secret color -03-


 それからも週に何度か、和司は放課後の美術室を訪れるようになった。
 室内にいるのは大抵志生一人で、相変わらず志生は無視を決め込んでいたから、和司はもう声もかけずに室内に入って好きなように過ごしている。
 志生が絵を描くところを眺めていたり、興味なさげにデザイン関係の資料を読んでいたり、椅子を何台も並べてその上で寝ていたりと、本当に好き勝手している。
 対して志生は、意識しない視界に入れないと決め込みながら、どうしたって意識もするし視界にも入る和司の存在に、腹の底からイライラしていた。
 何をしに来ているのかわからないし、活動の妨げになるからと、何度も吉澤に和司を出禁にしてくれるよう打診したものの、一向に聞き入れてくれない。
 吉澤曰く、和司が何か問題を起こしたわけでもないのに出禁になどする理由がないし、それで活動を妨げられるというなら志生の精神鍛練が足りないのだから、もっと精進しろとのこと。
「だいたい、どうせ集中しだしたら他の何も目に入らなくなるんだから、誰が室内にいようと実害ないんじゃん?」
 最後にはけろっと事実を吐くので、和司の排除に吉澤の助けは望めそうもなかった。
 かといって、来るな邪魔だ迷惑だと直接告げたところで、理由を問われれば和司個人に対しての合理的な説明などできないので、それもできずにいる。
 六月もあと数日で終わるというその日も、和司は訪れた美術室でカラーチャートを眺めていた。
(何してんだよ暇人が……帰れ帰れ帰れ!)
 画材の準備をしながら、志生は内心で大いに毒づく。
 何せ気温が高いのに七月に入るまでは集中管理の冷房はつかないし、雨が降っていて窓も開けられないし、湿度が高くて絵の乾きは遅いしで、ただでさえ悪条件が揃っているのだ。
 ああもう、と嘆息しながら椅子に座り直し、暑さのあまりに伸びた横髪を耳にかけたところで、ふと和司と目が合った。
「……え? おまえ……」
 なんだよ、と言い返す前に和司が椅子から腰を上げ、志生へ向けて腕を伸ばしてきた。
 その手が、志生の右の耳朶に触れる。
「これ、補聴器?」
 問われた瞬間、反射的に志生は和司の手を打ち払い、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がっていた。
「触んな!!」
 突然の激昂に、和司も驚いた顔をしていたが、それ以上に志生自身が自分の昂りに驚いていた。
 過剰反応。それはわかっていたけれど、止まらなかった。
「あんたも壊そうってかよ」
 右耳を覆って和司を睨み付けた志生の声は、上ずって震えていた。
「壊す? 何を? ソレを? 何のために?」
 さっぱり意味がわからないというように、和司は志生の右耳を指差して怪訝に眉を顰める。
 問いを重ねられて、少し志生の頭も冷えた。
 そうだ、和司は今まで志生に危害を加えようとしたことはない。あいつらと同類だと思い込んで遠ざけてきたけれど、和司はただ志生と同じ空間で時を過ごしてきただけだ。その意味では志生は、和司を安全な存在だと感じていた。
 唐突な激昂の理由は恐怖だ。志生の右耳に気づいた和司が、どんなふうに態度を翻すかと。
「耳、聞こえにくいのか。片方だけ?」
 上がった心拍に呼吸も乱れる志生に、和司は平常と変わらず淡々と訊いてくる。
「壊されたりしたことがあるってこと?」
 平坦な声に、観念して志生は強く両目を瞑った。
 どうしてばれる前に美術室通いに飽きてくれなかったのか。もっと強く拒絶しておけば良かった。蹴ってでも追い返しておけば良かった。コイツに弱みなど見せたくなかったのに。
 はあぁ、と深くため息をついて、倒れた椅子を直して腰を下ろす。
「……あんたのクラスに、大垣サクラっているだろ」
「ああ、いるな」
 サクラが和司と親しくしていること、もっと言えばサクラがわかりやすく和司に好意を寄せていることを、志生は知っていた。サクラから身を隠すために、常に志生はサクラの動向に目を配っていたから。
「あの女、小学生の頃から、典型的ないじめっ子なんだ」
 自分に対して品をつくってか弱げにくっついてくる女がそんな人間だとは思わなかっただろうと、ザマアミロくらいの人の悪い思いが志生の胸にこびりついた。
 今、ひとつ復讐してやった。あの女の想い人に、本性密告してやったんだ。
「そうなのか」
 けれど、驚いた顔のひとつも見せるかと思っていた和司は、相変わらず淡々とした表情で相槌を打つ。
 あれ、と志生は拍子抜けした。
 そんな感じ? そんな程度? 言い寄ってきてて、もしかして靡きかけたりなんかしてた相手がそんなやつだって聞いて、落胆したり、傷ついたりしないもんなの?
「……俺、昔から大垣のターゲットにされてて、今までに二回、補聴器壊されたことがあって」
「まじか。最悪だな」
「だ、だから俺、大垣と接点のあるやつとは、絶対……つるみたくなくて……」
「はーなるほど」
 語ってもあまりに手応えのない和司の反応にしどろもどろになる志生に、和司は熱量のない視線を向けた。
「なんでおまえがそんなつんけんすんのかって、ずっと考えてたけど。俺と大垣になんか繋がりがあると思って警戒してたわけか」
 納得した様子で何度か頷いた和司は、両手をポケットに突っ込んで、ふらりとドアへ向かった。
「……え、宮村?」
 呆気に取られる志生を振り返りもしないで、和司は美術室を出ていく。
 そして和司の行動は早かった。

 翌日、志生は『五組の宮村が女と修羅場ったらしい』という噂を通じて、和司がサクラを切ったことを知った。
 昼食時に、一緒に弁当を食べる仲の一人が、朝の混み合う下足場でもめる二人を目撃したのだという。
「俺、男と女の修羅場って初めて見たわ。あれは完全に女の方が捨てられてたね。もう話しかけてくんなって言ってる男に向かって、女が『待って、なんで』って半泣きで追っかけててさ。でも全然男の方は相手にしてなくて。あれって別れ話がこじれたのかな?」
「あー、それ俺も聞いた。宮村と大垣だろ? 俺一年の時あいつらとクラス一緒だったけど、あいつらつき合ってはなかったよ。大垣の方が一方的に宮村にくっつき回ってた感じ」
「うぇ、イケメンリア充のやることは俺らには理解できねえな」
「女の方から来てくれて振るとか、それもうファンタジーだろ……」
 やっかみ半分で噂話に花を咲かせる級友たちの横で、志生の心拍は妙な具合に高まっていた。
(俺の話を聞いたから……? 俺のために?)
 思いがけない展開に、志生の胸は罪悪感にざわついた。
 確かにサクラが片想いしている相手にいじめの事実を暴露して、恋路を邪魔してやろうという魂胆はあった。だけど公衆の面前で、話しかけることすら拒絶するとか、そんな晒し者になるようなことまでを期待していたわけではなかった。
 そこまでの目に遭わせるつもりはなかったのに。自分のせいで、サクラを必要以上に傷つけてしまったのでは。
 その後ろめたさを、放課後の美術準備室で吉澤に漏らしたところ、吉澤はあっけらかんと笑った。
「おまえって、お人好しが過ぎるというか、そこまで行くとちょっと偽善的だぞ」
「え……そ、そうなのかな……」
「俺ならザマアって嗤って終わりだな」
 ソファーに志生を寝かせてシャツを緩めながら、吉澤は志生の首元にくちびるを落とす。
「……まあ、それもおまえか。根が優しすぎるんだな。自分の敵が傷つくことまで気にしたってしょうがねえと思うけど、そういう必要以上の繊細さがおまえの作品を作ったりするんだろうな」
「褒めてる? ……ディスってるよね?」
「その繊細な心で感じ取ってくれ」
 ふふっと思わせ振りに笑って、吉澤は志生の頬に口づける。それを自分のくちびるに重ねてほしくて、志生は黙って瞼を閉じた。