志生が和司と美術室で顔を合わせたのは、さらにその二日後のことだった。
いつも志生の製作中に入ってきて、互いに言葉を交わすこともなく、時には志生が和司の入室に気づかないことすらあるので、和司は特に志生に声をかけることもしない。
その日も志生が本を読んでいるところへ黙って入ってきて、そのまま室内の資料を適当に手に取った。
「あの……宮村」
なので、志生の方から声をかけられて、和司はあからさまに驚いた顔をした。
「なんだ。どうした一体」
天変地異か、くらいの調子で言うので、志生は少し居心地が悪くなる。
「……べつに。ちょっと変な噂を聞いたもんだから、確認しようと思っただけ」
「噂?」
首を傾げる和司に、志生は罪悪感を食み返しながら手元で本のスピンを揉んだ。
「あの、あんたが、大垣サクラのこと振ったって」
言ってしまったら、余計に居心地が悪くなった。なんだか和司が自分のためにサクラを振って、仇を取ってくれてアリガトウみたいな文脈に聞こえやしないだろうか。
しかし和司はきょとんと志生を見返した。
「んん? べつに振ってない。告られてもないし」
「……あ、そうなんだ」
否定され、では級友たちの勘違いだったのだろうかと思っていたら、もはや定位置となった部屋の隅の椅子に腰を下ろして、和司は事も無げに言う。
「もう俺に喋りかけんなとは言ったけど」
「えっ」
それのことだよ、何だったんだよさっきの否定は! とつんのめりながら志生は驚きの声を上げた。
「な、なんで?」
「何だよ? なんか都合悪いのか?」
「いや……俺の都合は何も悪くないけど」
「ならいいだろ、べつにどうでも」
背もたれにふんぞり返りながら、和司は本当にどうでもいいことのようにひとつ欠伸をした。
「メリットねえから切っただけ」
ほつれた糸を切った、程度の感慨しかない様子で和司が言うのを、なぜか気が抜けて呆然と志生は聞いていた。
去年からのクラスメイトで、仮にも自分に好意を寄せている相手を、メリットの有り無しでそんなに簡単に切ってしまえるものなのか。少なくとも志生がサクラの好意に気づく程度には、二人は頻繁に一緒にいたはずだ。
(冷血なやつ……)
そんな人間が、なぜいつも自分しかいない美術室に通い続けているのだろう。何かの関心を引くようなことがあっただろうか。あるいは美術室の資料に、そんなに興味を持つようなものがあっただろうか。
いずれにせよ、突然訪れた日と同様に、突然来なくなりそうだ。ある日ぱったりと、通うメリットを感じなくなって。
(……ん?)
そう考えた瞬間、胸にもや、ときざすものがあって志生は戸惑いに片眉を跳ね上げた。
手伝いもしなければ邪魔もしない、いてもいなくても同じ、それこそメリットもデメリットもない存在がいなくなったところで何ら影響はないはずなのに、何だろうこれは。
その感情につける名前を探して、見知った感覚を思い浮かべるうちにふと行き当たった『寂しさ』の三文字に、へっ、と緩い笑みが漏れた。ありえない。
そもそもあのサクラと仲の良かった人間で、距離を置きたい人種だったはずだ。サクラを切ったと言うけれど、それもべつに志生のためなどではない。志生が和司に愛着を持つ理由がない。
いや、でもなんだかんだ言って、意識はせずとも二人きりで過ごす時間がそれなりに長くなれば、情というのはどこからか湧いて出てくるものなのだろうか。
(俺って案外情に厚い男だったんだな。まあ比較対象が宮村だからな)
この冷血と比べれば誰だって、と思いながら手元の本を再度捲る。と、その本を和司が覗き込んできた。
「描いてないとか珍しい。何読んでんの?」
「え? ああ、色の本。どの色使えばいいか悩んじゃって」
志生は読みかけのページに指を挟んで、和司の本の表紙を見せた。
「日本の伝統色? って何だ?」
「伝統色っていうのは、日本独自に繊細な色の違いで名前を呼び分けていた色のことだよ。すごく色の名前が叙情的で、微妙な色彩の差で呼び分けがされてて、一口に『赤』で括ってしまえる色の中でも何十色もの識別をしてるんだ。そういう感覚的なところも込みで、俺は伝統色が好きでね」
読みかけていた、赤系の色が集められたページを開いて示す。
「
笑んだ志生に、ふうん、と和志は頷いた。
「赤が好きなのか? 廊下の絵も赤かった」
「うん、赤は絵の印象強さを出すには効果的な色だと思ってる。でも俺が一番好きなのは……この色、かな。
パラパラと本を捲って、志生は開き癖のついたページを開いた。
「ひそく? ……緑?」
どこか慎重に、和志は尋ねる。
「うん。高級な青磁の色なんだって。昔は特定の身分の人しか身につけられない色だったらしい。でもそんなことより俺は、このやわらかい色と、何となく特別感のある名前がすごく好きで」
指先に色をうつすように、志生はページを撫でた。
「いつかこの色をうまく使いこなして、大事な一枚を描きたい」
焦がれるような瞳で語る志生に、和司はふと口許を緩めた。
いつでも誰にでも等しく無愛想な和司の、笑みと呼べるかもしれないその表情を目にするのは初めてで、一瞬志生は目を瞠って動きを止めてしまった。
「……急に饒舌」
面白そうに、和司は目を細める。
「おまえにとって描くことは、よっぽど大事なことなんだな」
その顔を見つめて、志生は和司を、向き合える相手だと認識した。
今まで思い込みで毛嫌いしてきたけれど。彼は自分を否定しない。人と違う自分を、虐げたりしない。
そして志生は、そのとき初めてまともに和司と視線を交わしたのだということに気がついた。