好きな人の 好きなひと -02-


 二年前、來架は同期の花村の結婚式に呼ばれていた。その二次会に、花村の後輩である瀬野も参加していた。
 皆から祝福され、幸せそうに笑い合う新郎新婦。それを遠巻きに見つめながら、強くもない酒を呷って泣きべそをかいていたのが瀬野だった。
「先輩……」
 花村のことを呼びながらメソメソと泣く瀬野を、周りは先輩思いの良い後輩だとか、それにしても懐きすぎだろとか、いじりつつも微笑ましくからかっていて、瀬野もそれなりのリアクションで応対していた。
 だから、あの場で瀬野の涙の本当の意味に気づいたのは、來架だけだっただろう。
「瀬ー野」
 普段通りの、親切な『総務の佐藤さん』の顔で、來架は声をかけた。その呼び掛けに、大好きな先輩が仲良くしている同期の人で隣室に住んでいる人、への視線を瀬野は向けた。
「……來架さん」
 特に二人が親しいわけでもないのに瀬野が來架を下の名前で呼ぶのは、花村が來架の下の名を呼び捨てるからだ。
 瀬野の、花村に向ける特別な感情を、來架は前から知っていた。
「瀬野、僕と付き合ってよ」
 プロジェクターで投影された新郎新婦の馴れ初め動画のBGMが大音量で流れる中、來架は瀬野に囁いた。
「……え、なに……」
 酔っ払ってはいたけれどその囁きの意味はすぐに理解したらしい瀬野は、狼狽して來架を凝視する。その視線に柔らかく微笑んで、來架は言葉を重ねた。
「花村は結婚しちゃったよ」
「……」
「もう、花村には手が届かんよ。って、言われんでもわかってるから泣いてるんよな」
「……そ、れは……」
 來架を見つめていた視線が、力を失って足元へ落ちていく。
 同性の先輩への恋心が露見していたことと、その恋が叶わないまま終わったことを突きつけられて、きっと瀬野は打ちのめされている。こういうときの甘い誘いがとても効果的であることも、來架はよく知っていた。
「だったら、僕と付き合ってよ。花村の代わりにしていいから」
「――え?」
 疚しい光の灯った視線が、探るように來架へ向けられる。
 この頃、來架の耳には新しいピアスホールがひとつ追加されたところだった。
 正直なところ、この時の來架はさほど瀬野に強い関心を抱いていたわけではない。ノンケのくせに、うっかりノンケの先輩に恋して勝手に失恋して御愁傷様、くらいに思っていた。
 けれど向けられた視線の疚しさが、妙に心地よかった。
 少し、自棄を起こしていたのかもしれない。
「僕を、花村の代わりに恋人にして」
 耳元で誘惑されて、瀬野は濡れた瞼を強く瞑り、來架の手を取った。
 二人で二次会会場を抜け出し、向かったのは來架の部屋。1DKの奥の寝室に行き、スーツを脱ぐなり瀬野は、來架をベッドに押し倒した。
「先輩、先輩」
 花村を呼びながら、ろくに男同士のセックスの手順も知らないだろうに闇雲に肌を探ろうとしてくる瀬野を、愚かしく、不憫に、可愛く思った。
 慣れない手を導きながら、來架は瀬野に抱かれた。明日には互いの間に後悔しか残らないのだろうと思いながら。
 この時、來架は別に瀬野を好きになるつもりもなかったけれど。瀬野から花村へまっすぐに向かう思慕を感じながら、それがもし自分に向かってくれたなら、という想像をしてしまった。
(もし、そうだったら……)
 想像の先を、考えることに意味はない。
 その夜から、瀬野は來架の恋人になった。
 でも、瀬野の恋人が來架だったことは、一度もなかったのだろうと思う。

 まもなく日付が変わるという時間になって、インターホンが鳴った。
 ソファーで本を読んでいた來架が腰を上げようとしたら、立て続けに二度三度とインターホンが鳴る。玄関前の様子が目に浮かんで、來架は思わず笑ってしまった。
「はいはい」
 呆れながらドアを開けると、赤い顔でニコニコしている瀬野と、それに肩を貸した困り顔の花村が並んでいた。
「こんばんはー!」
「こら、夜中にこんなとこででかい声出すなバカ! ごめんなー來架、やっぱこいつ、またこっちに帰るって聞かなくて」
「いいよ、花村も大変なぁ。ほら瀬野、はよ入って水飲み」
「はぁーい」
「じゃあ、來架頼むな、週末に悪いな」
「うん、花村もお疲れ。気ぃ付けてな」
「おう。……あ、來架」
 ドアを閉めようとした來架を、ふと花村が呼び止める。
「ん? 何?」
「あぁ……来週でいいんだけどさ。ちょっと、会社で話がある。手続き関係の相談、いいか?」
 改まった花村の様子に察するところがあって、來架は薄く微笑んだ。
「……うん、いいよ。来週な」
 じゃあ、と軽く手を上げて花村は帰っていき、施錠して來架は室内へ戻る。その來架を、
勝手に冷蔵庫を開けて水を飲んでいた瀬野が、グラスを置いて無言で抱き締めた。
 嬉しくて、同時に切ない。この腕が触れたいのは、本当は自分ではないことを知っているから。
 寝室へ行き、くちづけられながらベッドに横たえられる。慣れた体は、その先への予感だけで潤んでしまうようだった。
 酔って來架の部屋を訪れる瀬野は、必ず來架を抱く。わかっているから、來架は準備万端で瀬野を迎え入れる。
「あ……あ、瀬野……」
 瀬野は來架以外の男との経験がない。すべて來架が手解きをしたから、瀬野の愛撫は対來架仕様になっていて、接触の一つ一つに來架の体は緩んでほどけていく。
 服を剥がれ、露出した白い肌を優しく撫で回され、背中にキスをされる。気持ち良くて、溶けそうで、なのに酷く寂しい。背後から抱き締めてくる体が熱を持つほど、余計に。
(なんで……好きになったりしちゃったんだろ)
 性経験は豊富な來架だが、自分が好きな相手と抱き合ったことは過去にない。恋人として一定期間を過ごしたこともあるけれど、それらは全て相手の意向に合わせて流されていただけだ。
 なぜだか好きになるのはノンケばかり。想いが叶うことはない。鬱積する肉欲を発散する唯一の方法は、愛情を伴わない性行為だった。
 そういう関係だけで良かったはずなのに。それで身体は満たされていたのに。
 心まで満たされたいなんて、そんな幻想はとっくの昔に捨てたし、そんな奇跡が自分の身に起こるわけがないと諦めている。全部、ちゃんとわきまえている。
 それなのにどうして、と後悔する度にままならなさが嫌になる。
 どうしても何もない。どうにもならないのだ。
「――先輩」
 熱に浮かされたような瀬野の囁きに、來架は目を閉じる。
 ああ、あのとき手を伸ばすのではなかった。