secret color -11-


「あの……、少しでいいから、話せない?」
 改めて申し出ると、和司は辺りを見回し、近くにあったカフェを目に止めた。
「あのへんにでも入るか」
「あ、う、うん」
 チェーン店であるそのカフェは、若いカップルも多いがビジネスマン風の客もいて、男二人で入るのにも抵抗はなく、落ち着いた内装の一席に座り、志生は少しほっとする。
 対する和司は、店内のあちこちを目だけで眺め回っているようだった。
「……ごめん、人目が気になる?」
 申し訳なさげに問うた志生を、和司は意外そうに見返す。
「ん? いや、全然」
「ごめんね、手短に」
「いやいいよ、べつにこの後予定もないし。ゆっくり話そうぜ」
 そう言うと、和司はゆったりと背凭れに寄りかかった。
 こんな風に、だらりと椅子に座る和司と、放課後の美術室でとりとめもない会話を交わして過ごした。そのことが思い出されて、志生は懐かしく目を細める。
 オーダーを取りに来た店員にアイスコーヒーを二つ頼んで、やっと志生は落ち着いて和司と向き合った。
「最近、どうしてるの。専門学校行って、その後仕事は?」
「今は、ベーカリーカフェの厨房やってる」
 何の気なく訊いた近況への答えに、志生は驚いて目を瞠る。
「え。高校の時バイトしてた叔父さんのお店、割烹って言ってなかった?」
「そうだよ」
「和食とか勉強してるんだと思ってた」
「最初はな。途中で製パン科に転科したんだ」
「パン屋さんになりたくなったの?」
「なりたくなったっていうか……。本格的な日本料理ってなると、俺は無理だったんだよ」
「無理ってどうして?」
 無邪気に問うてしまった志生は、常に動じることのない和司の表情が一瞬曇ったことに気づかなかった。
「……微妙な食材の焼き加減が、わからなかったんだ、俺の目じゃ」
 そう言われてはっとして、志生は声を飲み込んだ。
「生か火が通ってるかくらいはわかるんだけど、特に肉の微妙な火の入り具合がな。やっぱ目で見てちゃんとわからないと、この業界じゃきついかなって。その点、パンは温湿度と時間管理が重要で、あと焼き色も判別しやすくて向いてたんだ」
 淡々と、感情的になるでもなく和司は語る。
 諦めたのか、などとは、間違っても言えなかった。
 諦めざるを得なかったのだ。持って生まれた特性ゆえに。志した道を転換しなければならないと突きつけられたときの、そしてそれを受け入れるまでの葛藤を、志生に推し量ることなどできない。
 口を噤んだ志生を見やって、ふっと表情を緩めて和司は視線をよそへ逸らす。そのタイミングで、頼んでいたコーヒーが二つ、運ばれてきた。
「まあ、いいんだよ。結果オーライだ。俺はもうすぐそのカフェのオーナーと結婚して逆玉だしな」
「……え」
 グラスに伸ばした指先が狼狽えて、思わず取り落としそうになる。
 聞き間違えたかと和司を凝視してしまったけれど、彼の視線は志生には向いていなかった。
「学校卒業して、今の店に就職して。たまたまそこのオーナーに気に入られてな。付き合い始めて……あっちが年上なのもあって、とんとん拍子に話が進んでんだ。仕事にも金にも困りそうにないのは正直助かる」
 照れ隠しなのか何なのか、妙に和司は他人事のように語る。けれどその和司の言葉も、動揺のあまり志生の耳を素通りしていく。
「そ……そうなんだ、結婚……」
 べつにそんな話があっても何も不思議ではない。お互い二十代も後半なのだし、和司の方は志生と違ってストレートだ。
 それでも聞かされたその事実がひどくショックで、再会できたら結果はどうあれ告白しようと意気込んでいた志生の決意はあっけなく霧散した。
「……そっか。おめでとう」
 言えることはそれしか見つからなくて、無理やり口角を上げて祝福する。それに和司は「うん」と頷いて、「おまえは?」と志生に水を向けた。
「絵やめて、どんな仕事してんの」
「え、あ、えぇとね」
 問われて慌てて、志生は持っていた携帯の仕事用フォルダを開いて和司の前に示した。
 想いを伝えることはもう何の意味もなくなってしまったけれど、和司を想って全力で取り組んできた成果を報告することは、彼を傷つけたことに対する贖罪に少しでもなりうるのではないかと考えたのだ。
「カラーユニバーサルデザインっていう、色の見え方の個性に配慮したデザインの勉強をしてたんだ。視覚にはたくさん個性があって、いろんなタイプがいる。人によって見分けるのが得意な色もあれば苦手な色もある。でも大事な情報は、得手不得手に関わらず、全ての人にきちんと伝わらなきゃいけない。そういう色使いを意識してデザインを作ったり、他のデザイナーと一緒に検討したり、そういう仕事をしてるんだ」
 見せたのは、志生が手掛けた企業サイトの一ページだった。
 色数を抑え、ほとんど濃淡とフォントのみで強調を表現したそのページは、きっと志生の目にも和司の目にも、同じように映っている。
 そういう心配りができるようになった自分で、和司と再び会いたかった。同じ世界を見ることはできなくとも、彼に見える世界を想像できる自分になりたかった。
 そうなって初めて、ちゃんと和司に謝ることができると。
「……あの頃の俺は無知だったから。気づかないうちにきっと、宮村に嫌な思いをたくさんさせて、傷つけてしまったんじゃないかと思う。今日会えたら、そのことを謝りたいって、この十年ずっと思ってきたんだ」
 携帯をテーブルに置き、自分の膝に両手をついて、志生は和司に頭を下げる。
「本当にごめん」
「……」
 そのまま、二人の間にすとんと沈黙が落ちた。
 和司が何も言わないので、志生はそろりと、上目で彼の様子を窺う。すると和司は向かいから身を乗り出し、眉を寄せた険しい表情で、志生の携帯を覗き込んでいた。
「……なんでおまえが謝るんだ」
 低い声に、志生は顔を上げる。
「俺の目のことで、おまえに謝られる謂れはない」
「……! ごめ……、俺……」
「おまえはそんな、気にする必要も意味もないことを気にしてこの十年、せっかく持って生まれた絵の才能を無駄にして生きてきたのか」
 一瞬、志生は和司から、自分とは何の関係もないのに思い上がるなと線を引かれたのだと思った。けれど続いた和司の言葉に、彼が絵を描かなくなった志生を案じてくれていたことを知る。
「絵のことはよくわからない。でも雑誌で絵画展がどうのって見るたびに入選者におまえの名前を探して、ネットでも検索して、だけどおまえの絵の情報は全部高校止まりで。なんでやめちまったんだって考えたけどわかんなくて、そしたらこの十年、そんなこと気にしてたなんて……」
 忌々しげに吐き出して、和司は目元を覆い、前のめりになっていた上体を椅子の背に凭れさせた。
「……俺のせいか。おまえが絵をやめたのは」
 力ない呟きに、志生は慌ててかぶりを振る。
「違うよ! 俺は自分の意思で、そういう勉強をしたいと思ったから」
「でも俺みたいなのがいるって知らなければ、そっちの勉強をしようなんて思わなかっただろ。俺がおまえのやりたいことを歪めて……」
「違う、宮村。俺は知れて良かった。自分とは違ったふうに世界が見えてる人がいること。わかり合いたいと思ったんだよ。宮村と、同じ世界を共有したかった」
 必死に言葉を連ねるけれど、嘘はないはずの志生の言葉にも、しかめてしまった和司の表情は晴れない。
 十年間の宮村に対する想いはやはり伝わらないのだと、志生はそっと、熾火を残した胸の底に蓋をした。
「……でもそれも、独り善がりだったかもしれないね」
 わかり合うことなど、和司は望んでいなかったのだと知って、志生は瞼を伏せる。
 和司もしばらく、どう言っていいかわからないような顔で、黙って俯いていた。