さやか 月に -05-


「誠司、好きな人できた?」
 智也に問われて、誠司は目を見開いた。
「は?」
 ずいぶん大きく見開いていたと思うが、それは偏光ゴーグルの下に隠れて、あまり智也には伝わらなかったかもしれない。
「なんか最近、ちょっと機嫌よくない? まああんまわからんけど」
 なんとなくそう感じる、レベルの指摘であることを明かして、智也は水面に足をつけてスタート台の横に座り、ビート板を抱えた。
 町営プールの一番端、上級者コースに二人はいた。平日の午後三時という時間帯で、夕方からの子ども向け水泳スクールの準備をしているスタッフ以外、一般客は二人を除いて老人が四人いるだけ。一コース貸し切り状態だ。
 誠司は漁の後、体力づくりと暇つぶしを兼ねてここへは頻繁に訪れているが、智也と来るのは久しぶりだった。今日は午後の休講が重なったのだというが、医学部の智也は基本的に忙しい。
「ちょっと誠司、明るくなったよな。幹さんが来てからかなぁ」
 その名を出されて、誠司は努めて冷静にふるまった。
「変化点がそのタイミングだとして、『好きな人できた?』は質問としておかしいだろ。俺が幹さん好きみたいじゃねえか」
 ありえない、という口調で言うと、智也は笑いもしないでじっと誠司を見つめる。
「違った?」
「はあ?」
 反問が先ほどより強くなった。
「男だぞ、俺も。幹さんも。ないだろ。意味わかんねえわ。そもそもなんも変わってねえし」
 嘲笑うように言い捨てて、誠司は壁を蹴って泳ぎだす。不自然でなくちゃんと否定できただろうかと、水中でひそかに動揺する。
 誠司の変化を、言葉にして指摘してくるのは智也だけではなかった。今朝も漁の最中に、祖父がやけに嬉しそうに誠司の背中を叩いてきた。
「なんだぁ最近調子ええじゃないだか。よう働くがな」
「……来る前にちゃんと飯食ってくるようにしてるんだ」
「おぉ? 飯ぃ作ってくれる女でもできたんか?」
「そんなんじゃないし」
 祖父は何やらにこにこしながら、仏頂面の孫の顔をしばらく見ていた。
 二十五メートルプールを何度かターンして足をつく。水泳部だった現役時代はもっと連続で長く泳げたのに、年々体力も泳力も落ちてきているな、と感じる。そしてふと幹を思い出した。
 幹が来てから初めてプールに行くことを告げた時のこと。一緒に行くかと誘ってみたけれど、水着もないし、そもそも泳ぎは得意でないからと固辞された。
「得意じゃないなら練習すればいいのに。溺れたくても溺れられないくらい」
「どんだけ練習させる気だよ、体力皆無のアラサーに」
 呆れつつも、誠司が頻繁にプールに通っているのには興味があるらしかった。
「どのくらいの頻度で通ってるの?」
「んー。全然行けない週もあるけど、だいたい週一。多くて週三」
「えぇ、すごいね。部活じゃん」
「部活だったら毎日だろ。そこまでじゃない。泳力キープが目的だから。それでも高校の時ほどは泳げなくなったけど」
 衰えを明かすと、ふぅん、と相槌を打つ。
「プール行ったら、その日は何メートルくらい泳ぐの?」
「決まってないけど、だいたい二十五メートルを十往復」
「十往復!?」
「を、五セット、くらいかな」
「はぁ!? ドマゾじゃん!」
「クロールでゆーっくりだよ?」
「関係ないよ、理解できないよキロ単位で泳ぐとか。僕は陸で生きていく」
 どうやら本当に水泳が不得手らしい幹は、話を聞いただけでげんなりし、水着を買ったとしても一緒には行かない、と宣言した。
 その時の幹の様子を瞼に返すと、自然と口元に笑みがのぼる。かわいい。好ましい。愛おしい。そんな感情が、今の誠司の中にある。
 体から入った、と言われれば否定はできない。初めて体を繋げたのは、幹を好きになるよりも先だった。けれど、家事を負担してくれておいしい料理を振る舞ってくれて、優しい笑顔と穏やかな会話で気持ちを癒してくれて、時々は求めれば同衾してくれる。そんな幹に、誠司は坂道を転がり落ちるように夢中になっていった。
 家事も食事も性的奉仕も、幹は居候の謝礼だというスタンスを崩さない。礼などいらないから、誠司はそこに、もっと特別な感情を伴ってほしかった。
 一度経験すれば大したことではないとわかると言われていたセックスは、誠司にとってはやっぱり幹とだけ交わすことのできる、大事な行いで。ほかの人とであれば無味乾燥の性欲処理かもしれないが、幹とするのは全然違う。と思う。ほかの人としたことはないけれど。
「もうちょっとで、一か月経つ? 幹さん来てから」
 インターバルで休んでいるときに、ぽつりと智也が言った。
「いつまでおるつもりなんかな?」
 いつかは東京に帰る、ここからいなくなるのが前提の言葉に、誠司はひやりとした。
 ――いなくなる?
 自分の部屋から、生活から、いなくなることがまるで想像も実感もできないほどに、誠司の中で幹は大きな存在になっているのに。


 幹が誠司の元に来てちょうど一か月目のその日、誠司が漁を終えて部屋に帰ると、幹の姿はなかった。テーブルの上に、買い物に行ってきます、という書置きが残されている。それを見つけてほっとした。
 智也に幹がいなくなる可能性を指摘されてから、誠司は少しでも幹が部屋を不在にすることに不安を覚えるようになってしまった。
 もちろん幹も服や日用品を買い足したり、趣味だという読書のために図書館へ出かけたりするので、それを止めようという気はない。それでも、幹は突然現れたように突然消えても不思議はない相手で、二度と戻ってこないかもしれないと思うとひたすらに怖かった。
 助けた日に、死んではいけないと幹に伝えたことがあった。それに幹は確かに頷いたけれど、守ってくれるかどうかは幹次第。誠司は何度も死んだ幹が網に掛かる夢を見て魘されている。
 持ち帰った魚の調理をしていると、開錠したままの玄関ドアで鍵が空回る音がした。間を置かずドアが開いて、幹が入ってくる。
「ただいまー。ごめん、誠司くんの方が早かったね」
「おかえり」
 手を洗って出迎えた誠司に幹は笑う。もう自殺を考えているようには見えない。でも心の中までは見えない。それどころか、幹は誠司に何も語ってはいない。日々の優しい会話は絶えることはないけれど、誠司は幹個人のことを、免許証の記載内容以上には何も知らない。
 知りたい。幹の話をもっと聞きたい。死にたくなるような何があったのか。どうして海に身を投げなくてはならなかったのか。聞いて、誠司も幹を慰めたい。幹がそうしてくれたように、誠司も幹の傷を癒したい。好きになる前は知らなくてもいいと思っていたことが、今は気にかかって仕方がない。
 けれどそれを訊くには、自分は『ただの同居人』でいてはならないと思った。
「わあ、今日は何? すごい、これ鯛?」
 まな板の上を覗いて、三十センチを超える赤い魚に幹が目を輝かせる。
「そんなにすごくはない。真鯛じゃなくて、連子鯛だから。でもおいしいよ。半身は焼いて、半身はお造りにしようか」
「ああ~、幸せ。漁師さん最高。でも太る一方だなぁ」
 寝室の隅に、幹は買ってきた物を置きに行った。ここへ来て一か月の間に増えた幹の私物は、段ボールひと箱にも満たない。服は今日も誠司のものを着ているし、あとは本当に最小限の下着の洗い替えくらい。この部屋をあくまで仮としか思っていないのが透けて、誠司は胸が苦しくなる。まあ1DKに居候している状況では、当然のことではあるのだけど。
 料理に参加しようとキッチンに来た幹の手をつかまえた。何? と問うような上目で見上げてきたところに、ちゅっと触れるだけのキスをする。
「……どうしたの」
 びっくりした顔で、幹が目を丸くした。
「べつに」
「ちょっと早くない? 外まだ全然明るいよ」
「そんなんじゃないし」
 幹がからかうようなことを言うのは、これまで誠司が閨での行為の最中にしか幹にキスをしたことがなかったからで、こんな時間からもうしたくなったのかという意味合いが込められていた。
 誠司としては好きな人にはいつでもキスしたいのだけど、何しろその相手との関係は謝礼と割り切られているので、なかなかそれ以外の時には手が出せない。そこを思い切って、今も気軽にできたキスではなかったので、そんな風に軽くいなされて少々傷ついた。
「魚以外は何がいいかな」
 全然気にしていない様子で、幹は冷蔵庫の野菜室を覗き込みながら副菜を考えている。後ろ姿、オーバーサイズで抜き襟になったシャツから、細いうなじが見える。
 太る一方、と幹が言うほどではないけれど、肋骨の浮いていたあのシャツの下が少しは健康的になってきているのを知っている。痛々しかった鎖骨のラインも、今はうっすらとやわらかい肉が乗ってすんなりと色っぽい。
 こんなことを考える時点で、もうただの同居人ではない。それを幹にもちゃんと認識してもらいたかった。
 ようやく日が暮れようかという頃に、二人の夕餉は始まる。明日は休漁日だが、食事と就寝の時刻はいつもあまり変わらない。
「あれ? 今日は発泡酒じゃない。ちゃんとビールだ。どしたの?」
 テーブルに出した缶を指して、幹が問うた。
「たまにはいいでしょ。プチ贅沢」
「いいけどー。漁師さんって儲かるの?」
「このへんの漁師はみんな悪くないと思う。……三十代前半で家が建つ程度には」
「へえー! そうなんだ」
「都会と比べたら、リアル桁違いに地価が安いからな」
「でも、それにしたって誠司くんは、かなり倹約して暮らしてるってことだよね」
「豪華趣味はないし、まあ船に金かかったり、長期で漁に出られないこともあるから。ある程度は貯めとかないと」
「堅実ー」
 たいてい地元民相手だと、こういう話題には決まってお嫁さんがどうのとか、結婚資金がどうのとかって話が続くのだが、幹相手だとそういうのがなくてストレスがない。
 収入の話になったので、今までは触れなかったけれど、幹にも水を向けてみることにした。
「幹さんは?」
「うん?」
「東京で、どんな仕事してたの? ……って、訊いていい?」
 探り探り訊くと、幹はふっと苦笑した。
「僕は、ご覧の通りの無職です」
「え、うそ」
「うん、うそ。本当は、フリーランスのウェブデザイナーをしてました」
 カタカナがいっぱいで、誠司の首が傾ぐ。
「それは、何をする仕事?」
「うーん。パソコンで、ウェブサイトを設計したりメンテしたりする仕事。誠司くんもスマホでネットしたりするでしょ?」
「通販サイトとか、そういうの?」
「そうそう。僕は、今は個人病院とか、小規模経営の商店とか、そういうところから委託を受けて。フリーになる前は会社に勤めてて、そこではもう少し大きいECサイトとかも扱ってたんだけどね。今は小ぢんまり、できる範囲で、て感じ」
 でも、と幹は缶の中に視線を落とす。
「……もう、続けられるかわかんないな。一身上の都合で休業するって伝えてよその会社紹介したっきり、ずっと放置しちゃってるし」
 死ぬつもりだったんだもんね、と誠司は思ったが口には出さなかった。ふぅん、と相槌だけを打つ。
「あんまり、漁師と知り合いになりそうな職種じゃないね」
「まあ、そうだね。確かに」
 ふふ、と幹は笑う。
 そのあとはいつも通りの他愛もない会話と、心地の良い沈黙をはさみながら、和やかに食事は進んだ。誠司が作ったお造りを、しきりに美味しい美味しいと感心しながら、幹は嬉しそうに食べていた。