「でしょー!? 俺もずっと老け顔だと思っとったの!」
誠司の思った通り、訪れた智也は簡単な自己紹介をしただけで、余計な問答は一切挟まなかった。幹の用意していた料理に目を輝かせ、上機嫌で発泡酒の缶を空にしていく。テーブルには南蛮漬けにカルパッチョにお造りと、新鮮な鯵づくしのメニューが並べられていた。
「おまえ、ほんと失礼だな!」
誠司の抗議はさらりとスルーされる。
「だって中学で転校してきた頃から誠司の顔変わっとらんのんで。こんな面の中学生が都会から越してきて、いじめとか見苦しいからやめえって一喝したら、そらいじめもピタッと止むわ」
智也は誠司にいじめから助けてもらったいきさつを語っているところで、なぜか誠司の老け顔について幹と意気投合していた。持ち上げられているのか貶されているのか、納得できずに誠司は眉を寄せる。
「ダメだよ智也くん、ほら、老けてるんじゃなくて、大人っぽかったんだよね年のわりに」
笑いをこらえすぎて目元を赤くしながら、甲斐のないフォローを幹が入れる。その手のフォローは入れない方がましだったりする。
「そう! この顔がまた、大人っぽくてカッコいいっつって、女子に受けて受けて。すげえモテるのに告られちゃ投げ、告られちゃ投げ、どんな硬派か面食いかって、なあ」
「なあ、じゃねえし。まじでいいしその話は」
先程までとは違う、本気の不愉快さを滲ませたのを見てとったのか、智也が少々気まずげに笑う。酔いも手伝って、やや羽目を外しすぎたことを反省している顔だった。
「単純に好みの顔がいなかっただけだ。面食いなわけじゃなくて、俺は好みが特殊なんだ」
智也に気詰まりな思いをさせるのは本意ではなく、悪乗りに乗ってやると空気が緩んだ。
「ふふ、自分で言う? 好みが特殊とか」
缶を片手に、幹が笑う。緩んだ空気を、さらにやわらかく包んで軌道修正してくれるような笑みだった。
そこからは誠司の水産高校での話や、智也の医大での話になり、そのどれもを興味深そうに幹は聞いて、きっかり夜七時に智也は自転車を押しながらご機嫌に帰っていった。
「智也くん、いい子だったねえ」
ふんわりと酔いに頬を染めて、空いた皿を下げながら幹は呟く。
「大丈夫って、誠司くんが言うの、わかる。きみたちといるの、すごく居心地がよかった」
「そう? あいつちょっとバカなんだよ、医大生のくせに。この間も彼女に叱られたって話聞かされたけど、どう聞いてもあいつが悪いし」
思い出すとそれは他愛もない痴話喧嘩で、深刻に落ち込んでいた智也の姿が浮かんでまた笑いが誘われる。
「……でもいい奴だよ。幹さんを助けたとき、あいつが一緒にいてよかった」
そうでなかったら、あれほど思い切って荒れた海に飛び込むことはできなかったかもしれない。双方安全に救助することも。
いろいろな幸運が重なっていたことを思って、安堵の息をついた誠司に、幹はそっと背を向けた。
「……誠司くん。あのね」
流しに置いた食器を泡立てたスポンジで撫でながら、幹は静かに切り出す。
「気を悪くしないでほしいんだけど」
洗いかけの食器を重ねて置いて、不意に訪れた静寂の中で幹は問うた。
「誠司くんは、智也くんのことが好きだったりする?」
質問に、あまりに驚いて誠司は一瞬呼吸をするのを忘れた。
なんでそんなことを。何も言わなかったはずだし、態度にも出さなかったはず。いやそもそも好きって、どういう意味で? 友人として? そうじゃなくて?
沈黙したままパニックを起こして、集めていた空き缶をひとつ取り落とした。床に落ちて、カランと高い音をたてて跳ねる。
「……や、あの、何言って……」
動揺は在々で、転がったひとつを拾うのに他の缶を落としそうになる。どうすれば言い逃れられるかと回らない頭を回転させているところへ、ダメ押しが来た。
「ごめんね、一昨日……かな。部屋の掃除をするのに、ベッドの下を見ちゃって」
幹の告白に、完全に血の気がひいた。ベッドの下には、一冊だけ、かなりソフトなものだけれど、いわゆる成人向け雑誌を隠している。しかも、ゲイ向けの。
「違っ……あれは、友達がふざけて置いてったやつで、お、俺のじゃな、なく、て」
動揺と焦燥は舌のもつれを呼び、もうどう言い繕っても無駄だということを、いたわるような幹の視線で察した。
ばれてしまった。二十一年間、誰にも明かさずに隠し通してきた己の性指向が。しかも、今ひとつ屋根の下で暮らしている相手に。
どんな罵詈雑言を浴びせられるかと、背筋がしんと冷たくなった。
誓って他意はなかったけれど、意識のない間に全裸にして入浴させたことも、理由もなく家に置き続けていることも、猥褻目的と糾弾されたら返せる言葉がない。
「……ごめんなさい」
それしか言えず、手にした缶を置いて、消え入りそうな声で誠司は謝罪した。
「でも俺、本当に、海水まみれで寝かせるわけにいかなくて、風呂に入れるだけが目的で絶対に変なことは何もしてないし、ここにいていいって言ったのも、変な目的があって言ったわけじゃ……」
「誠司くん、大丈夫、わかってるよ」
泡のついた手を流してタオルで拭いて、幹が寄ってくる。心配げに触れられそうになったところを、慌てて誠司は振り払った。
「すみません、もう触らないので」
「誠司くん、ごめん。急にこんなこと言って配慮が足りなかったね。本当に大丈夫だから、落ち着いて」
きつく握り合わせた手の上から幹の手を重ねられて、誠司はもうパニックで半泣きだった。
触ってはいけないと思うのに、触れてくるのは相手の方で、これはもう今ここで自分が蒸発して消えてしまうしか、幹を不快にさせない手立てはないのではないか。
「あのね、僕はゲイなんだ」
そんな支離滅裂なことを考えていたら、うっかり幹の軽やかなカムアウトを聞き流すところだった。
「えっ……え、ゲイ?」
聞き返した誠司の目の前で、幹が薄く笑っている。
「も、幹さんが?」
「うん」
視線を合わせて頷いて、落ち着かせるように幹は誠司の手に重ねた指でとんとんと軽く叩いた。
「ここに置いてくれてるのを、下心があるからだなんて思わないよ。ゲイは男なら誰彼構わずなんて、当事者なんだからそんなことあるわけないってわかってる。きみが僕を狙うなんて、思ってないから安心して」
そう言われ、幹がずっと誠司の手に自分の手を重ねてくれているのを見て、深いため息と共に強張っていた体の力が抜けていった。
「……ごめん……」
「何を謝ることがあるの」
苦笑いとも違う、慈しむような、憐れむような笑みを、幹は浮かべている。
「……ずっと、誰にも言えないでいたんだね。なかなか、こういう狭いコミュニティで生きていると、セクシャリティが露見するのは怖いよね」
つらかったよね、と背を撫でられて、唐突に誠司の頬を涙が伝った。自分でも驚いて瞼を押さえるけれど、止めようとしても涙は次々にあふれてくる。
言えないでいた、これからも誰にも明かすことはできずに独りで生きていくしかないのだと思っていた、頑なに凝らせていたものが溶けて緩んで涙になっていく。
「智也のことは、もう、そういう意味で好きなわけじゃないんだ。彼女と、幸せになってほしいと思ってる」
その気持ちに嘘はない。智也に想いを打ち明けようなどとは思ったこともない。彼女を恨む気持ちもない。
「高校のとき、智也が好きだって自覚して、自分はゲイなんだ、普通じゃないんだってわかって、絶望したこともあった。智也に言えるわけがない。智也の親父さんにも良くしてもらってて、汚い下心で周りのみんなを裏切ってる気がして。ほんとに、いっそ死んでしまいたいって……思ったこともあって」
思春期に、離婚した両親のどちらにも引き取ってもらえず、田舎の港町の祖父母宅へやられた。ただでさえ愛されない自分が、性的にもマイノリティで想う相手から愛される見込みもないと思い知ったときのショックは、未熟だった誠司の生きる気力を失わせるには充分だった。
それでも、引き取って育ててくれた祖父母へ不義理はできない気持ちもあって。たまたま智也から誘われた海水浴場での巡視バイトで、ライフセーバーたちが命を救う現場も目の当たりにして。我欲を捨てても生きなければと思い直して。
「もう、今はそんな考えはないけど。……それでも、この先も一生独りなんだって思ったら、折れそうになることもある。順調に長生きできちゃったら、この先が長すぎて」
自嘲して小さく笑うと、また幹の手が背中を撫でる。その手がふと離れ、誠司の携帯を引き寄せた。
「……一生なんて、思わなくて大丈夫だよ」
借りていい? と言いながら、誠司にロックを解除してもらった携帯を手に取る。
「田舎だからって、お仲間が近くにいないわけじゃない。ゲイ向けのマッチングサイトとか知らない? 今はこんなのも充実してるんだよ」
検索結果を表示させて、幹は携帯を誠司の手に返した。
「……こういうの、大丈夫なの?」
猜疑的な誠司の視線に、幹は笑う。
「心配な気持ちもよくわかるよ。変な人も時々いるみたいだからね。最初からこういうのは抵抗あるよね」
笑いながら、それなら誠司くん、と幹が指に指を絡めてきた。驚いて見返すと、上目で覗きこんでくる。
「僕と、寝てみる?」
一瞬意味が理解できなかったが、とんでもないことを言われたとわかったとたんに声もなく顎が落ちた。
「こういうことって、経験がないと大事みたいに考えがちだけど、一度経験しちゃえばどうってことないってわかると思うんだ。そうしたらきみももっと、いろんな人と気楽に恋愛できるようになると思うよ」
「い、いやあの、幹さん」
一体何を言うのかと、冗談を諌めるつもりが、真顔で首をかしげられて言葉を失う。
「僕じゃいや?」
「い、いやじゃないけど。あぁその、いいとかいやとか、そういうんじゃなくて」
幹は顔も性格もいいし、お互いにゲイだとわかった今、恋愛対象として見た場合にもとても魅力的な人だとは思う。だがこんな、行き当たりばったりの、出会い頭の事故みたいな形で寝るとか寝ないとか、そんな事態になっていいものなのだろうか。
逡巡していると、幹が指をほどいた。
「いやじゃないなら、物は試しだよ。シャワー浴びてくるね」
そう言って、幹は浴室へ向かってしまう。それを制止することもできなくて、みっともなく誠司はその場に立ち竦んでしまった。