二人での穏やかな日常が始まる。
年度が変わり、幹は東京から住民票も移し、転居を完了させた。部屋は別にあり、家財も運び込んであるのだが、二人はほぼ誠司の部屋で過ごしている。夜明け前から漁に出掛けて昼過ぎに帰宅する誠司と、日中に仕事を行う幹とは、別々に暮らしていては完全に生活時間がすれ違ってしまう。
「最初から一緒に住んだ方がよかったんじゃない?」
家賃の無駄を心配する誠司に、幹は笑った。
「逃げ場は残しておいた方がいいんだよ」
何の気なしに言ったような、だからこそ本音なのだろう意味深な言葉に、誠司は口を噤む。
「……ケンカして、顔も見たくないって思うときもあるかもしれないだろ」
何も言えなくなる誠司に、幹はフォローするように言った。
情けないが、幹が自殺企図に至った一連の経緯を少しでも想起してしまうと、誠司は喉が詰まって言葉が出なくなる。
その場にたまたま居合わせて幹を救えたことは幸運だったが、逆にたまたま自分があの場にいなければ、転落事故のニュースを流し聞きするだけだったかもしれないのだ。漁港に揚がったその水死体が、こんなに愛せるはずの相手だったとも知らずに。
黙り込んでしまった誠司に、ごめん、と幹は寄り添った。
「ちゃんと言ってなかったよね、助けてくれてありがとう。死なせてほしいって、どうして放っておいてくれなかったんだって、恨みに思ったこともあったけど。今はほんとに、感謝してる」
恨まれてたんだ、と内心ひやりとする。幹はそんなこと全然態度に出さなかったから、まるで気づかなかった。でもそういえば確かに、頼んでないよと怒鳴った、感情を初めて剥き出したあのときの幹は、本心からそう思っていたのだろう。
恨まれていたなどと聞くと、謝りたくなる。でも絶対に謝りたくなかった。助けてごめんなんて、死なせてあげなくてごめんなんて、死んでも言いたくない。
「……俺、もう離してやれないよ?」
幹の腕を掴んだ誠司に、うん、と頷いて幹が笑う。
「きみが僕を好きだって、愛したいって言ってくれた夜に、僕は」
少しの躊躇いを見せて、目を伏せた。
「――彼が死んでから、初めて息ができた気がしたんだ」
もしかしたら今、幹はここに、この世にいなかったかもしれない。その彼を、確かに腕に抱く。自分といることで息ができると言うなら、もう絶対に離せない。
後ろ首を抱いてキスをすると、幹は従順に誠司を受け入れる。そのままキスを深めていく過程で、不意に誠司の携帯が鳴った。放っておこうとする誠司を突き放すようにして、無理に幹が体を離す。
「……っ電話! 智也くんかもよ」
促されて仕方なく携帯を取ると、相手はやはり智也。今夜は智也とその彼女と誠司と幹とで、一緒に食事に行くことになっていた。
『あ、誠司? 今大丈夫?』
大丈夫ではなかったが、誠司は「おう」と答えた。
実は誠司と幹の関係は、智也には既に知られている。幹がいなくなってどん底に落ち込み、その後幹が戻ってきたとたんに持ち直した誠司の様子から、智也はしっかり見抜いていた。
それを指摘され、さらにかつて誠司が智也を好きだったことも気づいていたと明かされ、誠司は二の句が継げなくなるほど驚いた。
「なんとなく、そうなんかなぁって。俺は誠司のことは友人としてめっちゃ好きだけど、恋愛としては普通に女の子が好きだし、どうしようかなぁって思っとった時期もあった。でも誠司は俺に告ってくる感じでもなかったし、俺に彼女ができたらちょっと熱が冷めたっぽかったし、とりあえず触れんとこうかと。幸せになってほしいとはずっと思っとったけえ、俺も嬉しい」
そう言った智也は満面の笑みで、「良かったなあ!」と誠司の背中を思い切り叩いた。
知られることもなく終わったのだと思っていた想いが伝わっていたことを知り、それでも智也が自分との関わりを断とうとしなかった事実があって、少し、誠司は報われたような気がした。
『今日だけど、彼女の授業が長引くかもしれんらしくて、もしかしたらちょっと遅れるかもしれん。遅れたら遠慮せんで適当に先やっとってー』
「おう」
『幹さんにもよろしく伝えといてー』
「あい」
『じゃねー、また後でー』
「あーい」
電話を切って、幹に智也が今日の食事に遅れるかもしれないらしいと伝えると、幹はおかしそうに吹き出した。
「何?」
「誠司くんの電話の受け答えが、おう、おう、あい、あーい、以上。何の動物の鳴き声かと思って」
「……ただの連絡で、そんな話すこともないし」
拗ねた口をきく誠司に、笑いをおさめきれずに幹が手を伸ばす。
「無口なとこ、好き。でも誠司くんの声も好き」
不意打ちのように、襟首を引かれてキスをされた。
「いっぱい話そう。嬉しいことも、悲しいことも。隠さないから、きみも全部僕にちょうだい」
とろりと、幹の瞳が欲に濡れる。
誠司は幹の背に腕を回しながら、いっぱい話そうというのはきっとつまり体と体の会話も含むのだな、と理解して時計を見やった。四時半。
「……俺らの方も遅れるかも」
「え、七時からでしょ? まだ二時間以上あるよ?」
「足りるかな」
「……足りないかな?」
どうだろう、と幹はいたずらっぽく首を傾げる。
あぁまずい、溺死するのは自分の方だ、と思いながら誠司は、凪いだ海のような幹の腕の中へ溶け込んでいった。
<END>