secret color -15-


 志生と和司の共同生活は、思った以上に順調に続いていた。
 料理に関しては壊滅的な志生だが、わりと綺麗好きなので掃除と洗濯を担当し、毎朝夕の食事と買い出しは和司の担当。互いに得手な領域を担当することで、負担なく家事分担ができている。
 志生が洗濯を担当するようになって、ひとつ気付いたことがある。和司の服が、白か黒かグレー、徹底してモノトーンに統一されていることだ。
 大人っぽくシンプルな服装が似合うので、それを不自然に感じることはないのだが、ふと気になって他の色の服は持っていないのかと尋ねたことがある。すると、和司はほんの少し困ったように眉を寄せた。
「モノトーンだったら、色の組み合わせに間違いがないだろ。突飛な組み合わせにはまずならないっていうか」
 だからタグに『Black』などと明記してある服しか買わないのだと、和司は教える。
 それを聞いた志生は、高校の頃に美術部顧問の土橋が、和司の絵の彩色が独特だと言っていたことを思い出した。つまり和司の色覚で見えている色は他の人と同じとは限らず、カラーコーディネートの常識からは逸脱した組み合わせになる可能性もあるということだ。
 もしかしたらそのことを指摘する他者からの言葉に傷ついたこともあったのかもしれない、と思うと安易な問いを口にしてしまったことが悔やまれた。
「……ごめん、余計なこと聞いた」
 申し訳なく視線を落とす志生に、もっと困ったように和司は首を掻く。
「いや、気にしないでくれ。そんなことで気ぃ遣わせたくないし。ていうか俺に似合ってんだろ、モノトーンコーデ」
 茶目っ気を出しているつもりなのだろうが真顔のまま親指で自分を指す和司に、ふっと笑いを誘われて志生は顔を上げた。
「うん。すっごいかっこいい」
 全肯定されて、和司も思わず吹き出す。
「うわ、すげぇ言わせた感。だめだろそういうことは、笑いながら言ったら」
「えー、ほんとに思ってるよ、本心本心」
「それも二回繰り返したらだめなやつ」
 そんなふうに互いに気遣いながら、時折笑い合いながら過ごす生活は、あっという間に二ヶ月を経過していた。
 延長していた和司の職探しだが、始めて一ヶ月ほどした頃、たまたま通りかかったダイニングバーの店頭に厨房担当のアルバイト募集が貼り出されているのを見かけ、和司はすぐに応募して採用が決まった。採用の三日後から、ほぼ毎晩働きに出ている。
 和司のシフトは午後六時からラストの深夜一時まで。志生が仕事から帰る前に出勤し、志生が寝てから帰宅し、寝ている間に志生は出勤してしまうので、二人の生活は完全にすれ違ってしまっている。けれど和司は志生の分の朝食と夕食を欠かさず用意してくれていて、栄養バランスを考えた食事を一人で食べながら、志生の気持ちは充分すぎるほどに満たされていた。
 久々に二人の休日が重なった土曜、昼近くに起きてきた和司に志生はしばらく気付かなかった。四十センチ四方ほどの正方形のキャンバスに向かって、花菖蒲の絵を描いていたからだ。
 花弁の内側の鮮やかな黄色、それを包む白い輪郭から続くやわらかな青紫。常磐色に光るしなやかな細い葉と、その表面をまっすぐに走る繊細でくっきりとした葉脈。
 通勤途中にある小さな用水路の隅から、志生に向けて語りかけてくる声を聞いたような気がした。ここに在る生を描いてみろ、写し出してみろと。
 その声にとらわれてしまったら、志生には無視することも抗うこともできない。志生にとって、絵はそういうものだった。だから、周りに絵はやめたと嘯いたところで、本当に絵から離れることなどできるはずがなかったのだ。
 形にするまで網膜に焼きついて消えないその姿を追いかけている間は、ただその行いに集中するというよりも没入するばかりで、志生の知覚はあらゆる外乱を受け付けなくなる。なので、寝食を疎かにすることも間々ある。
 けれどこのときは、沈み込んでいた意識が不意に浮上した。
「――あ」
 視線を感じて振り返った先に、和司がいる。
「相変わらずすげえ集中。もう昼だぞ」
 呆れたみたいな無愛想な顔で、背を前にした椅子にまたがるようにして座った姿が、あの美術室の珍客の姿と重なって見えて、志生は狼狽えた。
「あ……もうそんな時間……」
「何時から描いてたんだ?」
「えぇと、八時前くらいかな」
「四時間ぶっ通しかよ。朝飯は?」
「食べ……あれ? 食べてない……え、置いてくれてたホットサンド……」
 はた、と思い出して電子レンジに駆け寄った志生が扉を開くと、一緒にレンジアップしていたはずのマグカップの牛乳とともに、ホットサンドは冷めていた。
「あー! ごめん、温めてる間にちょっと、と思ったら……」
「ちょっと、が四時間か。おまえ、レンジの温め以外の調理はしない方がいいな。火事出しそうだ」
 やれやれ、という顔で真理を吐いて、和司は冷めたホットサンドを自分の大口に放り込む。
「あ! 俺の朝飯っ」
「うるせえ。昼飯作ってやるから腹空かして待ってろ。何が食いたい?」
「やった! じゃあオムライス」
「またか」
「作るとこ見せて」
「食うよりそっちが目当てだろ」
 呆れつつも、冷蔵庫から卵を取り出す和司の眼差しは優しい。
 元々オムライスは好きな志生だが、同居初期に和司が作ってくれて以来、リクエストを聞かれる度に毎回馬鹿の一つ覚えのようにそう答えている。
 巻くタイプと、とろとろオムレツをライスの上で切り開くタイプと、どっちもできるらしいのだが、志生が頼むのはいつも巻くタイプ。オレンジ色のチキンライスが黄色い卵に包まれて、フライパンの上でぽってりとしたラグビーボール形に整えられていくのを見るのがとても好きなのだ。
 昔は実家でも、母が作ってくれるのをよく見ていた。今日は成功だとか、今日は卵が破れてはみ出したとか、毎回てんやわんやしていたのが懐かしい。失敗をからかうと母はじゃあやってみろと志生に言ったが、今まで志生はやってみようと思ったこともない。焦げた炒り卵を量産することになりそうなのが目に見えていたからだ。
 そういう思い出の中のものと同じ料理だとは思えないほど、鮮やかな手つきで小さく宙を舞いながら楕円に整っていく黄色は焦げもなく美しい。ちょっと描いてみたいと思うほどに。
「ほれ」
 飾り気のない白い皿の中央に盛られた完璧なフォルムに、何度見ても志生はため息が出てしまう。
「はぁー、すごい。さすがプロ」
「ケチャップで名前書いてやろうか」
「店でも書くの? ハートとか?」
「やるか、バカ。今の店はデミグラスに生クリームとイタリアンパセリ。前の店は中がバターライスで、トマトソースに乾燥バジルだったな」
「ふぅん……おしゃれだねぇ」
 どんな種類でも和司が作るなら美味しいに違いないが、冷蔵庫に残った半端野菜と歪んだ『はづき』の文字が入った、今このとき限りのシンプルオムライスの方が、志生にとってはよほどご馳走だ。
「いただきます」
 対面カウンターに移動して手を合わせてから、崩すのを勿体なく思いながらスプーンを入れると、その隣に置かれていた和司の携帯が震え始めた。メッセージの受信通知ではなく、どうやら音声通話の着信。
「宮村、電話。……さなえ、さん」
 カウンター越しに携帯を渡そうとして、目に入ったディスプレイのひらがな三文字を思わず読み上げてしまって、志生は後悔した。
「ああ……サンキュ」
 受け取った和司の表情もやや曇る。親しく呼んでいたのだろう、女性の名前。きっと別れた恋人だ。
「……はい、何」
 和司が口元を覆って声をひそめる様子に、聞かれたくないのだろうと察して、志生は皿を持ってリビングのテーブルに移動してテレビをつけた。志生としても、聞きたくはない。
 別れているのに、何の用件だろう。まさか復縁要請? なんて考えたら腹が立ってしまう。宮村を傷つけておいて、そんな虫のいい話は許せない。でも、別れたあと落ち込んでいたようだし、もしかして宮村にとっては嬉しいんだろうか。請われたら、よりを戻すつもりはあるんだろうか――
 もやもやと考えていたら、美味しいはずのオムライスの味がしなくなった。
 バカみたいだ。考えるだけ無駄だ、そんなこと。たとえよりを戻すことがなくたって、相手はノンケで、自分とどうこうなる可能性なんかないのに。
 少しして、通話を終えた和司も自分の分の皿を持ってリビングへやって来た。
「はー。まだあっちの家に置いてる荷物をいつ引き上げるんだって催促だったわ。世知辛ぇな、ったく」
 訊いてもないのに電話の内容を明かすのは、志生に気を遣わせたと思っての罪悪感からか、慰めを期待した甘えなのか。判断がつかずに黙っていたら、ケチャップの蓋を開けながら、また和司はため息をついた。
「……はー。そろそろ部屋も決めねぇとな」
 それについては、仕事も順調な和司に対してもう志生に言えることもなく、話題の転換を図ることしかできない。
「……宮村」
「うん?」
「描いてやろうか、ケチャップでハート」
「……」
 精一杯の志生の申し出は、三秒ほど停止した和司によって、丁重にお断りされた。