*
目が覚めて、まだ部屋は真っ暗で、ぼんやりと隣を見やると誠司の寝顔があった。
(あれ、もしかして僕失神した?)
全身がだるくて、もう何も出ないってくらいからからなのに、不思議な充足感があって戸惑う。
床が白く四角く照らされていて、引き寄せられるように幹は重い体を起こした。隣の誠司を起こさないように、音を立てずにベッドに座る。
月がきれい、なんて、不用意なことを言ったものだ。深読みをされたら、余計な気を持たせてしまうところだった。同じ口で「絶対にきみを好きにならない」なんて言うのだから、言っていることが無茶苦茶だ。
月明かりに向けて、腕を伸ばす。もうそこに痣はない。腫れ上がった瞼も頬も、切れたくちびるも口内も、あのときの傷はすべてとっくにきれいに癒えた。
痛くて、怖くて、殺さないでと願ったのに、翌朝から今度は、あのとき殺されていれば良かったと悔やむことになった。独りで死なせてしまったことが、悲しくて申し訳なくて。自分が死んでおけば、彼が死ぬことはなかったのではないかと。
必要ない。自分はもう誰にも必要ない。そう思っていたのに、幹を呼ぶ声がある。
――あなたを愛したい。
やさしくて、哀しい声。
もう一度誠司の寝顔に視線を落とす。
起きているときはあまり愛想がなくて、寡黙で、年齢よりかなり大人っぽく見えるけれど、寝顔は年相応かもっと下に見えるくらい、幼く感じられる。
誠司は幹しか男を知らない。初めて抱いた相手が同じ部屋にいて、手を伸ばせばすぐに届いて、その状況が若い体と頭には少し刺激が強かったのだろう。
鳥の刷り込み的な愛着を、愛情と勘違いさせてしまった。いつか我に返ったら、そんな大層な感情ではなかったことに気づくはずだ。
そしてその時、誠司も疎ましく思うのだろう。「おまえさえいなければ」と。
ぐうっと、内腑がせり上がるような息苦しさを感じて幹は胸を押さえた。
わかっている。誠司はきっとそんなことは言わない。自分の痛みは自分で処理してきた子だ。この子はそれを人のせいにしたりはしない。だけど、だからこそ、間違わせてやりたくない。間違いを幹のせいにして逃げることができない子だから。
宏明を追い詰めて壊してしまった。もう誰かを愛することはできない。怖い。愛した人が、自分のせいで壊れてしまう。だからいなくならなきゃ、と思ったのに、誠司はそれを許してくれない。こんな自分を愛したいと言う。もうどうしていいかわからない。傍にいたら、愛してしまう。もうだめなのに。
最後の夜に、宏明に言われた言葉を耳に返す。いつも思い浮かぶ宏明の泣き顔に、なぜか今日は誠司の切実な表情が重なった。
(……ごめんね)
白い月に向かって、何度も幹は謝った。誰に、何を、かは定かではなかったけれど。幹の座る位置から月が見えなくなるまで、長い時間、そうしていた。
*
カチャンと、金属が落ちる音が遠くで聞こえた。鍵束を三和土に落としたときの音だ、と思い出して誠司は重い瞼を上げる。
無意識に隣の体温を探って、冷たいシーツの感触しかないのがわかって飛び起きた。
「幹さん?」
見回すまでもない狭い部屋だ。そこに幹の気配はない。トイレも風呂場も確認したけれどもちろんいない。そして玄関のドアポストの下に、この部屋の鍵が落ちているのを見つける。ドアは施錠されていた。
「……っ!」
いてもたってもいられず、昨日脱ぎ捨てた部屋着に急いで袖を通す。幹の着ていた服は部屋の隅に畳まれていて、そこにあったはずの、幹自身がここに来たときに着ていた服とバッグがなくなっていることに気づいた。
取るものもとりあえず、サンダルを突っ掛けて外に飛び出した。
時刻は朝六時過ぎ。まだ外は薄暗く、冷え込んで息が白く煙る。バス通りに出ても車通りはまばらで、人の姿はない。
駅か空港か、それとも港か、どこを探せばいいかわからず、アパートに戻って闇雲に車を発進させる。港の可能性は考えたくなくて、幹が飛行機でここまで来たと話していたのを思い出して空港へ向かうことにした。
小さな地方空港に着くとタクシーが何台も乗り付けていて、東京行き一便の保安検査には既に列ができていた。列にはいないことを確認して、ガラス張りの搭乗待合室の中にも目を凝らすが、やはり見当たらない。ロビーも端から端まで探したが、姿はなかった。
飛行機ではなかったのかと、取って返して駅へ向かう。
駅に着いた頃にはもう通勤や通学の乗客が多くいて、ダイヤを確認すれば新幹線への乗り継ぎに間に合う在来線は既に何本か出てしまった後だった。それでも誠司はホームまで探しに上がり、けれどどれだけ探しても幹はいない。
階段を降り、一つしかない改札近くの柱に凭れてしゃがみこむ。ここにいれば、乗降客は一通り目に入るはず。
そうして一時間近くが経ち、飛行機の二便の時間が近づいて、もう一度空港へ行ってみようかと思っていたとき。
「……誠司?」
声をかけられて、弾かれたように頭を上げた。
「何やってるんおまえ、こんなとこで、そんな格好で。さむないんか?」
怪訝そうに立っていたのは、大学へ向かう途中の智也だった。薄手のダウンを着ている智也を見て、誠司は自分の姿を省みる。部屋着のジャージにサンダル履き、上は長袖のTシャツ一枚。駅の外の温度計は一桁を表示していて、それまで寒さを感じていなかったのが不思議なくらいだった。
「幹さんが……」
続きを口にできないでいると、智也が隣にしゃがんでくる。
「おらんなったんか」
どこか納得しているような声に、黙って頷いた。
「……そうか。まあ、出会いからしていつおらんなっても不思議ではなかったけどな」
智也はそう考えているだろうと、誠司が思っていた通りのことを智也は言う。
「連絡先は?」
「知らない。住所くらいしか」
「行ってみるか?」
「無理だろ。そんな、ストーカーみたいなこと」
「じゃあ、諦め」
驚くほどきっぱりと、智也は言った。
「あの人と関わったんは、もらい事故みたいなもんだろ。この後どうなったっておまえには何の責任もないし、気に病む必要もない。あの人がおまえから離れるって決めたんだけえ、おまえにできることはないだろ」
智也の言葉を頭の中で反芻する。幹が、誠司から離れることを決めたのだということ。
駅のアナウンスに促されて、智也は立ち上がる。じゃあな、また家に寄るから、と言い置いて階段を上がっていった。
智也の言う通りだ。会いに行く勇気もないのに、ここでもし会えたとして、引き留めてどうするというんだろう。自分から離れたがっている相手を。
深い後悔で胸がいっぱいになる。
好きだなんて、言わなければよかった。一ヶ月経ったかどうかなんて、どうでもよかったのに。自分が幹を追い詰めて、出ていかざるを得ない状況を作ってしまったのかもしれないと思うと、とてもやりきれなかった。
昨日の夜、月を見ながら何を思っていたんだろう。亡くなった彼を思い出していたのだろうか。誠司が幹の傍にいたいと思うように、幹も彼の傍に行きたいと思ったりしているのだろうか。
今もまだ、幹は幹を許せずに、消してしまいたいと思っているだろうか。