呼び出しに戸惑っている様子の瀬野に向かいの席に座るよう促し、來架は精一杯の笑顔を向ける。
「ごめんな、家隣やのにこんなとこ呼んで」
「あ、いえ……」
「もうどっちかの家で話すってのも、瀬野は嫌かなと思って」
「そんなことは……」
「まあいいや。とりあえず何か頼む?」
問うても、瀬野は俯いて首を横に振る。
金で抱いてほしいと懇願したのを拒まれたあの日から一ヶ月、瀬野とは一切の接触を絶っていた。
夜遅くに帰宅する隣室の音を聞きながら、互いにもう相手の部屋の扉を開くことはないのだと実感する日々。とっくに終わった関係だということは自覚している。
それでも今日來架が瀬野を呼び出したのは、瀬野のためにも、きちんと終了宣言をしたかったからだった。
來架は瀬野が好きだから、瀬野が会社で気詰まりな思いをしなくて済むようにしてやりたかったのだ。
「……実はな、僕もうすぐ引っ越すんよ」
明るく告げると、俯いていた瀬野が弾かれたように顔を上げる。
「えっ……」
「それで、引っ越し準備とかでしばらくガタガタうるさいかもしれんから、先に言うとこと思って。ごめんな」
軽い調子で謝った來架を見つめる瀬野は蒼白し、眉をぎゅっと寄せた。
「……俺のせいですか?」
深刻な顔で瀬野が問うのに、來架は笑みを崩さない。
「ちゃうよ。うちの社宅、家賃補助が出るんは入社から十年までやん。僕もう勤続十年超えて、家賃満額払ってるんよ。それやったらもう少し広くて便利なとこに住み替えよかなって、前々から思っててん。そしたら最近、いい物件見つけたからさ」
淀みなく妥当すぎる理由を述べる來架が、その理由を予め用意していたことは瀬野にも容易に知れる。
けれど同時に、そんな見え透いた言い訳で瀬野の責任を否定してくれた來架の気遣いも察せられて、それ以上引っ越しの理由を追及することはできなくなった。
膝の上で両拳を握り締めて黙り込んだ瀬野を笑んだまま見つめて、來架はそっと瞼を伏せる。
「……今まで、僕のわがままに付き合わせてごめんな。ありがとう」
頭を下げて謝罪と感謝を伝えて、それで來架はもう終わりにするつもりだった。
けれど席を立つ前に、目の前の瀬野が、くちびるを噛んで涙を落とす。それを見た來架は目を瞠った。
「瀬野……」
「……俺、來架さんのこと、ちゃんと考えるつもりだった」
動揺した來架の前で、その涙を瀬野が服の袖で雑に拭う。
「こんなに自分本位な俺のこと、いつも許してくれて、好きだって言ってくれる來架さんに甘えてた。來架さんの気持ちにちゃんと応えなきゃって、応えたいって、ずっと思ってた。本当は、この前も……、……。でも、花村先輩への気持ちをどうしていいかわからなくて。結局今まで、來架さんを傷つけ続けてしまったこと、申し訳ないと思ってます」
時折つかえる涙声の瀬野の言葉を聞いて、そんなふうに思ってくれていたのかと、この二年がまるで無意味だったわけでもなかったのかなと來架は思った。
応えたいと、少しでも思ってもらえていたならそれで充分だ。まして、自分のために涙まで見せてくれたなら。
「……ううん」
小さく、來架は首を振る。
瀬野の、好きな人に対して一途なところも好きだった。その気持ちが自分へは向くことがないことも、最初から知っていた。
「ほんとに、花村の代わりでもなんでも、瀬野の傍におれて嬉しかった。今までの人生で一番幸せやった。こんな気持ちにさせてくれてありがとう。瀬野が謝ることなんか、いっこもないよ」
本心でそう言えたことへの安堵に、涙が滲みそうになる。
そんな湿っぽさを振り切るように、來架は大きく笑った。
「花村は鈍感やからさ、はっきり言わんと気づかんかもしれんよ。もう女には懲りたって言ってたし、あれで話の分からんやつじゃないから、案外ちゃんと話せば気持ちは通じるかもしれん。長いこと付き合わしたお詫びに、僕のできることやったら何でも協力するから、言ってな。瀬野のこと、応援するよ」
胸は痛んでも、自分は今間違ってはいないと思える。
好きな人の幸せを、ちゃんと祈れる自分でありたいと思う。
「……じゃあ、また会社でな」
腕で目元を覆ったままの瀬野を残して、來架は勘定を済ませて店を出た。
声を上げて泣きたかったけれど、気持ちとは裏腹によく晴れた空を見上げて、ため息の中に全てを包み込んで吐き出す。
「……くっそ痛いわ……」
三十路になっても失恋は相変わらずひどい胸の痛みを伴って、もうこんなのはたくさんだと、何度だって思う。
進歩のない自分に、泣きたいのに、嗤ってやりたくなった。