ファミレスの少し奥まった席で、ドリンクバーのコーヒーを挟んで二人は向かい合った。
先日の同窓会の日にも喫茶店でこんなふうに話をしたが、そのときとは店内の雰囲気は随分違う。けれど無愛想に落ち着き払った和司の態度は相変わらずだった。
「勤務先のカフェのオーナーと結婚するって話はしたよな」
静かな和司の声に、志生は頷く。
「うん」
「その彼女と、一緒に住んでたんだよ」
「そうだったんだ」
「で、別れたもんで、家も仕事もいっぺんに失ったってわけ」
「わ、別れたって」
テーブルの下で握った志生の手に力がこもる。
「結婚の約束までしてたんだろ。なんでそんなあっさり……」
外野ではあるけれど、はいそうですかと簡単に納得できるわけがない。現に和司は、住まいも仕事も失っているのだ。
和司は家を『追い出された』と言った。ということは、別れは一方的に告げられたことではないのか。
相手の女性に怒りが込み上げた志生を宥めるように、和司はわずかに微笑んだ。
「そうあっさりでもなかったんだ。ここひと月くらい、毎日話し合ったし、彼女も結論出すのに相当悩んだと思う。原因は俺だしな」
「原因……?」
「うん……。言ってなかったんだ、俺の色覚のこと。それを、話した」
それを聞いて、志生は自分の胃がずんと重くなるのを感じた。
「待って……そのせいで? 宮村に色覚異常があるから結婚やめるって? なんだよそれ。意味わかんないよ」
腹の奥で、それを理由に和司を捨てようという彼女に対する嫉妬と怒りが渦を巻いて、どうしようもなく声が尖る。けれどその志生の激昂には付き合わない和司の声音は、どこまでも穏やかだった。
「まあ……それだけじゃないんだ。元々彼女、ウェディングチェックとかにも余念がないタイプだったし、俺も仕事のことで目の影響がなかったとは言えないことも話しちまったし。……それに、そんな大事なことを今まで黙ってたってことが信用ならないって言われた。たぶん、そこが一番大きかったんだと思う」
凪いだ目が、睫毛を伏せる。落ち着いた様子で淡々と話す彼がどれほどの傷を負ったのか、想像もつかない。
「……将来のこと、色々、お互いちゃんと考えた結果だ。もう一緒にはいられないって言われて、俺もそれで納得した」
諦めのついたような、和司の声。聞いているうちに視線がどんどん下がってしまった志生の頭に、和司はそっとてのひらをのせる。
「……葉月が泣くなよ」
ぽたぽたと、膝に落ちる涙が止められなかった。
そのまま黙って結婚していれば、和司は幸せになれたんじゃないのか。子どもに因子が引き継がれる可能性はあるけれど、形質としては顕現しなかったかもしれないのに。
和司もそれがわかっていたから、取り立てて話す必要もないと考えていたのではないのか。だからここまでは着々と結婚話も進んできたのだろう。
なのに、今このタイミングで明かすことにした、その理由は。
(俺と会ったからか……)
同窓会で、自分が和司に声なんかかけたから。普段は意識していなかったかもしれないのに、ことさら色覚のことを意識させるような話をしてしまったから。
「ごめん……」
他に言える言葉が見つからず、俯いたまま謝った志生に、和司はふっと笑った。
「おまえは、謝る必要もないのに謝ってばっかだな。謝らなきゃいけないのはこっちだろ、おまえは何の関係もないのに家に泊めてくれとか勝手なこと言ってんだから」
ふう、と和司は息をつく。
「……家賃入れるからさ。金ならあるんだ。結構な額の手切れ金と、退職金ももらったから。ただ、やっぱ無職だと部屋が借りられなくてな。仕事見つけて、部屋が見つかるまででいいんだ。頼むよ」
和司の弱い声を聞いて、志生は何度も頷いた。断れるはずがない。何の関係もないわけがない。
「……俺んちで良ければ」
涙で声をぐずぐずに揺らして、志生は和司の依頼を了承した。
その足で二人は志生の部屋に向かったが、その部屋に招き入れるのを、志生は少し、躊躇した。いつも他人を招くときには事前に隠しておくものを、出したままにしていたからだ。
実は少なからず、志生は嘘をついていた。和司にだけではない、吉澤にも、他の誰に対しても。
「あー……、どうぞ」
1LDKの部屋に入り、廊下からリビングに続くドアを開けたとたん、和司はいつも重そうな瞼を見開いた。
「……おい。こら、葉月」
「はい……」
「何がやめただおまえ、大嘘じゃねえか」
「いや、うん。そうね」
目を逸らして泳がせる志生。リビングの奥にはイーゼルが鎮座し、壁際にはキャンバスや画材が大量に並んでいる。
「描いてんだな?」
「ただの趣味だよ……」
「趣味でもなんでもいいよ。描くの、やめてないなら……いいよ、なんだって」
ひどく安堵した様子で、和司は壁際に歩み寄った。
「絵、見ていい?」
「いい……あ、待って、今はダメ」
「何だよ。ヌードでも描いてんの?」
「ないよ、そんなの。でもちょっと、整理してからにして。じゃないと住まわせない」
「うわ、痛いとこ突いてきた。大人になっちまったなぁ葉月」
残念そうに口をへの字に曲げた和司を、志生は苦笑して隣の寝室へ呼ぶ。
「部屋はこっち使って。ベッドは後でシーツとか換えるね」
「え、おまえは?」
「俺はリビングで寝るよ。ソファーベッドになるやつだから大丈夫。帰宅時間も不規則だし、気にしないで過ごして」
「ベッドの下にエロ本とか……」
「ないから」
「ほんとかな~?」
「もう。好きに探せばいいじゃん」
高校時代にもしなかったようなくだらないやりとりをして笑い合えることが、信じられないくらい嬉しくて、けれど同時に嬉しいことが疚しくて、志生は自分の気持ちをどうすればいいかわからなくなった。
和司が結婚すると聞いて、もう和司への恋心には区切りをつけるのだと決めた。いつか自分も彼を忘れて、彼ではない誰かと、それなりの幸せを望めるならそれでいいと思うことにした。異性と恋愛できる彼とは、もとより道が交わることはなかったのだと、諦める他はないと。
それなのに、彼の結婚話がなくなり、恋人とも別れたと聞いたとたん、もうそんな決心はどこかへ消えてしまっている。彼の幸福が潰えたというのに、それを糧にしたように、浅ましい恋心が息を吹き返している。
こんな自分が恥ずかしい。彼の傷を喜ぶような人間だ。昔からずっと、自分の存在が彼を傷つけている。
それでも、好きだと思う気持ちが消えてくれない。どうしても。
だって、和司が傍にいる。高校時代よりもずっと近い、こんなに近づけるなんて夢にも思わなかった距離に。傍で、穏やかに笑いかけてくれている。
諦めるなんて、できっこない。でも――
(――好きだなんて、言えるわけがない)
やり場のなくなった想いはただただ持て余すばかりで、今は胸の奥に沈めて、鎮火してくれるいつかを待つことしかできない志生だった。