さやか 月に -08-


 幹がいなくなって、誠司に元の日常が戻ってきた。
 元の、と言うには語弊があるかもしれない。わざわざ調理するのが面倒になった魚介を持ち帰ることはなくなり、スーパーの惣菜を買うようになった。そこまでは元通りだが、干しっぱなしのハンガーから服を外して着るようになり、部屋の隅に埃が堆積しているのに気づいてから掃除機をかけるようになった。生活レベルは元通り以下だ。
 唯一習慣として残ったのは、漁に出る前に軽く食事を摂ること。それもわざわざ作るのは億劫なので、夕飯の残りやコンビニおにぎり程度。その変化に、祖父は目ざとく勘付いた。
「女と別れたんか」
 漁場で船から網を下ろしながら、訊いてきた祖父に背を向ける。
「だから元々そんなんじゃないって」
 祖父の前での年季の入った仏頂面に、祖父は苦笑いを浮かべた。
「まー曾孫の顔が見たいとは言わんけどな。孫がしみったれた面ぁしとるんも、じじいは不憫に思うだわ」
 それ以上は慰めるでも元気づけるでもなく、祖父はいつも通りの漁の師匠で、的確な指示に従って誠司は舵を操った。
 本格的な冬が訪れると、海が荒れて沖へ出られる日はほとんどなくなってくる。
 長いオフシーズンに、誠司は水産加工などのバイトをするのだが、このバイトがあまり得意ではなかった。作業が向かないのではなく、昔からよく知っている近所のおばちゃんたちが共同作業者となるので、彼女らの終わらない井戸端会議にえてして誠司も巻き込まれるのだ。
「宮本さんとこの長男、今度結婚するだって」
「えー、あっこは都会に出とんさるじゃなかっただか?」
「そうそう、だけえ結婚しても向こうでマンション買って暮らすだって。お嫁さんも企業でバリバリ働いとるらしいわ」
「そうなんかぁ。誰かお嫁さん連れて帰ってきたりせんだかいなぁ。人がどんどん減っていくばっかりだがよー」
 そしてそういう会話の最後には必ず、「で、誠司くんはどうなの?」と続く。
「ないです。俺には人口増加への期待は一切かけないでください」
 それがお決まりの返しなのだが、なぜご婦人方は学習しないのだろう。
「なんでだー? 誠司くんかっこいいだけえ、その気になったらなんぼでもおるだろう?」
「若いのに枯れとったらいけんが。もっとがんばりんさいよ」
 その激励もまた毎度のことで、「はあ」と覇気なく返して終わる。枯れてねえ、と内心で反発しながら。
 枯れてはいないけれど、そろそろ尽きかけている想いは、相変わらず方向だけは幹に向いている。彼がいなくなって三か月が経とうとしていた。
 最初のひと月くらいは、東京へ帰って落ち着いたら、幹から何か連絡があるのではないかと毎日待ちわびていた。そのすべてが期待だけに終わった。
 年が明けて、誠司は思い切って、幹の免許証に書かれていた住所を訪ねることにした。智也にはそんなストーカーみたいなまねはできないと言ったものの、会って無事を確認したい一心でようやく辿り着いたその部屋には、既に別の住人が入っていた。当然ながら、前の住人のことなど知らないと不審な目で見られて、誠司は失意の中東京を後にした。
 ここ一か月は、意識的に幹のことはあまり考えないようにしていた。一言の連絡もなく、部屋も引き払ってしまっているとなると、どうしてももうこの世にいない可能性を考えてしまうから。
 生死も定かでない相手の無事を祈りながら想い続けるのは、なかなかに精神力を要することで、少しずつ誠司も想いを閉じる方向へ舵を切り始めている。
 仕事を終えて部屋に帰っても、誰もいないのが当たり前になった。二十二年間のうちのたった一か月間しか重ならなかった二人の時間を、いつまでも惜しむのはやめようと思う。
 携帯を出し、カレンダーを確認する。やっともう少しで三月に入る。そうすれば少しは船も出せるようになるだろう。しかしそれまでおばちゃんの話のネタになるのもけっこうきつい。漁協関係以外の単発のバイトでも探すかな、とバイト情報を検索し始めた。
 工場の検品。アンケート会社のデータ入力。携帯キャリアのイベントスタッフ。できそうな仕事は載っているけど、やりたいと思えるものにはなかなか行きつかず、どんよりと携帯を投げた。
 プールに泳ぎにでも行くかな……と腰を上げかけたところに、さっき放り投げた携帯が鳴った。液晶には、登録されていない番号が表示されている。しばらく放置していると一度切れ、間を置かず同じ番号からまたかかってきた。
 知り合いか? それとも何かの勧誘? いずれにしても自分に用がありそうな鳴らし方なので、後者だったら面倒だなと思いつつ仕方なく電話を取った。
「はい」
『僕』
 耳元で響いた声に、心臓が止まったと思った。
 たった一言でも、聞き逃すわけがない。望んで、待ちわびて、けれどもう聞くことは叶わないと思っていた人の声。
 でも一方でまさかと思う気持ちもあって、声が出ない。黙っていると、呼吸音が聞こえた。
『幹です。あれ、忘れちゃった?』
 その声に、はにかんだ笑顔が目の前に思い浮かぶ。もっと聞かせてほしくて、強く携帯を耳に押し当てる。
「生きてたんだ……」
 ものすごい安堵が胸に広がり、呟きとともに涙がこぼれ落ちて止まらなくなった。
『……誠司くん? 泣いてるの?』
「泣いてない」
 訊かれて即座に否定したけれど、洟をすする音が聞こえただろうから、たぶんばれている。
『……生きてるよ。きみと約束したんだから』
 宥めるような声。覚えていて、それを守ってくれたのだと知る。
 会いたい。それしか言いたい言葉が思い浮かばない。
 だけどそれは言ってはいけないと思った。幹に何も望まないと決めた。こうして声が聞けただけで充分だと思わなければ。
 言葉なく電話の向こうの音に耳を澄ますと、かすかにパソコンのキータッチの音が聞こえた。自宅だろうか。仕事の合間か。
『……今、東京のウィークリーマンションにいるんだ』
 思っていたことを言い当てられたようで、ドキッとした。
『こっちで、仕事の整理をしてた。そっちにいた一ヶ月間、放置してたクライアントに謝りに行ったり、まあ切られちゃったり、溜まってた仕事を片付けたり。やっと一段落して、遠隔で仕事できる手はずが整ったから、電話した』
 幹の言葉から、彼が誠司を忘れていたわけではないことが感じられて、それだけで胸がいっぱいになる。
『……本当は、もっと早くに連絡しようかと思ったんだ。きっと君が心配してると思って。でもお互い、頭を冷やす時間が必要だと思った。冷静になって、一度お互いのいない日常に戻って、それでも気持ちが変わらないかどうか確認しなきゃって。それに三ヶ月は短いかとも思ったけど――僕がもう待てなかった』
「え……?」
 さっきから、幹はよくわからないことを言っている。遠隔で仕事ができる手はずって? 待てなかったってどういうこと?
 頭の中で懸命に意味を追っていると、電話の向こうでふっと幹が笑った。
『今住んでるとこ出て、そっちに移住しようかと思ってる』
 信じられない幹の話に、誠司は思わず唖然とした。なんで? 移住? 東京から引っ越し? 何のために?
 訊きたいことはいくらでもあったけれど、そのどれも訊いてはいけないと思った。訊けばその理由について幹に再考の余地を与えてしまうかもしれない。そうしたら我に返って、やっぱりそんなのやめようと思ってしまうかもしれない。
 だから疑問は全部飲み込んで、誠司は強く携帯を握った。
「いつ来れる?」
 性急な声は、つんのめったようになった。
『こちらはいつでも。解約する前に一度そっちに行って、住まいを決める間、また居候させてほしいんだけど。どうかな、きみの都合が良ければ』
 遠慮がちな声に、すかさず脳裏に明日の波浪予報を思い出す。どうせ明日も船は出せず、仕事の予定は何もない。
「今日! ダメなら明日! それもダメなら、なるべく早く」
 勢い込んで提案する誠司に、幹が「さすがに今日は」と笑いを漏らす。
『……じゃあ、明日。早く会いたいね』
 穏やかな声がそう告げて、電話は切れた。
 すぐさま誠司は着信履歴から、幹の電話番号を登録する。ややあって、LINEに自動で幹が友だち追加されたという通知が来た。夜にはそのLINEに、翌日の飛行機が取れた旨と到着予定時刻の連絡があった。珍妙な動きの熊のスタンプとともに。
 了解、と返すとすぐに既読がついた。繋がれた、という実感がじわじわと湧いてくる。
 でも、本当に明日、幹がこちらに来るのだろうか。今日まで、さっきまでもう二度と会えないと思っていたのに、本当に明日?
 信じられない思いで誠司はそこから何も手につかず、ベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。