secret color -09-


 和司が美術室を訪れなくなり、二人が接点を失ってからの日々は、あっという間に過ぎていった。
 美大受験に向かう傍ら、志生は色覚に関する文献を読み漁った。少しでも和司のことを理解したいと考えたからだ。
 けれどそれが、志生を打ちのめすことになる。
 文献によれば、色覚異常は気づかずに過ごす人も多いのだという。確かに色覚は当人にしかわからないことで、色のセンスを他人からとやかく言われることがあったとしても、異常を疑うきっかけさえなければ、個人の趣味嗜好の話で片付いてしまう。
 けれど、和司はそれに気づいてしまった。気づくきっかけを、志生の絵が作ってしまったからだ。和司は志生のせいで、しなくていい自覚をしたことになる。
 意図的ではないにせよ、自分の絵が誰かを傷つけた。よりによって、ようやく親しくなれた特別な人を。
 そのことが、ひどくショックだった。
 和司に会わない日々は、寂しいようで、会わせる顔がない志生にとってはある意味安寧でもあった。
 そうして残りの高校生活は過ぎてゆき、志生は卒業の日を迎えた。
 志望の美大には無事合格。春からは一人暮らしをすることになっている。
 和司も調理の専門学校に通うことが決まったのだと、顧問の土橋が言っていた。自分では調べられなかったと思うから、土橋のお節介でお喋りな性格に、このときばかりは感謝した。
「宮村くん、最近来なくなっちゃったわねぇ。喧嘩でもしたの?」
 のほほんと問われたときには、苦笑いしかできなかった。一方的に喧嘩腰だった最初の頃ならいざ知らず、打ち解けてからの和司とは、喧嘩をするような間柄ではなかった。
 ではどんな間柄だったのかと言われると、志生にはうまく説明できない。
 一時期、何気なくくちびるを重ねることがあった。そんな関係を、何と言い表せばいいのだろう。
 卒業式の後、打ち上げに行くの行かないのと盛り上がっている教室からそっと抜け出して、志生は美術室へ向かった。
 どの教室より、長く時を過ごした部屋。吉澤との秘め事も、和司との接触も、何より没頭した創作も、志生の高校生活は全部あの部屋に詰まっている。
 階段を上がってすぐの廊下に飾られた、志生の描いた彼岸花。それを軽く見上げて通り過ぎると、入ろうとした美術室の中に、先客がいることに志生は気づいた。
「……宮村……?」
 呼び掛けると、部屋のほぼ中央で佇んでいた背中が振り返る。
「……よう」
 和司は志生の姿を見て、微笑んだ。
「ど、どうしたの、こんなところで」
 顔を合わせるのも言葉を交わすのも何ヵ月かぶりで、緊張した志生は敷居の上から動けなくなる。
「ここにいれば葉月が来るかと思って」
 けれど自分を待っていたと告げる和司の柔和な表情に、引き寄せられるように志生の足が進む。
 少しの距離を置いて和司と向き合って、本当は和司に会いたかったのだと、痛切に志生は実感した。
 会いたかった。声が聞きたかった。顔を見て、和司に謝りたかった。
 けれどいざ実際に生身の和司を前にすると、うまく言葉が出てこない。
「……美大、受かったってな」
 和司に話題を振ってもらって、志生はかくかくと頷いた。
「う、うん。宮村も、専門学校決まったって」
「んー。資格取って、自分の店持てるように頑張んないとな」
「お店持つんだ!」
「いつかはな。実現するにしてもだいぶ先の話だよ」
 すごい、と逸った志生に苦笑して、宮村は腕を伸ばしてきた。ぽん、と志生の頭に手をのせ、そのままくしゃくしゃと髪を混ぜる。
「……おまえは、いっぱいすげぇ絵描いて、いっぱい賞取ったりすんだろうな」
 その視線にひどく距離を感じて、志生は離れていく和司の手を惜しむように見送った。
「……また会える?」
 口をついた心細い問いに、和司はふと視線を外す。
「会えるだろ。俺も同窓会とかには行くつもりだし」
 そういう公の場以外で個人的に会うつもりはないと言われたような気がして、連絡先を交換させてほしいと頼みかけていた勇気がしぼんで消える。
「……そ、っか」
 何か気の利いたことを言わなければと、焦るほどに喉が絞まるようで、卒業証書の筒を握る指先に甲斐なく力ばかりがこもる。
 そんな志生の落ちた視線の先で、和司が一歩、こちらへ向けて踏み出した。
 目の前に歩み寄ってきた和司の左手が、志生の右耳にゆっくりと伸びてくる。横髪を掬ったその指が補聴器に触れても、志生は嫌悪を感じなかった。
 そっと機械を外されて、志生の右耳から音が遠ざかる。
 その右耳に、和司はくちびるを寄せた。
「――」
「……え?」
 何か囁かれたのはわかった。けれど内容はまったく聞き取れなくて、問い返して見上げた志生に、和司は少し寂しそうに口角を上げた。
 そのくちびるが、志生のくちびるに重なって、離れる。
「……じゃあな」
 外した補聴器を志生に手渡して、和司は志生の横をすり抜けていく。
 呼び止めなくてはと思うのに、喉が痞えて声が出ない。
 何て言ったの。聞こえなかった。もう一度聞こえるように言って。ああ、それだけじゃない、俺もまだ何も言えてない。ごめんって、謝りたかったんだ。
 けれどさして広くない美術室から和司が出ていくのはあっという間で、振り返りもしない彼の後ろ姿は、ドアを通ってすぐに左に曲がって消えてしまった。
 右耳が、くちびるが、じんじんと熱い。
 和司の姿が見えなくなってようやく、志生は自分の喉を塞いでいたものの存在を認識した。
 謝りたかっただけではない。伝えたかった。
(……宮村が、好きだ)
 今さら気づいても、もう遅いのに。
 傷つけることしかできない自分では、それを云う資格もない。
(宮村……)
 いつでも愛想のない顔が、ごく稀にやわらかい感情を見せた。その表情を思い返すと、胸が締め付けられるように痛んだ。
 寒い、一人きりの教室で、長く立ち尽くしていた。
 涙が止まらなかった。