進級して三年生となり、志生は相変わらず部員不足の美術部部長で、放課後は美大受験を視野に入れて絵を描き続ける。
その隣には、やはり相変わらず和司がいたりいなかったりだった。
吉澤がいなくなって、なんとなく志生は和司と距離を取るようになり、くちびるが届く間合いには入らなくなっていた。そんな志生に、和司も踏み込んではこない。
「葉月くん、廊下の絵をこの間のコンクールの受賞作と入れ換えようと思うんだけど、どう?」
新年度に他校から赴任してきた美術教師は
「はい、いいです」
「ホント? 先生この絵好きなのよ、光るみたいな赤が鮮やかで。ふふっ、今から掛け替えちゃうわね」
「お願いします」
パタパタとスリッパの音を鳴らして土橋が廊下へ出ていくと、部屋の隅で雑誌を読んでいた和司が小さく舌打ちをした。
「……うるせぇな、土橋。喋ってねえと死ぬのかよ」
ぼやく和司に、同感だと思いつつ志生は苦笑いを浮かべる。
「まあまあ。そう言わないでよ、うちの顧問なんだから」
「おまえも吉澤の方が良かったんじゃねえの」
軽口のように問われて、志生は瞼を伏せた。
「……どっちでも同じだよ。どっちもただの、顧問だ」
吉澤を思うとまだ胸は痛く、振り切るように志生は甘い記憶を深く沈める。
「廊下に飾る絵って、あの、去年描いてた赤い花のやつ?」
特に追及するでもなく、雑誌に視線を戻した和司が問うた。
「うん、彼岸花の土手の」
「おまえが描いてたとき、どこに咲いてんのか聞いただろ。見に行ったんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。でも見に行ったときにはどこにも咲いてなかった」
「そりゃそうだ、描き始めたの寒くなってからだったもん」
「でも、だから余計に、おまえにとって印象的な風景だったんだろうなと思ってさ」
いつもと変わらない、熱のない声音で、ページを繰りながら和司が言う。黙ってその興味もなさそうな顔を見つめていたら、不意に視線を上げた和司と目が合った。
「おまえ、描くとき写真見たりしないじゃん。その描きたい景色が、よっぽど記憶に残ってるってことなんだろ?」
どきっとした。興味なさそうなくせに、意外と和司は志生を見ている。
「……そうだね。すごくすごく描きたいものを見たとき、なんか頭の中にその光景が写真みたいに焼きつくんだ。描かずにいる間、ずっとその写真を見続けてるみたいな感覚になる。寝てても何してても、ずーっと。で、こらえきれずにそれを描くと、気が済んだみたいにその写真のことを思い出さなくなる。頭の中の写真が絵になって出てくるみたいな感じ」
「へえ……それがおまえの絵か」
和司が不思議そうな顔をするので、志生は苦笑した。
「たいがい変人だろ、俺」
「変人? まあ凡人じゃなさそうだな」
パタンと手元の雑誌を閉じて、和司は意地の悪い笑みを口許に浮かべる。
「部員が増えないのも頷ける。部長がこんな天才肌じゃ、そりゃやる気も削がれるわ」
「えっ? 俺のせいだって言ってる?」
「見学に来た下級生に、自覚なく頓珍漢なアドバイスしてんだろ? 部長やべぇやつだって、怖がられてんだぞきっと」
「うそぉ」
心外だ、と眉を寄せた志生はしかし、確かに下級生から『どうやったら絵が上手くなりますか』という無邪気な問いを向けられた際、『描きたいままに描けば誰でもこんなふうに描ける』などと大真面目に返して、あまりの参考にならなさにがっかりされることがしばしばだった。
あの何も伝わっていない感じはもしかして自分が悪かったのかと、納得いかずに首をかしげる志生をからかうように笑って、和司は鞄に雑誌をしまい始めた。
「……今日もバイトだよね」
「おう」
和司は高校卒業後は、調理師を目指して専門学校に通うことにしている。今はそれに向け、叔父の切り盛りする割烹でのバイトを週四日に増やして、修行を積んでいるところだ。
家庭科の授業で、キュウリを制限時間内に一定数薄切りにするという課題すら満足にこなせなかった志生にしてみれば、料理ができるというだけで和司は尊敬の対象だ。
「バイトがんばってね」
「おう。じゃあな」
軽く片手をあげて、和司は部屋を出ていった。
それから少しして、廊下の絵を掛け替えに行っていた土橋が戻ってくる。
「あの子、宮村くん。ほんとに、よっぽど葉月くんの絵が好きなのねぇ」
「えっ」
にこにこと土橋が言う言葉に、他意などないはずなのに志生は反応してしまった。志生の赤面には気づく様子もなく、土橋は志生の書きかけの絵を覗きこみ、「まーきれいな空ねぇ」などと感嘆の声を上げる。
「な、なんで、宮村が俺の絵が好きって?」
「だって。さっきも廊下で立ち止まって、しばらく絵を眺めてから帰ったわよ。彼、美術室の前で見かけるといつも葉月くんの絵を見てる。何度見ても見飽きないのね、それくらい好きなのよきっと。葉月くんのファン第一号かしら」
「ファンなんて……」
わざわざ否定するのも口はばったく、志生はただ頬をかっかさせて俯いた。
その横でふと、頬に手を当てて土橋が天井を仰ぐ。
「彼もね、けっこういい絵を描くのよ」
それを聞いて、志生は一気に興味をそそられた。そういえば和司の描いた絵のことなど、これまで話題にもしたことがない。
「え、宮村の描いた絵なんかあるんですか?」
「この間の美術の授業でね。一週目に静物画のデッサンをして、二週目に水彩で色をつけたの。なかなか写実的ないいデッサンだったんだけど……」
パタパタと、土橋は生徒の作品を収めた棚に駆け寄り、一枚の画用紙を持ってきた。
「勝手に見せたら怒られるかしら……内緒にしててね。なんていうか、独特の色使いをするのよ、宮村くん。個性的で、これはこれでいいと思うんだけど、ちょっと意外でね」
渡された画用紙には、教卓上の花瓶に活けられた花束が描かれていた。
素描は志生の目にも上手と言える出来で、花束にチューリップやガーベラなど、いろいろな種類の花が含まれているのがよくわかる。
けれど、色とりどりの鮮やかな花束であっただろうそれらは、全体的に彩度の低い、単調な色調で色付けされていた。
「色を塗る段階で面倒くさくなったのかとも思ったけど、それにしちゃ塗り方はとっても丁寧よね。彼なりの感性で描いてくれたんだと評価することにしたんだけど。変わった絵を描くと思わない?」
「確かに……そうですね」
色使いの多彩さに定評のある志生の絵を熱心に見ているという和司が、自身の絵にそんな単調な色付けをしたということが、ひどく志生の心に引っ掛かった。
それと同時に、和司が美術室通いを始めた当初、カラーチャートや色相環をよく見ていたことも思い出す。
色への関心が強いだろう和司が、なぜそんな不思議な彩色をしたのか。
人によっては、素描は得意だけれど彩色がとても不得手だという人もいる。和司もそのタイプなのだろうかと、志生は思うことにした。