、ちゃんと理解している。その頃の自分が、今に至るまで、大きな思い違いをしていたことも。
「絵と、吉澤のことしか見えてなくて。俺なんか、おまえの絵をちゃんと見ることもできないようなやつのことなんか、眼中にないように思えて。気を引きたくても……何度キスしても、何も変わらないように見えた」
 意図がわからなかったキスの理由をそんなふうに明かして、和司は呆然とその絵に見入る。
「……でも、願いは叶ってたんだな」
 呟く和司の前に、志生は膝をついた。涙の止まった目で和司の瞳を覗くと、ふっと柔らかく細められる。
「おまえ、わかりにくいよ」
 そんなことを言うので、志生も笑ってしまう。
「宮村に言われたくない」
 泣き笑いの志生の右耳に、和司の指が触れる。その指先が、そっと補聴器を外す。
 深夜の静かな部屋。機械がなくても、囁き声すら志生の耳に届く。
「……卒業式の日、何て言った?」
 額がくっつきそうな距離での、十年越しの答え合わせ。
 問うた志生に、ややばつが悪そうに和司は目を伏せた。勇気がなくて、卑怯な形で言い逃げした自覚はあるので、澄んだ視線は居心地が悪い。
「『好きになってほしかった』って言った」
 明かされて、それが願いだったのかと、拍子抜けした志生は苦笑する。それならとっくに叶っていたのに。
「たぶん……あの時俺、宮村が好きだって自覚した。けど、それまでもずっと好きだったと思う」
 そんなふうに回顧する志生だが、当時のその態度から好意を感じ取ることができなかった和司は懐疑的に笑う。
「初対面ではずいぶんと毛嫌いされてた記憶があるけどな」
「ごめんって。……時効だろ?」
「ふ。そうだな」
 テーブルに補聴器を置いた手が、優しく志生の頬を包んだ。それに導かれるように、濡れた睫毛に縁取られた志生の瞼が小さく震えながら閉じる。
 そしてようやく二人は、意思の通じたくちづけを交わした。