さやか 月に -06-


 一緒に片づけを終えて先に風呂を使って、幹の使うシャワーの音を聞きながら、誠司は寝室の床に座って窓から夜空を見上げる。
 夜はずいぶん冷え込むようになって、冴え冴えとした白い月が浮かんでいる。天気のいい夜だ。
 そうだよな、と誠司は思った。そりゃそうだ。幹には幹の生活があった。一時挫けて、たまたまここに流れ着いたけれど、一息ついて傷が癒えたら、また元いた世界に戻っていくのかもしれない。こんな田舎の漁師とは、交わりようのない生活に。
 寂しい、と思ったら耐えられなくなった。幹がここからいなくなること。毎日会えなくなること。話せなくなること。触れられなくなること。どこかで元気にしてくれていたって、幹の世界とこことは遠すぎる。そして自分はここから動けない。
「……電気もつけないで、そんなとこ座って。どうしたの?」
 静かに、濡れ髪を拭きながら幹がやって来た。いつも通り足音を立てない歩き方で、誠司の隣に座る。
「月がきれいだね」
 満月にはまだもう少し満ち足りない、同じ月を見上げて幹が言う。
 高校の時、国語の教師が、夏目漱石は『I love you』をそのように訳したと教えてくれたことがあった。幹がそう思ってくれていたら、と頭の片隅で願う。けれど今の幹は絶対に、そういうつもりでは言っていないだろうこともわかってしまう。
 隣の手を取って、引き寄せた。意図を察した幹が目を閉じて、くちびるを薄く開く。そこにくちづけ、接合はすぐに深まり、互いの熱がふわりと上がった。
 息継ぎのように離れ、そのまま強く幹の背を抱く。子どもをあやすように幹が抱き返し、とんとんと軽く叩く。
「……ベッド、上がろ」
 色を帯びた声が耳元に囁いたけれど、幹を強く抱いたまま首を横に振った。
「誠司くん?」
 訝る声に、誠司は腕を解く。
「ねえ、ほんとに今日はどうした? 何かあった?」
 目を合わせて心配げに問われ、誠司はなるべく無邪気な笑みを作った。
「幹さん、覚えてた? 今日で幹さんがうちに来て、ちょうど一ヶ月なんだよ」
「――あぁ」
 けれど裏腹に、幹はテンションを下げてしまう。
「……もうそんなに経ったんだ。誠司くんには迷惑かけてるね」
「迷惑なんて、全然ないよ。むしろ幹さんがいてくれてありがたいくらいで」
「ううん、でもいい加減出ていかなきゃね。急いで次を考えるから、もうちょっと待ってもらえるかな」
「幹さん」
 意図が伝わらなくて、もどかしく幹の二の腕を掴んだ。
「そうじゃなくて。俺、この一ヶ月、ほんとに楽しかった。もう幹さんのいない生活に戻るなんて考えられない。これからもずっと一緒にいたい」
 言い募ると、目の前の幹の表情が険しく曇る。
「俺、幹さんが好きだ」
 言わせてももらえなくなる気がして、ギリギリで滑り込むように誠司は言った。けれど幹は深く俯き、ただ弱くかぶりを振る。
「幹さん……」
「言ったよね。僕がきみと寝るのは、居候させてもらってるお礼でしかないって。僕ときみとは、セフレ以下の関係だよ。それ以上を求められたら、なおさら僕はもうここにはいられない」
 固い声で拒絶され、誠司は言葉が出なくなる。黙り込んだ誠司を仰いで、幹は苦笑いを浮かべた。
「きみも、僕を好きだなんてバカな錯覚だよ。初エッチの相手にちょっと盛り上がっちゃってるだけ。絶対そうだから。下手なこと言っちゃうと後悔するよ」
 そんなことはない、後悔などしないと言おうとするが、それを遮るように幹が「それに」と続けた。
「僕には好きな人がいるから」
 その一言が、誠司の頭に冷水をぶっかける。
「……あ、そうなんだ」
 それくらいしか言える言葉は見つからなくて、腑抜けた声で口にした。
 このとき飲み込んだもうひとつは、言えない言葉。その好きな人を、あなたは喪ったのではなかったかと。
 ――僕が、人殺しだとしても?
 助けたその日に幹が呟いた言葉の意味を、誠司はもう何度も考えている。今思えば、あのときの幹はまだ酔いが醒めきっていなかったのかもしれない。無防備に口をついたそれは、幹自身が自分を責めてきた言葉なのではないか。
 幹が関わる形で、幹の身近な人がいなくなった。家族や友人の線もあるが、それが恋人だったと考えると、幹が謝礼と称して好きでもない誠司へ自分の体を無造作に投げ出すのも、哀しいけれどどこか合点がいく。
 好きな人を亡くして、その人なしでは生きていけないほど大事な人を喪って。その死を自分のせいにして、幹は後を追おうとしたのではないか。誠司はそう考えていた。
「……わかった。もう今以上のことは求めない。その代わりに、どうしてあのとき海に飛び込んだのか、教えてほしい」
 初めてそれを問うた誠司を、怒りと怯えを綯交ぜにした瞳で幹は睨む。
「きみに話す義理はないだろう」
 それに誠司は怯まなかった。
「そうだね。でも何の義理もないあなたを、俺は助けた」
「頼んでないよ!」
「幸せだって言ったじゃん!」
 声を荒らげた幹に被せるように声を張ってしまって、びくりと引いた幹の手を掴む。
「……俺の獲った魚、一緒に料理して一緒に食って、美味しいって。幸せだって、笑ったじゃん。死んでたら、できなかったことだろ」
 あの笑顔が嘘だったとは、誠司にはどうしても思えない。思いたくない。生きていられて良かったと、少しは幹にも思ってもらえていると、誠司は信じたかった。
 掴まれた手に、幹が視線を落とす。黙ったまましばらく俯き、諦めたように深い息をつく。
「……僕が会社に勤めていたのは二年前までで」
 静かな声に、幹が大事な話を始めたのだと悟って、誠司は幹の手を解放した。
「その三年前から、同期の男とつき合ってた。同い年で、三森宏明っていう」
 放された手を縮めて、幹は両膝を抱える。
「大好きだった。僕から告白して、彼は最初あんまり乗り気じゃなかったけど、無理矢理つき合ってもらった。彼は元々ゲイじゃなかったんだ」
 遠い目で、懐かしそうに、幹は五年前の思い出をなぞっている。
「それでも、宏明は僕を大事にしてくれた。僕はずっと幸せで、ずっと彼が好きで、別れてあげることなんかできなかった。考えられなかった。ただ自分勝手に、彼のことが好きで」
 膝を抱えた手に力がこもり、乗せた二の腕に爪を立てた。
「半年くらい前に、僕らの関係が会社で噂になった。僕はもう会社を辞めていたけど、宏明はチームリーダーを任されるようになったりして、少しずつ責任も大きくなってた。そんなときに……出処は今となってはわからない。根拠もあったかどうかわからない。でも、同僚に陰でコソコソ言われたり、チーム内の後輩から、『コワいんで別室で二人きりとかやめてくださいね』なんて、面と向かって言われるようになったりして」
 悔しそうに、幹の声が揺れる。
「だんだん、宏明は不安定になっていった」
 揺れに、涙が滲む。
「何度も別れてほしいって言われた。その度に僕は彼を引き留めた。そんな会社は辞めてしまえばいいって説得した。彼が仕事を頑張っていたことも知ってたのに、それを蔑ろにして。最後の夜もそんな話をして、口論になって」
 涙は拭われることもなく幹の白い頬を濡らし、月明かりで光った。室内は暖房で十分に温もっているのに、幹の両手が寒がるように自分の肩を強く抱く。
「彼は僕に暴力を振るった」
 痛みも思い出すのか、幹の体が震える。
「殴られて、蹴られて、立てなくなるくらい」
 加減のない暴力に、幹はそのとき本気で殺されると思った。
 体を丸めて床に伏せれば、踏みつけられ脇腹を蹴りあげられ、髪を掴んで引き摺られた。床に額を打ち付けられて、這わされたまま後ろから執拗に犯された。何度も赦してと訴えたけれど、行為は止まなかった。
「でも宏明は悪くない。泣いてた。泣きながら、おまえのせいだ、おまえさえいなければ、って。その通りだ。僕がいなければ、彼はそんな思いをすることはなかった」
「……幹さん、」
 告白が痛すぎて、それは違うと言ってやりたくなった。幹は悪くない。ただ恋人を愛していただけだ。その時の幹に会えるなら救ってやりたい。
 けれど呼び掛けも届かないのか、幹は誠司の方を向きもしない。
「その後のことは、よく覚えてなくて……たぶん僕は途中で気を失ってたんだと思う。翌朝、警察が訪ねてきて目が覚めた」
 夢だと思いたかったのだろうか。今も幹の視線が虚空を彷徨う。
「会社の敷地内で、宏明が首を吊って死んでたって。交遊関係に事情を聞いて回ってるんだって。朝早かったから、たぶん真っ先に僕のところに来たんだろうな。僕が全身ズタボロだったから、逆に驚かせちゃって、すぐに放免だったのは助かったけど」
 はは、と、場面にそぐわない笑いを漏らす。
「一人で自殺してる姿が防犯カメラに映ってて、何も疑われなかった。でも僕と宏明の噂は警察やご両親の耳にも入ってたんだと思う。最後のお別れは、させてもらえなかった」
 人殺し、と斬るような叫びで詰った、喪服姿の女性の声を耳に返すと消えたくなる。自身の腕を抱いた指が、強く皮膚に食い込んでいた。その指を一本ずつ外すように、幹は力を抜き、床に両手を下ろして後ろについた。
「それから一ヶ月くらいかけて身辺整理をして、たまたま前の晩の台風ニュースでここの漁港の荒れ模様が映ってたから、飛行機とってここまで来た。後はきみもご存知の通り」
 涙を雑に拭って、幹は誠司に向き直る。
「全部、僕のせい。僕がいなければ、僕が彼を好きにならなければ、彼を死なせることはなかった。僕はもういなくていい。もう、誰のことも巻き込んではいけない。僕は絶対に、きみを好きにならない」
 決然と、幹は言いきった。
 ああ、そうか。幹は単純に恋人の後を追おうとしたのではなかったのだ。
 彼がいないと生きていけない、などという感傷的な理由ではなくて。もう二度とほかの誰かを巻き込まないために、恋人を死に追いやった自分を、消してしまわなければならないという強い使命感で。
「……うん。わかった」
 頷いて、誠司はゆるく幹を抱いた。両腕で作った大きな輪の中に、幹を収める。逃げようと思えばいつでも逃げられる、そういう力で。
「それでもいい」
「誠司くん……?」
 腕の中で、幹が当惑した声を上げる。
「好きになってくれなくていい。亡くなったその人を好きなままでいい。今のあなたのままでいいから、傍にいてほしい。あなたを、死なせたくない」
 凪いだ声で告げて、瞳を揺らす幹にくちづけた。
「あなたを愛したい」
 愛してくれなくてもいいから。
 幹は何も答えなかった。その代わりに、誠司の腕を拒みもしなかった。
 言葉はなく、ただ抱き合って、戸惑いの空気は二人の遂情を引き延ばして長い繋がりになった。仕草だけで互いに求め合って、何度も一番深いところで繋がって、なのにどこまでも幹は遠かった。
 何度目かに気をやって、幹はそのまま意識を飛ばした。
 動かない幹の身仕舞いをしていると、まるで海で拾ってきた初日に戻ったような気がする。でも何度そこからやり直したって、たぶん誠司は幹を好きになるし、幹は誠司を受け入れないのだろう。
 全身の疲労感に、幹の隣へ横たわる。寝顔をいつまでも見ていたかったのに、眠気にさらわれて瞼がひとりでに閉じた。
 ――夜半に、ふと目が覚めた。
 眠くて眠くて、ほんの少ししか目を開けていられなかったけれど、視界の真ん中に幹の背中があった。こちらに背を向けて、ベッドに腰かけて、窓枠から外れていく月を見上げていた。きれいだねと、誠司も返したかったけれど声にならず、白い背を目に焼き付けて瞼を落とす。
 明日、もう一度あらためて話をしよう。俺はあなたに何も望まないから。あなたが傍で生きていてくれるだけでいいから。毎日旨い魚を獲ってくるよ。あなたが幸せだと笑えるように。
 だからごめん、今だけ、あなたを想って眠らせて。