secret color -12-


 夜のバーで、志生は人を待っていた。
 そこそこ広くて静かな雰囲気のここは、一見すると普通のショットバーだが、実は客にはゲイが多い。発展場的な場所ではないので、ストレートの客も女性客もいなくはないのだが、初めてここを訪れたときの志生は同類との出会いを目的にしていた。
 出会いといっても、性的な意味合いはない。二十歳になり、自分の性的指向を隠さずにいられる居場所と友人がほしくなり、当時のありったけの勇気を振り絞って来店したのだ。
 マスターも店員も皆いい人で、緊張して挙動不審になっていた志生を優しく迎え入れてくれた。最初にここで恋人探しをするつもりはないと言っておいたから、妙なモーションをかけてくる男から志生を守ってくれたりもする。
 大人になって、ずいぶん生きやすくなったと志生は思う。今の志生の周りには、志生の耳を揶揄する人間はいないし、セクシャリティを認めて受け入れてくれる人もいる。
 孤独で生きづらかった高校の頃とは違う。だから、和司との思い出に縋らなくても、これからも生きていけるとちゃんと思える。
 その志生の隣の椅子が、すっと静かに引かれた。
「よう。待ったか」
 訪れた待ち人を見上げて、志生は微笑む。
「先生」
 横に座ったのは、かつての恩師である吉澤だ。
 志生が吉澤と再会したのは、本当に偶然だった。吉澤も時々この店に足を運んでいた客で、顧客歴は志生よりも長い。ただ二人とも来店頻度がかなり低かったから、二人が同じ日時に店内に居合わせたのは、志生が店に通い始めてから実に五年も経ってからだった。
 お互いに顔を見て、あれ? と指を指し合って、あ、どーも、久しぶり、と会釈した。志生としては蟠りを残した別れを経たはずだったのに、それはそれは拍子抜けするほどあっさりとした再会だった。
 連絡先を交換し、それ以来たまにこうして一緒に飲むこともあるのだが、それもさほど頻度は高くない。
 高校の時にあった身体的な接触も、今の二人の間には全くない。
「どうだった、先週の同窓会。宮村には会えたのか」
 席に座るなり電子煙草を咥えた吉澤は、深く吸い込んだ煙を明後日の方向へ吐き出しながら、志生に訊いた。今日ここで会う約束をしていたのは、その同窓会での報告をすることになっていたからだ。
 吉澤の期待するような報告にはならないことに苦笑して、志生は小さく首を振った。
「……会えたけど、何も言えなかった」
「十年ぶりに会えたのに? 何も話さなかったのか」
「話しはしたよ。でも……気持ちは伝えられなかった」
 伏し目がちに、そっとため息をつく。
「結婚するんだって」
「え」
「相手は勤務先のオーナーさんで、逆玉なんだって」
「……まじかぁ」
 吉澤は、想定外だという顔で顎を擦った。
「俺の今の仕事にも、あんまり納得してくれなかったよ。というか、絵をやめたこと、怒られちゃった」
「絵のことは……俺もまだ全然納得してないけどな。好きな男のためだからって、あっさり才能捨てやがって」
「何度も言うけど、本当に仕事のことは、俺自身がやりたいと思ってやってることだよ。才能捨てたなんて俺は思ってない」
 再会したときに志生が絵を描かなくなったことを惜しんでくれたのは吉澤も同じで、別の道を選んだ理由を厳しく詰問されたけれど、それに対して志生はきちんと説明を尽くせたつもりでいた。
 後悔はしていない。今の仕事に誇りを持っている。
 けれど、「でも」と、今はつい弱い声が口をついた。
「……結果、俺の選択は、無駄だったのかもね。宮村をわかった気になって、自己満足して、十年間何やってたのか。……なんかちょっと、力は抜けちゃったな」
 虚脱感を明かして、志生は椅子にもたれかかる。誰も求めていない、意味のない贖罪にかけてしまった時間にしては、十年は長すぎたようだ。
「まあ、いろんな意味で区切りがついたよ」
 半分は、これで区切りだと自分に言い聞かせるつもりで志生は言って、目の前の吉澤もそれをわかっていて微笑する。
「なら、葉月の自由恋愛もいよいよこれで解禁か?」
 囃すように言われて、志生は苦笑した。
 この十年、ずっと心の片隅で和司を想っていたから、誰からのアプローチも受け入れられなかった。けれどそれももう、避け続けても意味がない。
「……そうだね。この先もずっと一人は寂しいし。もう少し落ち着いて、誰か適当な人がいたらそのときに……」
 好きな人には好いてもらえなかったけれど。好いてくれた人を、好きになることはできるかもしれない。
 そんなふうにこの先は生きていくのだろうと、志生は思った。
「俺でよけりゃ、童貞でも処女でももらってやるから、いつでも声かけろよ」
 煙を吐きながら、吉澤が人の悪い笑みを浮かべる。冗談を真に受ける気はなく、志生は少し困った顔で笑った。


 連絡先の交換はしたものの、連絡することはないだろうと思いつつ、消すこともできないで残り続けるのだろうと思っていた和司の電話番号。表示させては画面を消して、を繰り返しているうちに、志生はすっかりその番号を暗記してしまった。
 ああ、また意味のないことに脳の記憶域を消費して。何を無駄なことをしているんだろう。
 自分に呆れていた志生だったが、件の番号から思いがけず着信があったのは、同窓会から一ヶ月ほどが経った土曜のことだった。
「もしもしっ!?」
 着信に気づいてから応答するまでの反射速度は、これまでの人生の最速を記録したと思う。
『あ、あー……葉月?』
 志生の勢いに気圧されたのか、電話口の和司は少々気まずげで、志生は恥じ入って前のめりだった背を起こした。
「う、うん、どうしたの」
『今ってどこ? 家?』
「そうだけど」
『ちょっと出てこられね? おまえんちの最寄り駅まで行くからさ』
「え、いいけど、何かあったの?」
『いや、んー。会ったら話すよ。ちょっと、助けてほしい。ピンチなんだ』
 そう言われ、少し考えて、けれど頷く以外に選べるものはなくて、志生はくちびるを噛んだ。
「……うん、わかった」
 待ち合わせの場所を伝え、志生は財布と携帯と鍵だけを手に、自宅マンションを後にした。
 正直なところ、突然の和司からの連絡と歯切れの悪いヘルプ要請に、金の無心かな、くらいの懸念は抱いていた。
 和司には会社の名刺を渡しているし、たぶん経済的に余裕があることは悟られている。和司の方の最近の暮らしぶりはよく知らないが、結婚前に何か清算するべきものがあるのなら、最後にそれを用立ててやるくらいはしてもいいかと思ったのだ。
 でも、もしそうならこれきりにしようと、それだけは強く心に決めて志生は足を急がせた。
 惚れた弱みで金づるにされるのは、関係としては最悪だ。もしいくらか貸してほしいと言われたら、その倍額を渡して返済無用と言い置いて、一切の関係を絶とう。恋心も、本当にそこまでだ。
 そんな悲壮な決意を固めて、和司との待ち合わせに向かった志生だったのだが。
「宮村……、どうしたの、それ」
 一足早く待ち合わせ場所に着いていた和司が、海外旅行にでも行くのかという大きなトランクを携えているのを見るなり、志生は呆気に取られてしまった。
「家追い出された」
「……は?」
「ついでに仕事もなくなった」
「え? ちょ、え……何?」
「誠に申し訳ないんですけど、しばらく葉月さんとこでお世話になれませんかね」
「何言ってんの!?」
 自分の置かれた状況が堪えているのかいないのか、飄々と話す和司が信じられない思いで、思わず大きな声を出してしまった志生は冷静になるために長く息を吐く。
 いやもう、全く意味がわからない。
「……はあ。ちょっと、とりあえずどこか入ろう。話を聞かないことにはどうにもなんないよ」
 志生は辺りを見回し、手近なファミレスに和司を連行した。