翌日、誠司が昼過ぎに軽バンで空港へ行くと、ちょうど飛行機が着陸するところで、しばらくして本当に到着ゲートから幹が出てきた。
「あ、誠司くーん」
あまりに自然に、あまりに暢気に手を振られて、感動の再会という雰囲気でもなく、誠司も手を振り返した。
「ごめんね、迎えに来てもらっちゃって」
「ううん。持つよ」
「ありがとう」
幹は前回とは違って、手荷物のほかに、小さめのキャリーケースも持っていた。ちゃんとこちらで数日過ごす想定の荷物だ。
並んで歩きだす。誠司の肩より少し高い位置に幹の頭がある。髪はやや短くなっていた。誠司も一週間ほど前に切ったばかりだから、幹もその変化に気づいているかもしれない。
空港を出て、車の後ろに荷物を載せて、助手席に幹が乗り込む。エンジンをかけると、幹が携帯で地図を差し出してきた。
「あのね、駅の近くにある不動産屋を、何軒か回ってほしくて。ネットである程度物件は見繕ってきたんだけど、詳しい話を聞いて、できたら内見もしておきたいから」
「あ、うん。わかった」
のんびりしているように見えて、幹は意外としっかりしているらしい。以前はあまり見る機会のなかった幹の要領の良さを見て、誠司は不思議な気分だった。
不動産屋でも、幹は事前に見つけてきていた物件の資料を示しながら、てきぱきと条件の交渉をしていた。リフォームや鍵交換の状況、ガスは都市ガスか、エアコンは既設かと、誠司が今の部屋を決めるときには気にもしなかったようなことをこまごまと確認していく。
結局不動産屋を三軒回り、各々一軒ずつの部屋を内見して、誠司の部屋に戻ってきたのは夕方遅い時間だった。
「ごめんね、長々と連れまわしちゃって。ピザでも取ろうか。おごるよ」
言いながら、幹は持ち帰った候補物件の間取り図をテーブルに並べて眺め始めた。
「ここから近いのはこの物件だよね。でも設備はこっちの方が新しかったなぁ」
楽しそうに見比べている幹を、部屋の入り口でただ誠司は見つめていた。
会えたらすぐに抱き締めたいとか、車に乗ったらキスしたいとか、部屋に入ったら寝室に直行したいとか、いろいろ考えていたはずなのに、何も行動に移せない。
「……誠司くん?」
心配げな笑みを向ける幹が傍にいるというだけで、胸が詰まって誠司は頬の内側を噛んで俯いた。泣きそう。でもそんなの格好悪すぎて顔を上げられない。
立ち尽くしている誠司に、幹が歩み寄る。無言で確認するみたいに、じっと視線を合わせて見つめられた。そらさずにいると、幹の指先が肩口に触れる。
「……前に、言ってくれた時と、気持ちは変わってない?」
問われ、強く頷くと、目を閉じながら幹が背伸びをした。くちびるに、触れるだけのキスをする。ベッド以外の場所で、幹からキスをしてくるのは初めてだった。
くちびるを離し、誠司の首筋に額を寄せて、背に腕を回してくる。
「……もう、家賃代わりなんかじゃない」
掠れた声が囁いた。
「僕もきみを愛したい」
望んだ幹に、本当? とは、誠司は訊かなかった。冗談でも、やっぱりうそ、などと否定する機会は一切与えたくなくて。
背に回った幹の腕は、抱き返されることを請うていたけれど、誠司はその腕を解かせて強く引いた。そのまま寝室へ連行する。
ベッドへ押し倒すように横たえ、その性急さに引かれるかと案じたけれど、細めた目を潤ませた幹はむしろそうされることを望んでいたように、すぐに誠司の背を抱いた。
「んっ……ん、ぅ……」
深くくちづけながら幹のシャツの前を開け、冷えた手で素肌を探ると、きゅっと眉を寄せて幹が身じろぐ。初めての時はそれが拒絶の仕草かと勘違いしたけれど、今はもっと深く触れてほしいという意思表示だということが分かっている。
「あの、ね、誠司くん」
息を上げて、くちづけの合間に幹が誠司を呼んだ。
「ん?」
手を止めて瞳を覗くと、澄んだ黒目が誠司を映す。
「昨日、電話したときにね。きみから少しでも、今更感とか、求めてない空気を感じたら、僕は生存報告だけをして、もう二度ときみとは関わらないつもりだった。改めて定住する部屋を探して、向こうで仕事を続けて」
そうだったのかと、誠司の背筋が寒くなる。もしそうなっていたら、を想像するのはとてもじゃないが耐え難かった。
「……僕は怖かった。きみを好きになること。またいつか、好きな人が僕を望まなくなること」
幹の細い指先が、誠司の下瞼に触れる。昨日の涙の跡を辿るように、愛しげに。
「でもきみが僕を求めてくれたから、僕はもう、怖がるのをやめようって思えた」
誠司の耳元を抱くてのひらに引き寄せられて、くちびるとくちびるが触れ合う。
「今はあんまり、怖くないよ」
触れ合わせたまま、幹が囁いた。
言葉にならない感情が胸にあふれて、込み上げるままに誠司は幹を抱き締める。好きで、好きすぎて、早く幹のぜんぶを確かめたかった。
「あ、あ……待って」
ベルトを外してくつろげた前から手を忍ばせると、恥じらって幹が誠司の手を阻もうとする。触れた誠司も少々驚いた。今までと比べて、格段に反応がいい。
「……見ないで」
目元を染めて、プイッと、随分子どもっぽい仕草で幹は顔ごと背けてしまう。ここで笑うと機嫌を損ねてしまうので、誠司は幹の耳元に顔を伏せ、耳の後ろのやわらかい皮膚を吸った。とたんに息を漏らして首を縮める。
「かわいい」
「やめてよ……もうすぐ二十九だよ僕」
「俺この前二十二になった」
「え、誕生日いつ?」
「二月二十二日」
「わ、二揃いじゃん。記念の日だったのになぁ、お祝いしてあげたかった」
「今してもらってるようなもんだからいい」
幹と気持ちが通じ合った、それが一番のプレゼントだから、ほかに何もいらなかった。
欲がないなぁ、と言った幹が、ふと目をしばたたかせる。
「……ねえ、服全部脱いで、横になって」
「え?」
「早く、僕も脱ぐから」
急かされて、誠司は言われるままに服を脱ぐ。その横で、幹もちょっと前を隠しがちに服を脱ぎ、二人とも全裸になると、今度は誠司が幹に押し倒された。
「僕も技巧派じゃないから、お祝いってほどありがたみのあるもんじゃないかもしれないけど……」
上に跨がってきた幹が少し後ずさり、あらぬところに顔を伏せようとするのを見て、ようやく誠司は幹の意図に気がついた。
「ちょっ、ダメ!」
半身を起こし、慌てて幹の口を手で遮る。
「そんなことしなくていいよ! き、気持ち悪いでしょ」
「そんなことないよ。普通でしょ、フェラくらい」
「何言ってんの!?」
「……あぁ、きみは気持ち悪いと思ってるんだね。じゃあきみはしてくれなくていいよ。僕はしてあげたいんだから放っておいて」
やや気分を害した様子で続けるものだから、強く止めることもできずに枕に頭を落とした。
「……う」
否応なく声が出た。あたたかくてやわらかくて狭くて濡れた、後孔ともまるで違う感触に一気に持っていかれそうになって、眉間に拳を押し当てる。包まれたまま、水生の軟体動物みたいなぬめった舌に先端付近を繊細に舐められて、悲鳴を上げたくなった。
「ああ……まじでやばい。もう出そう」
だから放してほしくて訴えたのに、幹は口をさらにすぼめて吸い付き、聞こえよがしに濡れた音を立てて頭を上下させる。これはいかせるつもりだとわかって、ギリギリで幹の額を押し退けた。
「まじで! 出ちゃうから!」
「いいのに。出してよ」
「絶対無理! もう現時点で申し訳なさすぎて土下座したいくらいなのに」
つまらなそうに口を尖らせた幹を、ぎゅっと抱き締める。そのまま体を反転させて、上下を入れ替えた。
「幹さんのこと、大事にしたいから」
「口に出したら大事にしてないってことにはならないよ?」
「俺がやなの。……とりあえず今日のところは勘弁してよ」
完全に白旗をあげた誠司を、何か言いたげな目で幹が見上げる。
前に居候していた頃も時々、幹はそういう目で誠司を見つめることがあった。ちょっと、誠司のことを本気で理解できないと思っているような、不思議そうな目。
そうだろうね、理解できないだろうね、今はまだ。あなたが一番よく理解していた人とは、俺は違う人間だから。
一割くらいはどす黒い感情で、そんなことを思ってしまう。
幹の視界の中に、まだ、ずっと、『彼』がいることくらいわかっている。それを取り払えとは言いたくないし誠司は言わない。黒い感情ごと、幹を抱くのだと思っている。
「……好きだ、幹さん」
幹もきっと、彼への感情を、吐き出すことも捨てることもなく持ち続けていくのだろう。それでいい。
「僕も。好きだよ」
こうして応えてくれるなら、それでいい。