志生が和司を無視しなくなり、会話が通い合うようになると、和司はよく志生に話しかけるようになった。
とはいえ、二人とも口数が多い方ではないので、長く話し込むことはない。時折、志生の使う画材について、和司が「何それ?」などと訊いて、志生が答える。そのくらいだ。
「これはメディウムっていって、アクリル絵の具にいろんな性質を持たせられる溶剤だよ。これが艶出し、こっちは艶消し、これは乾きを遅くできて、これは油絵みたいなタッチで描けるようになる。他にもいっぱい」
「……ふぅん、いろいろあんだな」
興味があるんだかないんだかよくわからない相槌をついて、和司はいつもの椅子に戻っていく。特に気にせず、志生は絵に戻る。
志生の集中が高まっているときには、和司もわきまえて話しかけてはこない。いや、ただ話しかけられていることに志生が気づいていないだけかもしれないけれど。
たとえ集中の尾を切られるようなことがあっても、志生は不快に思わなくなっていた。
時々は志生からも和司に話しかける。絵に関係のない、日々の話もした。
和司が美術室に来ない火曜と木曜は、親戚の経営している割烹でアルバイトをしているのだと聞いた。そのお陰で実は料理が得意なのだと、意外な特技も知った。
恥ずかしいから言うなよ、と軽く口止めされたから、他の皆は知らないことなのかもしれない。
少しずつ、探り合うでもなく、自然と互いについて知っていく。クラスにも取り立てて親しい友人がいるわけではない志生にとって、それは少し面映ゆいような感覚を伴った。
和司のことを、あの笑みを思い返すと、なんだかふわふわと気持ちが浮わつく。
その理由を考えることが、志生は少し怖かった。
和司がアルバイトで来ないはずの火曜日、いつものように授業が終わるなり志生は美術室で画材の準備を始める。
先日和司に用途を問われたたくさんのメディウムも並べて、冷房を入れようと窓を閉めかけたところで背後のドアが開いた。
和司ではないはずだから吉澤かと、無防備に振り返ってみると、そこに大垣サクラが立っていた。思いがけない来訪者の姿に、志生の全身が硬直する。
「……葉月、最近和司と仲いいんだって?」
薄ら笑いを浮かべ、サクラが低い声を立ててゆっくり歩み寄ってくる。
「なんでおまえみたいなのと和司がつるんでんの? 接点ゼロじゃね?」
訊かれたって志生に答えられることではなく、むしろこちらが訊きたいくらいだった。
「知らないよ……彼が急にここに来るようになって」
「ふうん? 和司もこんなとこに用なんかなさそうなもんだけどね。まあいいや。で? 和司と仲良くお話ししながら、あたしの悪口吹き込んでたわけ?」
「え……」
「おまえだろ、和司にあたしのこと悪く言ったの」
近づいてきたサクラが、志生のエプロンの胸倉を華奢に見える手で掴んでくる。志生の方が長身なので、引っ張られてサクラの眼前まで引き下ろされた。
「あたしにいじめられてたって、情けない過去チクって楽しかったか。助けてぇ、仕返ししてぇって、和司にお願いしてみたか」
「……っ」
サクラ相手に染み付いた奴隷根性が、志生の声を喉元に押し留める。
小学校の頃とは違う、今はもう背も力も自分の方が上なはずなのに、志生はサクラに逆らえなかった。
「……ちょっと話せるようになったからって、勘違いするなよおまえ」
怒りに燃えたサクラの目に睨め据えられて、志生はただ眉を寄せる。
「おまえみたいなのを、和司が本気で相手にすると思うなよ。和司とおまえじゃまるっきり釣り合いがとれないんだよ。障碍持ちの陰キャが和司の周りチョロチョロすんな。気色悪い目障り野郎」
吐き捨てるように言ったかと思うと、細い指が顔に向かって伸びてきて、殴られるかと反射的に身構えて志生は目を閉じた。
「……あっ」
と声が出たときにはもう遅かった。サクラの手にもぎ取られた補聴器が、閉めそびれた窓から放物線を描いて落ちていく。
「うっざ」
窓から身を乗り出して落ちた先を覗きこみ、慌てて部屋を飛び出した志生の背に罵言を吐きかけて、サクラは小さく笑った。それを振り返らないで、志生は階段を駆け降りた。
美術室は三階。落ちた先は、校舎裏の植え込みの中。コンクリートに直撃したわけではないから、たぶん壊れてはいない。でも密集した
過去二回、補聴器が壊されたときのことが思い出された。志生が高価なそれを粗末に扱うはずがないことをわかっていて、事情を察したのか悲しそうに肩を落とした母の姿。
――ごめんね、そんなふうに生んで。
心底申し訳なさそうに謝る母の声を、聞いていられなかった。自分が痛め付けられるより何より、あんな母の姿を見なければならないことの方が、よほどつらかった。
高校生になってまでこんな目に遭っているなどとは、絶対に知られたくない。探し出さなければ。
校舎裏に回り、湿った植え込みの根元に志生は這いつくばった。半袖のシャツから伸びた腕に、小枝がいくつも擦り傷を作ったけれど、気にはしていられない。膝を汚しながら、伸びた下草を掻き分けた。
懸命に探すけれど、小さな機械はなかなか見つからない。何度も美術室の窓との位置関係を確認しながら、額から流れ落ちてくる汗を汚れた手で拭ったところで、「葉月」と名を呼ばれた。
片耳しか聞こえないので、どこから呼び掛けられたのかが瞬時にはわからない。顔を上げて辺りを見回すと、植え込みの向こうのフェンスのさらに向こうに、帰宅途中であろう鞄を提げた和司が立っていた。
「……あ……」
「そんなとこで何やってんだおまえ」
怪訝そうに尋ねる和司に、惑って志生は額を押さえた。
「……窓から、補聴器……落っことして。探してた……」
だんだん小さくなる志生の返事を聞き、和司は校舎を見上げる。そして再び志生へ視線を下ろすと、おもむろに携帯を取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。
「……あ、俺。お疲れっす。急で悪いんだけど、今日遅れそうなんだけど大丈夫? ……うん。や、友達が補聴器なくして困ってんの。……え? 違う、補聴器!」
話しながら校門の方へ戻り、ぐるりと回って和司は携帯をしまいながら志生の元へやって来た。
「なんでダチが包丁持ってんだって疑われたわ。空耳過ぎんだろ」
鞄を下ろして植え込みにしゃがんだ和司を、志生は呆然と見下ろす。
「……宮村、今日バイト……」
「聞こえてなかったか? 今店長に遅れるって連絡入れたんだよ。店長っつっても叔父さんな。小さい暇な店なんだよ。見つかるまでつき合ってやれっつわれたから大丈夫」
どうしていいかわからず突っ立っている志生の膝裏を、和司は軽く叩いた。
「ほら、探すぞ」
愛想笑いのひとつも浮かべないその顔が涙でにじみそうになって、志生は慌てて灌木の根元にしゃがんだ。
自分のことを、友達だと言った。補聴器を一緒に探してくれるために、バイト先に遅刻の連絡を入れてくれた。
嬉しくて仕方ないのに、喜びの裾を踏むものがある。
――和司とおまえじゃまるっきり釣り合いがとれないんだよ。
サクラの罵声が、やけに鋭く胸に刺さる。理由はわかっている。図星だからだ。
気まぐれに和司が美術室通いを始めなければ、たぶん会話を交わすこともなかった相手。
恐ろしく無愛想なくせに、見た目がよく派手で目立つタイプの連中に囲まれて、友人には不自由していなさそうな和司。
文化系で目立つことも嫌いな志生とは、属するスクールカースト上の階層も違う。
釣り合わない。言われずとも明白だ。
だからこそ、なんで助けてくれるのかという疑問の陰に、否定しようのない嬉しさと、嬉しがることへの疚しさが混在する。
「……あ、あった!」
西の空に赤い夕日が傾く頃、ようやく志生が上げた声に、和司も汗みずくの顔を半袖シャツの袖で拭った。
「まじか。どこにあった?」
「躑躅の枝に引っ掛かってた。地面に落ちたと思って下ばっかり探してたから、葉っぱの陰になってたのを見落としてたみたい」
「そうか、よかったな。あー……」
一時間以上地べたに蹲っていたので、曲がった腰を伸ばしながら和司が呻く。
自分にはまるで関係ないのに、暑い中文句も言わずに探し続けてくれたことが急に申し訳なくなった。
「ごめん宮村、本当にありがとう。こんな、わざわざ俺につき合ってくれて」
「いい。結局おまえが自分で見つけて、俺役に立ってないし。それより壊れてないか? ちゃんと聞こえる?」
「……うん、大丈夫。聞こえる」
「そうか」
疲れを逃がすようにひとつ息をついて、荷物を取り上げて和司はさっさと歩き出す。
バイト先へ急ぐのかと思えば、和司は昇降口へ向かって美術室へ上がっていくので、志生は早足で後を追った。
「宮村、バイトは?」
「んー? なかなか見つかんなかったことにしといてくれ。ちょっと休憩」
「あ、そうだよな、疲れたよな。ごめん、俺何か自販機で買ってくるけど何がいい?」
「いらね。それより冷房つけろ」
開けっぱなしになっていた窓をぴしゃりと閉め、椅子を繋げて和司はごろりと寝転がる。
あの窓から、さっき補聴器は落ちていった。
右手で押さえた耳に、サクラの声が返る。
「……なあ、宮村」
冷房のスイッチを入れて、志生は無理に口角を上げた。
「もうここに来るのやめた方がいいよ」
寝転がったまま、無言で和司は志生を見つめる。
「俺みたいな美術オタクとしょっちゅう一緒にいるなんてさ。クラスの友達とかに知られたら体裁悪いだろ?」
自分を卑下しているからだろうか、胸が痛いのは。
でも間違ったことは言っていない。和司はもう美術室へは来ない方がいい。
そもそも今日だって、和司が美術室通いさえしていなければ、志生がこんな目に遭うこともなかったのだから。
いない方がいい。元いた世界へ戻ればいい。
そう思うのに、彼の目をまともに見られないのはどうしてだろう。
「……おまえ、俺がいない方がいいのか」
ゆっくりと体を起こして椅子に座りながら、和司は頭を掻いた。そして、ふと何か閃いたように目を瞬かせる。
「……ああ。俺がいなくなったら、心置きなく吉澤といかがわしいことできるってか?」
「はっ?」
思いがけないことを言われ、出したことがないような素っ頓狂な声が出て、慌てて志生は自分の口許を押さえた。
「ちょ、え、何? あんた何言ってんの?」
「時々やってたろ。そこの奥で」
「なっ……なんでっ?」
「気づいてないなら教えてやる、来いよ」
立ち上がった和司に手を引かれ、美術準備室側の壁に近い窓際へ連れて行かれる。そこに立たされ、和司が指差す準備室の扉のガラスの中を見やると。
「ほら、奥の様子があの額に反射してる」
確かに部屋の奥のソファーが、著名な画家の写真が入った額の表面に映っていた。
(まじか……)
顔色をなくし、志生は立ち竦んだ。
いつだかわからないけれど、見られていたのだ。男性教師と男子生徒の、卑猥な秘め事を。
「い、言わないで」
しらばっくれることなどできず、震える声で懇願する。
「言わないけど」
元よりそんな気もなさそうに、けろりと和司は応じた。
「で、そういうのに俺が邪魔ならもう来ない。その方がいい? おまえは俺がいない方がいい?」
問われて、ぐちゃぐちゃの頭で志生は和司の問いを反芻する。
「宮村が、来なくなったら……」
混乱しながらも、輪郭のはっきりした感情があるのを見つけた。
「……寂しい」
それは少し前に、志生自身が鼻で笑って否定した感情で。
口にした自分に戸惑っていると、ふと和司が荷物を持って立ち上がった。帰るのかと見ていたら、志生の目の前まで歩を進め、前触れもなく頭を屈める。
志生の呼吸が止まった。
「……」
柔らかくて、少し湿っていて、志生とさほど変わらない体温。
和司のくちびるが志生のそれに触れ、確かな感触を残して離れていくのを、両目を見開いたまま志生は見送った。
「またな」
笑みもせず、いつもとまるで変わらない無表情で、和司は志生を一瞥して部屋を出ていった。
(な……なに……なんっ……)
混乱の限度を超えた志生は膝から床に崩れ、しばらくその場から動けなかった。