ベッドサイドに座って枕元に突っ伏したまま、寝入っていたらしい。人の手が頭に触れる微かな感触に、誠司はガバッと起き上がった。目の前に、裸の半身を起き上がらせた男の驚いた顔がある。
「あ……ごめんなさい、起こしてしまって」
少し掠れた、やわらかな声だった。
「あのう、一体僕は、今どういった状況なんでしょうか」
苦めの愛想笑いを浮かべた男はゆったりとした口調で話しながら、掛け布団を胸元に引き上げた。布団の下は風呂上がりから全裸のままだ。着ていた服は洗濯中だし、勝手に逃げて行かれないようにとの思惑もあった。
「綿谷、幹さん?」
「あ、はい。綿谷です」
確認した誠司に、幹は会釈をする。はじめまして、とでも続けそうな暢気な様子に、もしや自殺企図などではなく本当に酔って落ちただけだったのだろうかと、思わず誠司は訝った。
「あなた、今朝海に落ちたんです。お酒をたくさん飲んだ状態で」
言い聞かせるようにゆっくり言うと、幹はこくこくと頷いてみせる。
「はい、そのようにしたと思います。なので、なぜ僕は今このような状況になっているのかということをお尋ねしています」
飄々と、幹は酩酊状態で自ら海に落ちたことを認めた。これはどのように理解すればいいものかと、誠司は当惑を隠せない。
「ええと。俺は海に落ちたあなたを救助しました、長谷川誠司といいます。この辺りの海で漁師やってます。ここは俺の部屋です。救助後に連れてきて、風呂に入れました。服は洗濯しています。なので乾くまでしばらく我慢してください」
地雷の在処がわからないので、誠司は事実だけを淡々と説明した。幹は頷きながらその説明を聞いている。どこかきょとんとした表情のまま、困惑する素振りもない。
「それはどうも、大変お手数をおかけしました」
まるで誠司の配慮が響いていない様子で噛み合わない返事をされて、誠司の肩の力がずるりと抜ける。
「いえ……。あ、海水を飲んでいましたが、肺などは問題ないそうです。医師にも診てもらっています」
これで伝えることは全部かな? と誠司が思い返していると、幹は濁りのない両目でまっすぐに誠司を見つめてきた。
「……責めないんですか?」
やや早口で遠慮がちに問うた、その瞳の奥に誠司は微かな怯えを見た。
響いていないのでも愚鈍なのでもない。きっとこの人は他者と意思を疎通させるのが怖いのだと、気づいた誠司は声音を落とす。
「今まで、もう充分責められてきたんじゃないんですか」
自分なのか、周りなのか。わからないけれど、何かが幹を追い詰めたのは明白で、であるならばもう後のない幹にはもはや責め代は残っていない。責められない相手のことは、許すしかない。
言外にそれを伝えた誠司に一瞬驚いた幹だったが、またすぐに自罰的な笑みを浮かべた。
「……僕が、人殺しだとしても?」
その反問には、さすがに誠司も身じろいだ。動揺を見て取って、幹の目が昏く凝る。
「冗談です」
笑みを消した幹の言葉の、どちらが本当なのか誠司には判別がつかない。しかし目の前の憔悴した男が本当に誰かを手に掛けたとは思えず、冗談だと打ち消したのを信じるしかない。
そのくらい深い後悔を抱えたがために無謀に及んだのだと、誠司はそう理解した。
「死んではだめです」
当たり前のことなのに、男が今見失っていることを丁寧に誠司は教えた。
「誰かが、あるいはあなた自身が、あなたのことを許せなくても。死んではだめです。またあなたが死のうとしたら、俺が助けます。何度でも海に飛び込みます。俺も死ぬリスクがあるので、とても迷惑です。それを悪いと思うなら、自殺なんてしないでください」
我ながら身も蓋もない言い方だとは思ったが、言い切った誠司の目を幹は透き通った目で見つめ返し、しばし考えた後、「はい」と頷いた。
その頷きは二人にとって、大事な約束となった。
結局その日の昼から幹は熱を出し、誠司の買い置きの下着と部屋着を借りて、そのままベッドで臥せっていた。動けない幹の横で、誠司はこっそり関東で最近起きた殺人事件などを検索したりはしてみたが、本人が冗談だと否定したものをいつまでも疑うようで気分が悪く、早々にやめた。
多弁ではない二人の間に、あまり会話はない。互いに沈黙が苦痛なタイプでもないらしく、必要最低限の問答を静かに一言二言交わして終わることがほとんどだ。
が、誠司が自分の年齢を伝えたときにだけ、幹は大仰に声をあげて驚いていた。
「二十一!? 七つも下なの!?」
そして幹は、同い年か年上だと思った、と屈託なく笑った。
日焼けするに任せた肌は浅黒いし、何の手入れもしていない短髪は赤茶けてバサバサで、要するに若さがないと言うのだ。
「成人して間もない若人に、よくそんなこと言う……」
拗ねてみせた誠司に、幹は発熱以上に頬を上気させて、ごめんごめんと謝った。
「そうだね、よく見ると若いよ、目元に張りがあって」
「思ってない感がすごいんですけど……」
「そんなことないって!」
そんなやり取りがあって以降、お互いの間から堅苦しい敬語は抜け、少し距離が縮まったように誠司は感じていた。
帰りたくないならいつまででもここにいればいい、と言った誠司の言葉に、幹は恐縮しながらも、体調が快復してからも誠司の部屋に居着いていた。寝室のベッドは誠司に返し、隣のダイニングキッチンの片隅に客用の布団を敷いて寝起きして、服は誠司のものを借りたり最小限は買い足したりしている。
海も落ち着き、祖父の腰も治ったので、誠司はほとんど夜中と言っていい時間に起き出して、漁に向かう。頼んでもいないのに、幹はそれより少し早く起きて、有り合わせのもので誠司に軽食を作ってくれるようになった。
祖父が祖母の手弁当を持参するので、船上での休憩時にそれを一緒に食べるのだが、独り暮らしを始めてからは出掛けは何も食べないのが習慣になっていた誠司には、ありがたい気遣いだった。力仕事なので、軽くでも食べておくと疲れ方が違う。
「朝ごはんなんだか夜食なんだかわからないけど、仕事の前にはちゃんと食べた方がいいんじゃない?」
そう言って手早く用意してくれる青菜入りのおにぎりや残り魚介の炒め物は、この家の乏しい調理器具で作られたのが信じられないくらい絶品だった。
昼頃に港で水揚げをして、解散となる。売り物にならない魚を船上で捌いておいたものを手土産に、頼まれていた食材を近所のスーパーで調達して家に帰る。
「ただいまー」
「おかえり」
帰宅の挨拶に、返事があるのがこんなにいいものなのかと、誠司は初めて感じていた。
独り暮らしを始めたときは、何よりも解放感が勝っていて、寂しさや日々の生活の煩雑さはまるで感じなかった。そして感じることのないまま、その暮らしにすっかり慣れてしまっていた。
「今日は半端もののマメ鯵がこんだけ」
小さなバケツを渡すと、覗き込んだ幹がわあ、と歓声をあげる。
「半分は南蛮漬けにしよう。大きいタッパーに入れといたらしばらく食べられるね。誠司くん、頭もワタもゼイゴも取っといてくれるから助かるー」
うきうきとバケツを流しに置きに行く幹の後ろ姿に、思わず笑みが浮かんだ。拾ってきてから十日、日毎に幹は明るくなってきているのが感じられる。
元々わりと几帳面な誠司は、部屋の掃除や洗濯も苦にならないし、食事はスーパーの惣菜やコンビニで間に合っていた。なのでさほど独り暮らしで不自由していたわけではないのだが、それでも手作りの温かい夕餉を振る舞ってもらえたり、日中にきちんと乾いた洗濯物が畳まれて置いてあったりすると、正直本当に助かる。そういう一つ一つに誠司は謝辞を欠かさず、幹も誠司を喜ばせるのが嬉しくてならないようだった。
「今日、友達は何時頃に来るの?」
小さな鯵の開いた腹を丁寧に流水で洗いながら、幹が尋ねる。今日は智也が幹の様子を確認しがてら、一緒に夕飯を食べに来ることになっていた。
「四時までには来るって言ってた。明日は休みだけど、いつも俺が八時には寝るの知ってるし」
買い出しの卵や牛乳を冷蔵庫にしまいながら、誠司は答える。見やった幹の背中が、少し沈んでいるように見えた。
「……いやだった?」
訊くと、ぱっと幹が姿勢をただす。
「まさか。僕を、助けてくれた人でしょう。きみと一緒に」
恩人だもん、おもてなししなきゃ、と言って笑みを作る姿に、少しの無理が覗いた。
この十日間、誠司は幹に、何の事情も問うていなかった。自殺の理由も、職業も、家族についても。訊かなくても、いや訊かないからこそ、二人は共に穏やかな時を過ごせている。
幹が話したくなったときに聞く。これからも話さずじまいでいるならそれでもいいと誠司は思っていた。
たぶん、自分が何かと訊かれたくないことを抱えているからなのだと思うが、そもそも誠司は無遠慮に根掘り葉掘り詮索してくるタイプとはつき合わない。長くつき合っている智也は、相手の触れられたくないところを絶妙に推して避けてくれる、他者の心情に敏い男だ。
「大丈夫だよ、智也は」
訊かれたくないことを問われるのではという幹の不安を察して、誠司はそれだけ告げる。うん、と小さく返事があったのを聞いて、シャワーを浴びに風呂場へ向かった。