志生の平日朝の過ごし方は、至って雑である。
血圧が低いので、携帯のアラームは五分間隔のスヌーズを四度止め、五度目でやっと起き上がる。半分寝たまま電気ケトルで湯を沸かし、それを注ぐだけのインスタントコーヒーを空きっ腹に流し込み、朝食はそれで終了。
あとはテレビの天気予報を見ながら歯を磨き、洗顔ついでに薄い髭を安全カミソリで剃りあげ、そうこうしているうちに出発時間ギリギリとなる。この時間が少しでも遅れると、出社途中にコンビニに寄る時間がなくなって、休憩に食べる軽食も買えなくなるので、ひもじい午前中を過ごす羽目になる。ここでモタつくわけにはいかない。
バタバタと準備をして部屋を飛び出して、ようやく醒めてきた頭でふと、そういえば寝室ではまだ和司が寝てたんだった、ということを思い出して志生は頭を掻いた。仕事のない和司はゆっくり寝ていられるのだから、起こさないように静かに身支度すればよかった。いつも通りの物音を立ててしまったから、目が覚めてしまったかもしれない。
ごめんよ、と内心で反省しつつ、志生は駅までの道を急いだ。
志生の仕事は、激務とまではいかないが、それなりに多忙である。わりと仕事の要領は良い方ではあるのだが、結局そういうところに業務は振られてくるので、だいたい毎日残業している。
今日も二時間は残業だな、帰宅時間を連絡しておいた方がいいかな、と思い始めた定時前、ふと気づくと携帯にメッセージが入っていた。
『冷蔵庫借りる』
愛想もそっけもないそれに、『どうぞ』と返して、帰宅予定時間も付け加えておいた。なんだか同棲しているようだ、と一人で勝手に浮かれてみる。虚しいが、これくらいの一人遊びは許してほしい。
(飲み物入れとくとかかな? わざわざ断り入れるなんて、案外律儀なやつだな)
その程度に考えていた志生は、会社帰りに寄ったコンビニで買ったカップ麺を提げて帰宅して、自分の部屋から漂ってきた夕餉の匂いに自分の鼻を疑った。
「た、ただいま」
ドアを開けて、出迎えたのはキッチンに立つ不機嫌そうな顔。伸びた髪を一つに括っていて、尻尾みたいになってるのがかわいいね……なんてことを言える雰囲気ではまるでない。
「おかえり。……なんだそれは」
射貫きそうな視線でカップ麺入りのビニール袋を睨まれて、思わず志生はそれを背後に隠す。
「え、と、今日の晩飯……」
「おまえ、毎晩そんなもんばっか食ってんのか!」
「いや、だって俺料理できないし」
「だからっておまえ、あの冷蔵庫の中身はないだろう。酒と水とマヨネーズとポン酢のみってどういうことだ。しかもポン酢賞味期限切れてたぞ。あと卵ケースに通帳置いとくな」
「あれ、賞味期限切れてた?」
「なんでリアクション対象がポン酢だけなんだよ!」
はー、と心底呆れた様子の和司は、頭痛を抱えたように額を押さえて盛大にため息をついた。
「もういいから、手ぇ洗ってそれは非常食用にしまってこい。飯できてるから早く食え」
「えー! この匂いはまさかの宮村の手料理かぁ!」
「高校の時はもう少ししっかりしてなかったかおまえ。よくこんなんで一人暮らし……って、話聞けよ」
志生の生活力のなさに驚きを隠せない和司の後ろで、当の本人は勝手にコンロの上の鍋を開けている。
「すっごい美味そう。これは何?」
「チキンとトマトのリゾット。米もねえと思って買ってきてから、この家に炊飯器もないのに気付いたんだ。やたらきれいな鍋一式揃ってんのは、あれだろ、家出るときに親に持たされたやつそのまんまだろ」
「ご明察~。よかったらガンガン使ってやって、その方が鍋たちの魂も浮かばれるってもんだよね」
「いや、ほんとだよ。しまわれたままで可哀想になおまえら……」
「あははー」
笑いながら、ビールを出そうと冷蔵庫を開けた志生は目を丸くした。
「うわ。うちの冷蔵庫に野菜がある」
「サラダもあるから食え。少しは栄養面考えろ。もうすぐ三十路だろ、あっという間に体調も体型も崩れるからな」
「いやな脅し方するなぁ」
それは怖いなと思いつつ、サラダとビール二本を取り出して一本を和司に渡し、プルトップを上げる。
「飲まない?」
「毎日晩酌してんのか」
「毎日じゃないけど。全然飲めなかった頃に練習してたら、いつの間にかけっこう好きになっちゃって」
「意外だな。酒とか飲めなさそう」
「ふふ。宮村は強そうだね」
「いや、俺弱いんだよ。すぐ寝る」
「へえ、それも意外」
互いに知らない十年の間にそれぞれ大人になって、それは互いに想像していたものとはだいぶ違う形なのだと知る。十年後にこんな風に、同じ家で共に過ごしていることを、あの頃の志生が聞いてもとても信じられなかっただろう。
「……高校の頃は、宮村の手料理食べながら一緒に飲めるなんて、想像もしてなかったな」
ぽつりと、感慨深く呟くと、ビールを一口飲んだ和司はすいと視線を外す。
「俺は……」
そして何かを言いかけて、口を噤んでしまった。
何を言おうとしたのか、聞き返そうとした志生の口も重くなる。聞き返したところで、ポジティブな言葉が聞ける気は全くしなかった。
高校の頃の和司は、叔父の割烹でバイトをしながら料理を勉強して、いつか自分の店を持つことを目標に進路も定めていた。けれどその夢は、そのままの形で叶えることは困難となり、さらに進路変更をした先で、ベーカリーカフェのオーナーとの結婚で間接的に実現するという手段も断たれてしまった。
それならばせめて、少しでも元の夢と近い形で、なんとか実現できないものだろうか。
スプーンにのせて口に運んだリゾットは、これまで食べたものの中で一番美味しく感じられる。それは紛れもなく和司自身が重ねてきた努力の賜物だ。
彼が長年情熱を注いできた料理の世界で、何か次の夢を見つけて邁進してほしいと、志生は願った。
にもかかわらず、その週のうちに早々に和司が見つけてきた仕事は、料理とは全く関係のないものだった。
「来月から、契約社員って形だそうだ」
ハローワークから帰ってきて、どこか他人事のように資料を放りながら和司は言う。話しぶりの通り、電子部品工場のライン工だというその仕事に、和司はちっとも興味がないのだろう。口の片側だけを無理に上げる和司の態度は投げやりだ。
「家があって食ってけりゃ、それでいいよ」
仕事内容よりも、職を得て早く住まいを確保することの方を優先する和司の言葉は本心には聞こえず、少しのお節介心が生まれて志生は袖を引く。
「……なあ、もっとゆっくり、やりたい仕事探した方がいいんじゃないの。俺の部屋でいいなら、住む場所は気にしなくていいからさ」
けれど和司の反応はなんだか冴えない。
「いや、でも……」
「俺と一緒が嫌?」
「そうじゃないけど」
じゃあ何が問題か、と志生が詰め寄ると、歯切れ悪く、和司は切り出した。
「……邪魔じゃねえの、俺」
そんなことを言うものだから、即座に志生は首を横に振る。
「邪魔じゃないよ」
「家に呼ぶような恋人とかは?」
「いないよ、そんなの」
「そうなのか」
「そうだよ。俺は――」
――宮村と一緒にいられて嬉しい。
それが本音だけれど、そうは言えないので。
「宮村の手料理が食べられてありがたい」
軽口に本音を混ぜて大真面目に言ってみると、和司はふっと口元を緩めた。
「なんだそりゃ。家主の餌付け成功しちまったな」
ふわ、とやわらかく浮かべた笑みに、志生の脈拍がどっと上がる。
昔から、和司の笑顔は心臓に悪い。普段の無愛想がひどいから、それが自分だけに特別に向けられる笑みのように勘違いしてしまうのだ。
そんなわけがないことはわきまえている。いつか誰か素敵な女性と結婚して、幸せな家庭を持つ人だ。それまでの期間のうちの、ほんの一部分でもいいから、少しでも長く傍にいられたら嬉しいと思う。
それ以上のことは、何も望まない。