その謎は、しばらく経って解き明かされることになった。
夏休みが明け、朝夕の暑さが少し和らいできた九月。放課後、和司はバイトの日で土橋も帰った美術室で、遅くなってしまった志生は帰り支度を急いでいた。
画材を片付けて鞄を抱え、早く帰らねば生徒玄関が施錠されてしまうと、慌てて美術室を出たところで、いないはずの和司と鉢合わせした。
「宮村!? 今日バイトは?」
驚いた志生に、和司はすいと視線を向け、すぐにまた壁に向き直ってしまう。
和司は、志生の描いた彼岸花の群生を見上げていた。
「……見てきた。本物」
静かな低い声が、壁を向いたままぽつりとこぼれる。
「ずっと、見たかったんだ。おまえがどんな景色を見て、どんなものを描きたいと思ってるのか。知りたかった」
「宮村……?」
普段からテンションは常時低空飛行な和司だが、それとは明らかに違う気落ちを見て、志生は動揺した。
強い人だと、思っていた。
簡単に人との繋がりを切ってしまえる薄情さの一方で、人から疎まれる自分のような人間を友人と呼んでくれて。補聴器をなくして困っているその友人を、躊躇いなく助ける優しさを持ち合わせていて。
揺らがない姿に憧れを抱いていたのに、その彼が今、自分の絵の前で明らかに弱っている。
「ごめん、葉月。俺……」
脈絡なく謝った和司の声の続きを、聞きたくない、と志生は思った。良い予感がまるでしない。
「……おまえの絵の良さが、俺にはわからない」
落とされた呟きは、思った以上の衝撃を志生に与えた。
脳天を鈍器で殴り付けられたみたいだ。どこかが痛くて死にそうだと思うのに、足が竦んで逃げ出すこともできない。
これ以上傷つきたくなくて、防衛本能で志生は半笑いを浮かべていた。
「し……仕方ないよね。俺の絵なんかさ、興味がない人にとってはさ、何の意味も何の価値もない落書きで……」
「そうじゃない」
自分の絵を否定されたのだと思って自虐した志生を遮るように、和司は首を振る。
「……前から、薄々気づいてはいたんだ。色の話になると、なんでか誰とも噛み合わない。おまえといて、その理由がわかったよ。俺は普通の人とはものの見え方が違う。おまえの見ている色が、俺には同じように見えない」
「え……?」
和司の言う意味がわからなくて、志生は眉を寄せた。わからないのも無理はないと、和司は小さく苦笑して両手で眼前の絵を指差した。
陰影が強調された、日陰に咲く彼岸花の、赤い花弁と緑の葉。
「こことここ、違う色なんだろ?」
「何言って……」
当然じゃないか、と志生は眉を顰めてしまう。その表情に、和司は浮かべた笑みの苦さを深める。
「俺にはあんまり、区別がつかない」
「……えぇ?」
一瞬、からかわれているのだろうかと訝った。けれど、和司は口元から笑みを消し、壁の絵を見上げる。
「色弱とか、色盲とか、色覚異常とか。そういうもんらしい。おまえには縁のない話だから知らないだろうな。要するに俺はまともに色の識別ができなくて、おまえの描く絵の本当の美しさなんか理解できないんだ」
和司の言った色弱という言葉は、志生も聞いたことがあった。生物の授業だっただろうか。X染色体に影響される形質で、男性の中には結構な割合でそういう人がいると。
いろんなタイプがあるらしいが、例えば赤色を認識する視細胞を持たない場合、赤と緑を区別することができないとか。それを聞いて、では信号の色を区別できないではないかという話でクラス内がどよめいたのだが、教師が青信号はそういう人でも見分けがつきやすいような調整が施されているのだと解説して、皆納得したという一幕があった。志生もそのとき、普段自分が意識しない配慮が社会の中に存在することに感心した覚えがある。
けれど和司の言う通り、志生には縁のない話で、授業の中で得た知識のひとつにすぎず、それが身近な人にあるものだとは考えたこともなかった。
自分の見た、描き出した美しいものを、それを見た人といつでも共有できているものだとばかり。
「……おまえの描く絵が好きだった」
その考えが誤りだったことを知る。
「でも俺には、おまえの絵を好きだなんて言う資格はない」
弱い笑みを浮かべる和司に、何か弁解したいと思った。
「じゃあな」
けれど踵を返す和司を、呼び止めることもできない。呼び止めたところで、言える言葉など見つからない。
待って、と、声にならない叫びが喉に引っ掛かって、ひどく痛んだ。
和司が消えた階段の先をいつまでも志生は見つめていて、その頭の中を和司の言葉がぐるぐると回っていた。