同じ会社に勤務して隣の部屋に住んでいるにもかかわらず、恋人と音信不通状態になって二ヶ月が経った。
普通はこういうのを自然消滅と言うのだと思う。來架もそうなのだろうと考えていた。
ただ、少し意外な形だとは思っていた。瀬野の性格からして、そういう曖昧な終わり方はしないと思っていたのだ。やっぱり花村が好きだから、こういう関係はやめたいと、直截に言ってくるものだろうと。
その覚悟を固めていた來架にとっては、いつまでも瀬野が手切れを告げてこないことは不思議でもあった。
はっきり振られていないからといって続いているわけではないことはわかっている。それでも、決定的な何かがない限りは、瀬野の恋人でいたいと來架は思っていた。
そんなある週末、珍しく総務課の近くに来ていた瀬野が、長田としばらく話し込んでいた。気にはなるものの自ら尋ねるつもりはない來架だったが、席に戻ってきた長田は気安く來架に声をかける。
「佐藤さん、残念なご報告です。さっき瀬野に俺と部屋交換してって頼んだんですけど、断られちゃいました」
「はあ? なにアホなこと言ってんの」
「書類の偽造は懲戒事案だって言われたから、正攻法で交換してもらおうかと」
「そんなことで長々話し込んでたん?」
「いやいや、さすがに別件のついでですけどね。今夜久しぶりに同期で集まって飲もうって話をしてて、その時間と場所と参加メンバーの確認でした」
「へぇ……」
來架の反応は気の抜けたものになる。
以前は飲み会の度に來架の部屋を訪れていた瀬野は、この二ヶ月間にも飲酒の機会は多々あったはずなのに、全く来なくなったのだ。たぶん今夜も来ないのだろう。
そんな恋人関係があるだろうか。やっぱり消滅済みだと諦めた方が良いのだろうか。
「ちょっ、佐藤さんもう少し俺に興味持ってみません?」
消沈した來架の様子を曲解した長田は、大型犬のくせにキャンキャンとよく吠えた。相手をしてやる気はないけれど、そんな姦しさに救われる気分も時もあるらしい。
「ウン……ソウネ」
「もぉ~!」
長田とそんなやり取りをした、その夜。
ニュースも一通り観終えて風呂にも入って、そろそろ寝ようかと使い終えた歯ブラシの水気を切っていたタイミングで、インターホンが鳴った。
まもなく日付が変わろうかという非常識な時間に、続けて二度、三度。
まさか、と思いながら急いで玄関へ向かい、ドアを大きく開けると。
「うおっ!?」
驚いて声を上げたのは、泥酔した瀬野に肩を貸した長田だった。
「佐藤さん!? すんません、こんな時間に! おいこら瀬野バカ、こっち佐藤さんちじゃねえか。とっとと自分ちの鍵出せ。おまえんちはどっちの隣だよ」
狼狽えた長田に頭をはたかれて、ぐらぐらと目を半開きにして揺れていた瀬野が、來架の姿を認める。
「……せんぱぁいっ」
一気に破顔した瀬野が大きく手を広げ、ほとんど身を投げ出すように倒れてくる。それを受け止めながら來架は、まずい、と思った。
「待て、瀬っ……!」
制止する間もなく、來架の声は酒臭い瀬野のくちびるに塞がれた。視界を覆う瀬野の髪の向こうで、長田が呆気にとられて目を剥いている。
寄せてくる顔を押し退け、なんとか重たい体を玄関の中に引き入れて、慌てて來架はドアを閉めて施錠した。
「佐藤さん!?」
そのドアを、外から長田が叩く。会社の借り上げ社宅とはいえ、こんな夜中に玄関前で騒がれてはかなわない。
「悪い長田、大丈夫だから早く帰れ!」
そう声を張った時、瀬野を支えきれなくなって二人は廊下に倒れ込んだ。とたん、部屋着の裾から瀬野の手がじかに肌に触れてきて、來架は息を飲む。
「だめだ瀬野……瀬野、待て、あかんて」
來架の拒絶を聞き入れず、明確な意図を持ったてのひらが薄い胸を撫でた。
「佐藤さんっ?」
声量を落とした長田の心配げな声が、まだ外から聞こえてくる。長田はまだ帰っていない。それなのに、瀬野はここで事に及ぼうとしている。
止めなければ、と必死に身を捩る來架だが、上背の勝る瀬野の体を押し退けることはできなかった。
「……あっ」
乳首をつねられながら首筋に噛みつかれ、來架のくちびるが艶めいた声を漏らしてしまう。
二ヶ月の間、誰とも肌を合わせていなかった二人は、性的な接触に飢えていた。
「先輩、……先輩」
「や、あかん、瀬野……あ、あっ、あっ」
躊躇のない手が下着の中をまさぐり、無遠慮に後ろのあわいに中指が差し入れられて、來架は背を震わせる。久々に感じる愛しい人の愛撫は、性急さが痛みを呼んでもそれすら性感に転化されていくようで、抗う術もなく來架を引きずり込んで溺れさせていく。
内側で腫れた前立腺を指先で巧みになぞられて、來架は嬌声を上げた。
「ん、んあぁっ、やめっ……」
「いいの?」
「い、いいっ、もういきそっ……!」
「待って、俺の、入れさせて」
追い上げられた來架と同様、瀬野の呼吸も荒い。興奮に逸る手が來架のズボンと下着を剥ぎ取り、自分のスラックスの前立てを寛げてぬらりと屹立した怒張を取り出す。
仰向けのままの來架の膝裏を、瀬野が押し上げて開かせる。固い廊下の床に肩甲骨が当たる痛みに、一瞬來架は我に返った。
「ま、瀬野待っ……!」
向かい合う体勢で挿入したことは、これまでに一度もない。反り返った性器も、花村のものではない顔も、瀬野へ晒したまま。
その罪悪感に思わず顔を覆おうとした來架だったが、その両手首を瀬野は掴んで、床に押し付けた。
「あ、ああぁ――!!」
瀬野の二の腕に両脚を抱え上げられ、ほとんど真上から挿入するような角度で一息に貫かれて、來架の嬌声が悲鳴に近くなる。それもお構いなしに、瀬野は激しく腰を打ち付けてきた。
半ばまで引き抜かれ、ばちんと音が立つほど強く奥まで穿たれる。その律動にゆさゆさと揺さぶられながら、切れ切れの喘ぎが止められないまま來架は絶頂へ押し上げられた。
「んあっ、あっ、ああっ!!」
間歇的な吐精が、來架自身の部屋着の胸元を汚し、後ろを穿つ瀬野の屹立を激しく締め付ける。その吸い付きに瀬野は呻きを漏らし、來架の肚の中に精を放った。
(あぁ、生で中に……)
どくどく震えながら來架の中で瀬野が体積を失っていくのに呼応するように、來架は冷静さを取り戻していく。
眇めた目で來架を見下ろす瀬野と目が合って、來架は顔ごと視線を背けた。
「……瀬野、抜いて」
震えた來架の声に、瀬野ははっと目をしばたたかせた。一気に酔いの醒めた顔で後ずさった、その拍子に萎えた性器がずるりと抜ける。
「ごめん……來架さん」
蒼白した顔で謝罪され、來架を來架として認識しているらしい瀬野の目から隠すように、來架は慌てて脱がされたズボンを手繰り寄せた。
「……や、大丈夫」
「ほんとごめん、こんな玄関先で、無茶なことして」
「う、うん、大丈夫やから」
俯いて前髪を手で押さえ、その顔を見せまいとした來架の頬に、不意に瀬野の指が触れる。
「瀬、……」
思わず來架は、憐憫のこもった瞳で見つめてくる瀬野の顔を、振り仰いでしまった。
そのくちびるが、小さく呟く。
「……こんなほくろ、先輩にはないのに」
ざぁっと、來架の頭から血の気が引いた。
心臓が、ばっさりと袈裟斬りにされたような感覚。
(……そら、そうや。僕は、花村じゃない)
すとんと項垂れて、來架は、玄関のタイルの目地を目で追った。
(瀬野が好きなんは、僕じゃない)
わかりきっていたことで、今さらこんなに傷つけることがいっそ不思議だった。
最初から、今に至るまで、ずっと來架は花村の代わりだった。瀬野が來架を抱いたことは一度もない。それでいいと言ったのは來架の方だ。
傷つくなんて、お門違いも甚だしい。
「……ごめん」
溢れるほどの後悔を滲ませて、瀬野は立ち上がった。
その背中が隣室へ帰っていくのを、來架は見送ることもできなかった。