キスをされた。
その事実については、志生はきちんと理解していた。ファーストキスなわけでもない。それ自体は大騒ぎするほどのことではない。
が、わからないのはその後のことだった。
翌日以降も和司は頻繁に美術室を訪れ、以前と変わりなく暇そうに時間を過ごしていた。
どうしてキスなんかしたのか、についての説明も弁解もない。照れる様子も意識している様子もない。
なので志生からはその話題には触れられなかった。
そして触れずにいたところ、時折、和司が志生にキスをしてくるようになった。
会話がふと途切れた瞬間であったり、帰り際であったり、初めての時と同様に、なんの脈絡も前触れもなく。
感情のこもらない、まして愛情など欠片も感じられないそのキスは、回を重ねるにつれていっそう志生の困惑を深めていった。
吉澤とこれまで何度も交わした深いキスよりも、触れるだけの和司とのキスの方が、心臓を直接掴まれるような感覚になるのは何故なのか。和司の意図のわからなさが、何故こんなにも不安なのか。
(――怖いからだ)
たぶん和司に意図などない。ゲイとのほんのり性的な接触の物珍しさとか、手近だからとか、なんとなくとか、その程度だ。
訳を問うてしまって和司が我に返ったなら、もう彼は美術室へは来ないだろう。
そのことが、寂しいどころではない、もはや志生には恐怖なのだ。
「……葉月?」
気遣わしげに名を呼ばれ、はっと志生は意識を引き戻された。至近距離で吉澤が覗き込んでいる。
「あ……な、に? 先生」
取り繕った志生に、志生の襟元を緩めようとしていた吉澤は少し困ったように笑った。
「上の空だな。気分が乗らないか」
「え、なんで? そんなことないよ」
今日は美術室側も施錠して照明も消してあるし、何より和司はバイトの日だ。誰かに見られることを気にする必要はないし、吉澤との時間は志生自身が望んだもののはず。
なのにその腕の中で別の物思いに囚われていたのは確かで、動揺した志生の着衣を吉澤は手早く直してしまう。
「まあ、そういう日もあるさ。今日は帰ってゆっくりしたらどうだ。コンクールに出す作品、まだ迷ってるんだろ」
「あ、うん……締め切りまでにはちゃんとします」
「焦るな焦るな。焦ったっていいこと何もねえよ」
吉澤の軽い口調。それと裏腹な見透かすような視線に深く射られ、志生は自分でも図りかねる自身の腹の底を探られたような気がした。にわかに脈が走る。
教えて、と吉澤に縋りそうになる自分がいる。
この苦しさは、この怖さは何? どうしたらいい?
でもそれを吉澤に乞うのは何か違うともわかる。
この時志生は、吉澤の手を取り損なった。
そしてその日を境に、吉澤は志生に触れることをしなくなった。
何も変わらないまま季節は移ろい、秋のコンクールに出品した志生の作品は再び入賞を果たし、二年連続の快挙にローカル新聞の取材を受ける騒ぎとなった。
それも間もなく落ち着き、冬を過ぎて上級生は卒業してゆき、明日から春休みに入るという終業式の日。
離任式で名を呼ばれて壇上に並ぶ教師の中に吉澤がいることに、志生は足元が抜けるような感覚に陥った。
勤続五年。隣の市の県立高校に異動するのだという。
(うそだ)
穏やかな笑みで離任の挨拶をする吉澤を見上げながら、無意識に志生は両の拳を握り締めていた。
(転勤なんて。聞いてない。そんな大事な話、本当だったら先生は前もって俺に教えてくれるはずで……)
否定したくとも壇上の吉澤は深い礼で挨拶を終え、ホームルームで配られたプリントにも離任職員一覧に名を連ねていた。
吉澤がいなくなる。
誰よりも、志生の絵を理解してくれた人。普通と違う志生を、初めて受け入れてくれた人。
いなくなるなんて、考えたこともなかったのに。
吉澤との別れを惜しむ女子たちの波が引くのを待って、夕方遅い美術準備室に志生は向かった。もう暗いその部屋で、スタンドの明かりの下で吉澤は何か書き物をしていた。
「……先生」
声をかけると、吉澤はペンを置いて顔を上げる。
「葉月か。どうした?」
何事もないような口振りに、志生は吉澤にとっての自分がただの一生徒だったのかと愕然とした。
「どうして……転勤になること、教えてくれなかったんですか」
引かれた一線が急に可視化されたようで、志生の口調も固くなる。そんな志生に、吉澤は困った顔で笑った。
「どうしてって、教員の人事情報を生徒に洩らすわけにはいかないからな」
「いつからわかってたの?」
「内示は、まあ、少し前に出てたな」
「俺のせい?」
急いた声に、吉澤は目を見開いた。
「俺とのことが、誰かにばれたりした?」
「それはないと思うぞ。なんでそんなこと。俺くらいの歳の教員が、数年間隔であちこち動くなんて普通にあることだ。なんでおまえのせいなんて思うんだ?」
当惑した様子の吉澤の否定に、志生はほっとした。
実は少し、和司を疑う気持ちがあった。和司には吉澤との関係を知られている。和司がリークしたことで、吉澤が飛ばされることになったのではないかと。
そんなことを疑った自分が心底嫌だった。
和司がそんな、何のメリットもないことをするはずがない。面白半分で密告するようなやつじゃないし、和司が吉澤を疎む理由もない。
もしかして和司が自分を好きで、吉澤を邪魔に思ったのではないかなどと、そんな思い上がりがわずかにも存在したと思うと恥ずかしくて消えてしまいたくて。
「……教えてくれても、良かったんじゃないの」
その羞恥を、愚かにも志生は吉澤への八つ当たりに転嫁した。
「俺は先生の、ただの生徒じゃなかったはずでしょ?」
らしくなく強い志生の声に、吉澤は困り顔のままうぅんと唸る。
「……まあ、俺はおまえに触っちまったからな。教師と生徒でやることじゃなかったわな」
触れ合うようになったきっかけを探すように、吉澤の視線がふと遠くなった。
「おまえには……何か支えが必要だと思ったんだ。片耳が不自由で、そのことでいじめられてて、さらに同性愛者で。自分の何にも自信を持てないおまえを、支えたかった。おまえが自分を受け入れて、自分の才能をきちんと認めてやれるように、俺がその手助けをしたかった。おまえの絵の才能は、本当に素晴らしい」
吉澤との触れ合いに色恋とは程遠い理由がついていくのを、なす術なく志生は聞く。
「でも、おまえが今支えてほしいのは……もう俺じゃないだろ?」
吉澤が、愛情も恋情も伴っていなかった手を離そうとしているのだと、ただ知る。
「先生は……」
一縷の望みを繋ぎたくて、縋る思いで絞り出した。
「俺を、好きじゃなかったの?」
問う声に、なぜか悲しそうに、吉澤は笑う。
「……おまえは、俺を好きだったことがあったか?」
貧血を起こしたみたいな暗い視界で、美術準備室を逃げるように辞去した志生は闇雲に家路を走った。
好きだから触れ合っていたのだと思っていた。
最後まで、は一度もしなかったけれど、互いの間に気持ちはあるものだと。
恋じゃなかった? 吉澤の腕の中で早まったあの鼓動は。感じたあの深い安寧は。与えられ、自分も注いだと思っていたあの情は、愛ではなかった?
足元が揺らいで立っていられず、逃げ込んだ自室で志生は蹲る。
頭から布団をかぶってしまえば目の前は真っ暗で、それはそのまま見失ってしまった自分の気持ちのようだった。