好きな人の 好きなひと -06-


 週明け、自席で仕事を始めていた來架は、出社してくるなり自分の前に仁王立ちになった長身を見上げた。
「何すかあれ。どういうことっすか」
 睡眠が足りてなさそうな顔で詰問してくる長田を、しらっとした顔で來架は見つめる。
「おはよう、長田。いつもより電車一本分くらい遅かった?」
「おはようございます。今朝は寝過ごしました。ってはぐらかさないでくださいよ!」
「はぐらかすつもりはないけど、こんな場所で何の話をする気なのか、ちょっとは考えろと思ってはいる」
「……っ」
 始業直前の居室内でする話ではないことに気づいて、長田は自席に移動して鞄を置く。
「朝礼後に段ボール取りに総務倉庫行くから、一緒に来い」
 ギリギリとこちらを睨んでいる長田にため息をついて、來架はそう声をかけた。
 そして朝礼後に総務倉庫に行くと、中に入って扉が閉まったとたんに壁際に追いやられた。
「説明してください」
「……壁ドンって、もう廃れた文化じゃないの?」
「なんで佐藤さん、瀬野とヤってんすか」
「おいおい、オブラートはよ」
「あいつの言う『先輩』って、花村さんのことじゃないすか!」
「……んもー、どこまで聞いてたんよ。立ち聞きとか趣味悪いわぁ」
「ほぼ全部です。佐藤さん、瀬野に『先輩』って呼ばれながらめっちゃ声出してた」
「うわぁ。会社の後輩にセックス中の声聞かれた僕のいたたまれなさにちょっとは配慮してくれん?」
「俺だって聞きたくなかったっすよ! 好きな人が同期と玄関先でおっ始めるとか、俺の情緒にも配慮してくださいよ!」
「うーん。そりゃ悪かったね……」
 だから早く帰れっつったじゃん、と來架は頭を掻く。のらりくらりとかわし続ける來架の様子に気勢を削がれて、壁に突っ張った腕を長田は下ろした。
「……合意なんですか」
 気遣うような低い声に、來架はようやく長田に向き合った。
「うん」
「花村さんの代わりにされることも?」
「うん。瀬野がずっと花村を好きなんは知ってたし。最初からそれでいいって話で始めたことだし」
「そんなの……佐藤さんの気持ちはどうなるんですか」
「ん?」
「佐藤さんは、瀬野が好きなんでしょう?」
 言われ、來架は言葉に詰まった。
 長田の勘の良さは始末が悪い。來架がゲイであることも、配属されて早々に長田は見抜いてきた。瀬野が花村の後を「先輩、先輩」と慕わしげにくっついていることも、そういう意味での好意であることをわかっているようだった。
 來架の瀬野に対する気持ちも、感づかれていたのかもしれない。
 はぁ、と來架はひとつため息をついた。
「……言い出しっぺは僕やから。瀬野は僕につき合ってくれてるだけで」
「佐藤さん」
 不意に、長田が來架の肩を掴んで、やけに真剣な表情でその目を覗いた。
「佐藤さんと瀬野が、ちゃんとお互い好きでつき合ってるなら、俺に言えることはないです。でも、あれじゃ佐藤さん、瀬野の都合のいいようにされてるだけじゃないですか」
「いや、あのなぁ長田」
「瀬野なんかやめて、俺にしときましょう」
「はぁ?」
「俺ならちゃんと佐藤さんを大事にします。誰かの代わりになんか絶対にしません」
 いつもの軽薄さはなりをひそめた真摯な視線に、來架はこれ見よがしに盛大なため息を吐いた。
 どうやら本音をぶつけられるまで、長田はかわされるつもりはないらしい。
「……頼むから、ほっといてほしい」
 來架は俯いて拳を握った。
「なんでかいっつも、ノンケを好きになる。今まで両想いとかなったことがない。けど今、初めて僕は好きな人に抱かれてる。それだけで充分や」
 どの恋でも叶わなかった僥倖に今、恵まれているのだと。
 自分自身が強くそう信じて、來架は顔を上げた。
「僕な、今幸せなんよ」
 そう告げて、來架は倉庫を出ていった。
 残された長田は深く息をついてしゃがみこみ、自棄のように髪をかきむしる。
「あんな、目に涙いっぱい溜めて、何が幸せだよ……」
 もどかしい呟きは、來架の耳には届かない。


 その夜、インターホンの音に玄関へ呼び出された來架は、素面の瀬野がそこに立っていることに驚いた。
「え、え? なに? どしたん?」
 狼狽えた來架に、瀬野は頭を下げる。
「この前はすみませんでした」
「え、何が? ちょっと、とりあえず入り」
 暗い顔の瀬野を部屋に上げ、來架はソファーに広げていた仕事の資料をざっと集めて端に寄せた。そこに、ちんまりと瀬野は腰を下ろす。
「この間、同期会の後、酔ってここに来て來架さんに酷いことして」
 再度頭を下げられて、來架は両手を振った。
「いや、なんも。痛いこととかなかったし、気にせんといてよ」
 フォローしようとするが、瀬野は頭を垂れたまま首を振った。
「そういうことじゃない。痛いこととか……そうじゃなくて。ずっと俺、來架さんのこと傷つけてる。わかってたのに、來架さん優しいから、手放せなくて」
 そこまで言われて、來架は突然の瀬野の来訪の理由を察した。
 なんだ、別れ話か。
「來架さんはそれでいいって言ってくれてたけど、でもやっぱり、來架さんを先輩の代わりになんてするべきじゃなかった」
「……うん」
「俺、先輩を好きな気持ちに一度ちゃんとけじめつけたい。もう來架さんを先輩の代わりにしたくない」
「……そっか」
 ひどく胸が冷えて、來架は立ち上がった。
 やっぱり自分ではだめなのだ。瀬野の気持ちは花村にしか向いていない。どれほど代わりを勤めても、代わりは代わりでしかない。
 それなら、と來架はチェストに置いていた財布から万札を抜き取った。
「なあ、瀬野。最後に一個、僕のお願い聞いてくれん?」
「え……?」
 その万札三枚を、瀬野の前に差し出す。
「一回でいいから、花村の代わりじゃなくて、僕を僕として抱いてくれん?」
 惨めな提案をしている自覚はあった。けれど、もう瀬野が自分を抱くことはないのだと思ったら、せめて最後に思い出がほしかった。
「今は持ち合わせがこれしかないけど、足りんかったら、もう少し出せるし」
 金に手を伸ばしてこない瀬野の当惑した様子に焦って、半笑いで來架は言いつのった。
「あと五万……出すよ。それでも……僕じゃ嫌かな……?」
 震える声で言った、その手を瀬野の手が叩き払った。
「……ふざけんなよ」
 床に、札が落ちる。
「神経疑う」
 落ちた札を目で追った來架の頭上から、軽蔑のこもった声が降ってきた。
 ドスドスと、足音を立てて瀬野が部屋を出ていく。引き留めることはできず、來架は床にへたり込んだ。
「……やっぱだめかぁ……」
 清廉な瀬野に対しては悪手だという自覚はあった。けれど、ではどうすればよかったのか。
 わからなくて、終わりを受け入れるしかなくて、來架は泣いた。