その絵は忽然と現れた。
梅雨入り直後の小雨そぼ降る六月のある日、昨日までは何もなかったはずの美術室横の階段ホールに、受賞を祝う赤いリボンでできた花とともに大きな額入りで掲げられている。
額の下には絵のタイトルらしき日時と作者の名が添えられていた。
(『十月二十日 十六時五十分』……
特別教室ばかりが入った第三校舎の一角で、通りがかりに足を止めた
和司は絵心など持たないし、これまで絵画に興味を持ったこともない。けれどなぜか、その絵の前から立ち去ることができないでいた。
描かれているのはタイトル通りの時候の夕景で、おそらくあの橋の上から見た景色だとわかるくらいに馴染みのある、和司の通学途中の風景だ。
しかし和司には初めて見る景色にも見えた。確かに自分も、十月二十日の夕刻に同じ場所を通ったはずなのに、こんな景色は記憶にない。
赤く燃える夕日から、切れ目なく繋がる青空へのグラデーション、そこに浮かぶ淡い雲、そして画面の底にまだ灯りの点らない街の見慣れた建物が沈んでいる。
自分が何とも思わずに通り過ぎた一瞬を、こんなふうに切り取ってあらわす人がいるのだ。
驚き混じりの感慨を抱きながら、和司は吸い寄せられるように額へ向けて手を伸ばした。
「二十万」
と、そこへ背後から男の声がかかって、和司は手を止めて振り返った。
「その絵汚したり破いたりしたら、二十万は請求すんぞ」
立っていたのは、気だるげに両手をポケットに突っ込んだ、美術教師の
「……え、この絵、そんな価値あんの? うちの生徒が描いたもんじゃねえの?」
敬語など存在も知らないという態度で、こちらも着崩した制服のポケットに手を突っ込みながら訊いた和司に、十以上年嵩だけれど全く気にする様子なく吉澤は鷹揚に笑う。
「そうだよ、二年二組の葉月が一年の時に書いた絵だ。今は二十万なんて価値はねえな。でもあいつが有名な画家になったら、画伯の初期の作品だっつって、二十万じゃきかなくなるだろうなぁ」
「なったら、の話かよ」
「なれるだろうから言ってんだよ」
大真面目に言って、吉澤は和司の横に並んで、額の歪みを直すように触れた。
「
「いや全然」
「葉月なら今も中でなんか描いてるぞ。見てくか?」
美術室を指差しながら言う吉澤に、和司は首を振る。
「今からバイトだし」
「そうか。気をつけて帰れよ」
挨拶もしないで、和司は階段を降りていく。その後ろ姿を見送って、吉澤は美術室の扉を静かに開けた。
室内でキャンバスに向かっていた志生が、集中を解いて上げた顔に笑みを浮かべる。
「先生」
「悪い。続けて」
「ううん、今日はこのへんで乾かそうと思ってたから」
生真面目に一番上までボタンを留めたシャツの上からエプロンを着けた志生は、見るからに優等生然としているのに、こちらも吉澤に敬語は使わない。どの生徒とも砕けて接するのが吉澤のスタンスではあるが、それ以上に、二人の間にはただの生徒と教師だけではない関係があった。
吉澤が奥の美術準備室へ入ってしまうと、志生は筆を筆洗に浸け、少しキャンバスから離れて今日描いたところまでの全体を確認する。経過はまあ上々だ。
画材の後片付けをして、エプロンも外してハンガーにかけると、志生は少し緊張して手を握った。その手を美術準備室のドアへぶつけ、「どうぞ」と返る吉澤の声に室内へ進む。
奥のソファーで資料を読んでいた吉澤と目が合うと、志生は目を伏せて後ろ手に部屋の鍵をかけた。
「……先生、忙しい?」
目元を染めて気恥ずかしげに訊く志生に、吉澤は目を細める。
「おいで」
招かれてほっとしながらも緊張をさらに高めて、志生は吉澤に近づいた。その手を引かれ、志生はソファーに膝をついて吉澤の膝を跨ぐように向き合って座る。
「今描いてるの、順調か?」
問いながら、吉澤は志生の耳元に触れて引き寄せ、二人はキスをした。
「う、ん……水彩っぽいタッチで、もう少し淡い色合いをうまく出したいんだけど……ちょっと思い通りにはいってない」
「そうか。明日新しい画材が届くから、いろいろ試してみればいい」
「先生も一緒に見てくれる?」
「ああ」
笑みを交わしながら、吉澤の指がズボンにきっちり入れ込まれた志生のカッターシャツの裾を引き出し、服の中に手を忍ばせてくる。その手が直に胸元に触れてきて、志生は吉澤の首に両手を回して息を詰めた。
「……敏感。かわいいな、葉月は」
「っ、ん……、せんせ……」
器用な指先で乳首を捏ねられ、ぷつりと立ち上がったそれを弄ぶように刺激を重ねられて、志生は口を開けてはあと熱い息を吐く。そこを狙ったように再びくちづけられ、吉澤の薄い舌に舌を絡めとられた。
「……っふ、ぅ……」
片手でやわやわと胸への刺激を続けながら、反対の手が志生のベルトを外しにかかる。ファスナーを下げられた頃には、下着の中で志生は固く張り詰めていた。
志生はあまり性欲が強い方ではないはずだった。それでも高校二年生の男子としてはそれなりの周期でたまるものはたまるし、それを煽る吉澤の愛撫は、経験の浅い志生には十分すぎるほどに巧みだ。
「あっ……、せんせぇ……」
狭い布地から取り出して握られて、震えた志生は舌っ足らずに吉澤に縋りつく。吉澤の手の中で、早速先走りを漏らしてしまう堪え性のなさが恥ずかしい。
耳元でふふっと笑う吉澤の吐息にすら感じて、志生はびくりと肩を揺らした。
「ちょっと我慢な。俺も……」
志生のものを手放して、吉澤は少し腰をずらして自分のスラックスの前をくつろげる。そして志生のカッターシャツをたくし上げて赤く充血した乳首を口に含み、自分と志生の屹立を一緒に握りこんだ。
「あっ、や、んんっ!」
「……あー、やべ。きもちい……」
胸元でぺろぺろと乳首を舐めながら、吉澤が強く志生の腰を抱いてくる。密着するほどに二人分の興奮も強く擦れ合い、志生の先端から溢れる腺液が吉澤の指を濡らす。
「せんせぇ、俺もう……」
「ダーメ。もちょっと我慢、一緒に」
「無理、も、いきたい、いかせて」
「我慢してる葉月、すげぇエロい。俺もすぐいけちゃうかもよ。ほら頑張れ」
「はぁ、はぁ……い、じわる……」
何を頑張ればいいのか、自分の何に吉澤が欲情してくれているのか、わからずに惑って志生は吉澤の肩にしなだれかかった。若い体に、遂情を耐える努力はなかなか厳しい。
吉澤との触れ合いは回数を重ねたものの、無防備な自分を晒してままならなくなるこの行為には、志生はいつまでも慣れられる気がしなかった。
けれど志生の戸惑いは置き去りのまま、吉澤の摩擦はピッチを上げていく。きつく瞑った目の前がちかちかと発光するようで、志生は吉澤の袖を握り締めた。
「あ……っせんせ、ほんとに無理っ……」
「ん……」
志生のギブアップに、自身も微かに眉根を寄せた吉澤が手際よくティッシュを取って手元をくるむ。解放を許されて、志生は吉澤の肩に瞼を埋めた。
「ぅ……っ!」
声を堪えて、きりきりと吉澤のシャツの肩口を噛み締める。両者ほぼ同じタイミングで身を固くして、荒い呼吸とともにゆっくりと弛緩していく。
事後のこの、熱が冷めて頭も醒めていく時間が志生は苦手だ。
十代の性欲は則ち勢いで、それが削がれると後悔に似た妙な気持ちが胸を満たす。自身を俯瞰で見て、何をやっているのかと自分で咎めるような気まずさ。
(……男だし。先生も、俺も)
校内で盛って男性教師に抜いてもらうなんて、高二男子としてどうなんだ。
自己嫌悪に襲われながら吉澤の肩から顔を上げると、こちらを見つめる吉澤とばっちり目が合ってしまう。
視線が揺らぐより先に、髪をくしゃりと撫でられた。
「葉月かわいい」
そう言って吉澤は笑う。目を逸らしてしまいそうになる志生の気後れを、その笑顔で払ってくれる。
性的指向を含め、自己というものを確立することも受け入れることもしきれていない志生は、躊躇いなく抱き締めてくれる腕に随分救われていた。
(大丈夫、だったかな? 今日も、俺)
フツウでいられただろうか。
フツウでなくなっても良いと言ってくれる腕の中で、志生は内省する。
日々は、ただ在るだけでとても苦しい。