secret color -02-


 美術部の葉月志生はづき しのぶは、主にアクリル絵具を使った風景画を得意としている。美術部顧問であり、一年時のクラス担任でもあった吉澤は、殊に志生の優れた色彩感覚を大きく評価していた。
 日常、繰り返されているはずの景色の中から一瞬を捉えて、志生の筆は鮮やかに非日常を描き出す。道端の草花さえ、まるで高名な園芸家が手塩にかけて育てたかのように麗美に、それでいて現実の素朴な存在感は失わないままに表現される。
 自身も油彩を専攻していた吉澤だったが、志生の天性の感性には敵わないと思わされていた。
 思うままに描いていい、と放任な指導の元に志生は創作を重ね、一年生の間に描いたいくつかのうちの一枚をコンクールに出品したところ、先日優秀賞を受賞した。
 出品については作品選びから吉澤に任せきりにしていたので、受賞も、その受賞作が校舎の壁に飾られることになったのも、志生には思いがけないことだった。
 周囲からの驚嘆や称賛。嬉しいこともたくさんあったけれど、普段目立たないタイプの志生が上げた快挙に、向けられるのは好意的な感情ばかりではない。
「芸術家気取り? 障碍者のくせに」
 あからさまな嘲笑が、志生の左耳に届く。
 右耳は生まれつき、よく聴こえない。伸ばした横髪に隠すように、その右耳には補聴器が装着されている。
 小さい頃から、耳のことで志生はつらい思いをしてきた。聴こえないこと自体も不自由な場面が多々あったが、それ以上に、他者と違うその特性を殊更に指摘して虐げてくる者たちの存在は常に志生の憂いの種だった。
 そんな志生だったから、自分が人並み以上に長けていること、聴こえを意識せずに取り組めること、という意味でも絵にはひとかたならず没頭していった。
 描くことは幸福。描く時間が至福。
 放課後の美術室での何にも代えがたいその時間を、最高の理解者である吉澤といつまでもたゆたっていたかった。
 けれど、ある日唐突にその幸福なサイクルは崩される。
「葉月志生って、おまえ?」
 前触れもなく開かれたドアから覗いた男の覇気のない顔を、志生の方はよく知っていた。
 二年五組の宮村和司みやむら かずし。認識したとたん、普段穏和な志生の表情が険しく凝る。
「……なんか用?」
 手にした刷毛を止めて、精一杯の低音で志生は威嚇した。しかし和司がそれを意に介す様子はない。
「おまえか、廊下の絵描いたやつ」
 飄々と、無遠慮に和司は志生の頭から足先までを眺めてくる。志生は非常に不快だった。
「なんか用かって訊いてんだけど」
「べつに用ってほどのことはねえけど」
 初対面で剣呑な声を聞かせる志生を気にするそぶりもなく、和司は室内に足を踏み入れてドアを閉める。
「あれ描いたの、どんなやつかと思っただけだよ。吉澤も描いてるとこ見てっていいっつってたし」
「……」
 吉澤の許可を得ての入室と言われると志生には無下に出ていけとも言えなくなる。
 実際、在籍者は規定人数を満たしているものの幽霊部員ばかりの美術部は常に廃部の危機で、志生自身もいつもは見学者を積極的に受け入れている。
 しかし相手が和司となると、どうしたって心穏やかではいられない。
 追い出すのは諦めて、志生はとりあえず無視することにした。止めていた刷毛を再び滑らせ、画面全体を均一にごく淡い薄桜色で塗り尽くしていく。
 その背後に、少し離れて和司が立った。
「……なあ、なんで一色で全部塗りつぶしてんの?」
 無視。
「塗りつぶして終わり? 芸術ってそんな感じなの?」
 無視。
「ん? 聞こえてる?」
 無視!
 と思ったけれど、苛立ちは簡単に閾値を超え、自分はこんなに短気だったかと驚くほどの早さで沸騰した。
「あんたなぁ!」
 刷毛を握ったまま立ち上がろうとしたところへ、ガラッと美術室のドアが開く。喫驚した顔で、吉澤が立っていた。
「今のでかい声、葉月?」
 心底意外だという顔をされて、気まずく志生はそっぽを向いた。
「なんだなんだ、喧嘩はだめだぞ校内で。殴り合うならよそでやれよー」
「してねえし、しねえし。そいつがつんつんしてるだけで」
「してない!」
 吉澤のにやにや笑いも和司のきょとんとした顔も気に入らなくて、志生は二人とのやりとりを遮断して絵に戻る。
 吉澤は何やら「良き良き」などと呟きながら美術準備室へ入って行き、しばらく志生の作業を見ていた和司も飽きたのか、室内の本棚に置かれた資料を適当に引っ張り出してきて読み始める。
 黙って座っているぶんには害はないと考えることにして、志生は手先に集中した。
 和司が何をしに来たのか、なぜそこに居座っているかなど、考えたくもないしその必要もない。そこにいないものとして、ただ志生は眼裏に想い描く景色を追う。
 淡いピンク色の下地の上に描きたいのは、梅雨の晴れ間に水滴をはじく紫陽花。下草に露草。空には雨雲。その切れ間から一瞬差し込んだ陽光に光る姿。梅雨寒など感じない暖かい画面がいい。でもやがてまた雨に濡れる、その暗さを奥行きに出したい。濡れることを厭わない、生の悦びも。
 その景色を、どうやって描くか。どう表現するか。試行錯誤しながら、志生は緻密に色を重ねていく。
 いつの間にか、和司の存在も、隣室にいるはずの吉澤の気配さえ、志生の意識から消えていた。
 帰宅を促すチャイムの音が消えていくな、というのを意識の端で捉えて、はっと我に返ったときには室内は暗くなっていた。
「相変わらず、集中力の鬼だな」
 苦笑いの吉澤が、和司が使っていたはずの椅子に座ってこちらを見ている。
「邪魔するかと思って電気つけなかったけど、こう暗いと色が分かりにくいんじゃないか?」
「ああ……ほんとだ。なんか描きにくいなと思ったら」
 しょぼつく目を擦りながら、志生は室内を見回した。
「……宮村は?」
 名を呼ぶのも不快げに、志生は訊いた。聞いたことのない志生の声音に、なぜか嬉しげに吉澤は笑う。
「三十分以上前に帰ったろ。帰るわーって声かけてたのに完全スルーしてたのは、無視してたんじゃなくてほんとに聞こえてなかったんだな」
「えぇ? 声かけられた? 全然記憶にない」
「おまえ、それ知らないやつ相手にやったら、普通に感じ悪い人だからな」
「気をつける……って、どう気をつければいいのかな? まあ、今日はいいや。宮村だし」
 吐き捨てそうな調子で言う志生に、あまり詮索するたちでもない吉澤もさすがに、何がそれほど志生の機嫌を害しているのかが気になってくる。
 そもそも志生はあまり喜怒哀楽を表に出さない方で、こんなに感情的になったところを見るのは初めてだ。
「なに、宮村になんかされたの?」
 その態度にはそれ相応の原因があるのだろうという訊き方をされて、志生はうっと詰まった。
「……いえ、何も。今日初めて喋りました」
 なのに理不尽な態度をとったという後ろ暗さはあって、志生の言葉が丁寧になる。
「え、初対面? 何もされてないし喋ったこともないのにおまえ、あんな毛虫相手みたいに邪険にしてたの?」
 教師としてはそういう態度をとった生徒を諌めるべきなのだろうが、それが志生だというだけでただただ驚きで、吉澤は目を瞠った。
「おまえをそんな子に育てた覚えは……」
「育てられた覚えもないから」
 ばりばりと頭を掻いて、ため息を噴きながら「帰る!」と宣言して、志生は手にした筆を筆洗に落とした。
「片付けて部屋閉めたら、職員室に鍵持ってくよ。先生先に戻ってて」
 筆洗を持って流しに向かう志生は、もういつもの柔和な笑みを浮かべている。吉澤は、ここまでか、と残念な気持ちを押し隠した。
 快も不快も表出しないその笑顔はまるで制服のようで、常に纏って志生自身を覆い隠してしまう。
 そうすることで志生は安寧を得ているのだろうと、志生の人となりを深くは知らない吉澤もわかっている。わかっているが、そこからの脱皮が志生の才能をもう一段階高いところで開かせるのではないかとも考えている。
 その薄膜を唯一剥いでしまえるのが美術準備室での秘め事だったのだが、どうやらそれ以外にもトリガーは存在していたらしい。
 快だけではない、怨恨や憤怒を表に出すことだって必要なはずだ。志生が描きたい世界は、きれいなばかりではない。
「……良き良き」
 呟きながら、和司と接することは、志生に悲哀や悔恨も教えることになるかもしれないと、吉澤は自分の意地の悪さを思う。
 口の端を少しだけ上げて、吉澤は職員室へ向かった。