さやか 月に -01-


 十月も下旬になって発生した台風がようやく通り過ぎたものの、目の前の海はまだかなり時化ている。係留された漁船は踊るように上下していて、どうすることもできずに誠司せいじはため息をついた。今日も漁には出られない。
「誠司ー」
 呼ばれて振り返ると、駅へ続く道から自転車に跨がった智也ともやがこちらへ手を振っていた。スロープを降りて、手を挙げて応えた誠司の元へやってくる。
「よう、早いな。これから学校か」
「うん。今日は実習があるけえ、早番。誠司は今日も漁休みか? 何しとったん?」
「んー、波がこれだからな。じいちゃんの使いで計器チェックしたり、網直したり、いろいろ」
「そっか、お疲れ。まあじいちゃんの腰休めるにはいいんじゃないん」
「そうだな」
 誠司と同い年の智也は瀬田せた医院の跡継ぎ息子で、地元大学の医学部に通う二十一歳。町医者である父が診ている誠司の祖父は先日腰を痛めていて、それを案じる智也に誠司は頬を緩めた。
 沿岸漁業を営む漁師である祖父の元に誠司が預けられたのは中学二年生のときのことで、当時級友からいじめを受けていた智也を誠司が助けて以来、智也は誰よりも誠司を信頼し、慕っている。水産高校と普通科高校とで進路が別れても、漁師と医大生とで生活が大きく異なっても、智也は誠司との接点を途絶えさせないでいた。
「今日帰りも早い予定だけえさ、久しぶりに呑みに行かん? 坂下にこないだの麻雀の負け、まだ清算させとらんし」
「いいけど、あんまり遊んでて彼女に怒られないのか?」
「ん? んー、それは、別に」
 最近できたという看護学部の彼女の話題になると、とたんに智也は照れて口が重くなる。小柄でモテない自分と引き換え、誠司は背も高いしガタイもいいし顔もいいし訛りもないしモテていいよな! と智也から絡まれ続けてきた誠司としては、その分絡み返してやりたい気もしないではない。が、誠司にとって智也の彼女の話題は、さほど積極的に触れたいものでもなかった。
 それ以上は突っ込まないでいると、ふと、きょどきょどと視線を彷徨わせていた智也が誠司の肩越しに目を眇める。同じ方向を、誠司も振り返った。
「何、あれ」
 小声で智也が顎をしゃくった先には、白のニットコートを着てベージュのスラックスに革靴という、およそ漁港には似つかわしくない服装の優男が、おぼつかない足取りで突堤の先端へ向けて歩いている。
「さあ……観光客が迷い込んだか?」
「こんな時間に?」
 漁港から少し離れた場所には、大型観光バスが乗り付けるような水産物直売所も多く軒を連ねているが、智也が怪訝に言う通り、店もまだ開かない早朝からこの付近を観光客が歩くことはまずない。趣味の朝釣りかと考えようにも、肩から掛けている中型のボストンバッグもおそらくブランドものか何かで、釣具が入っているようにはとても見えない。
 訝しくこの界隈で見慣れない人種を二人で見張るように見つめていると、唐突に男は歩きながらバッグを肩からずり落とした。思わず二人は顔を見合わせる。落としましたよ、と駆け寄るにはそこそこの大荷物で、落としたことに気づかないわけがない。なのに男は振り返りもしない。
 やっぱり何かがおかしいぞ、という違和感を発しまくる男は突堤の先まで歩き続ける。そして二人の目の前で、まったくのノーモーションで海へ身を投げた。
「おおお落ちたあぁーッ!!」
 目を剥いた智也が叫ぶのと、誠司が上着を振り捨てながら駆け出すのがほぼ同時だった。
「智也、浮輪!」
「わ、わかった!」
 誠司の指示に、すかさず智也も自転車を放り出して近くの漁船に備えられた浮輪を取りに走る。この辺りの連携は、共に高校時代から夏場に近くの海水浴場でパトロールのバイトをしていた経験の賜物だ。
 落下した男の白い上着の位置を突堤上から確認し、誠司はひとつ胸を強く叩いて、大きく息を吸い込んだ。ためらうことなく、コンクリを蹴って荒れた海へ飛び込む。
 時化てかき回された海水は冷たく、思うように体が動かない。それを必死で動かして沈もうとする男の元へ潜ると、男は意識を失っているらしく、腕を掴んでも身じろぎもしなかった。パニックを起こして暴れたりする危険がないのは幸運で、誠司は男の後ろから脇を抱え、海面に浮上する。そこへ完璧なタイミングとコントロールで、智也が浮輪を投げ込んできた。
「誠司! 大丈夫か!?」
 浮輪のロープを握った智也にオーケーの合図をして、男の顔をしっかり海面から出すように抱き直し、浮輪につかまる。海中の二人を智也がテトラポットまで誘導し、誠司と智也の二人がかりで男をなんとか陸へ引き上げた。
 飲んだ海水を吐かせ、息があるのを確認する。そこでようやく誠司は、意識のない男の横に座り込んだ。
「……やべえ、寒い、死ぬ」
「すげえ誠司、まじすげえ。すげえからおまえは死なんで」
 肩で息をしている誠司の背中をさすりながら、智也は神妙に声のトーンを落とした。
「……なあ、この人……」
 蒼白した顔で、眠っているようにも見える男を二人で見つめる。
「うん……自殺だったかも」
 ぎゅっと眉を寄せて、誠司は指先を男の首筋に当てて脈をとった。
「悪い智也、この人俺んちに運ぶ。車回してくるから、手伝ってくれるか。それと念のため、俺んちに親父さん呼んでくれ」
「わかった」
 頷いた智也に男を任せて、近くに停めていた自分の軽バンに誠司は走った。後部座席の漁具を脇に寄せて座席を倒し、ブルーシートを敷く。運転席にも雑にビニール袋を敷いて乗り込み、智也たちの元へ戻ると、ちょうど智也が電話を終えるところだった。
「今からすぐ準備して、診察開始前に誠司んちに行くって」
 どうやら智也はうまく伝え、父親も察してくれたらしい。推定自殺志願者の扱いはなかなかにデリケートだ。
 智也の手を借りて、男と回収した男の荷物を車の後ろに積み込む。救助するときは必死だったので意識していなかったが、男の呼気からはアルコール臭が強く香った。
「じゃあな。飲み会はまた今度だ。俺も連絡するけど、詳しくは親父さんから聞いてくれ」
「おう。なんか困ったらすぐ連絡せえよ」
「いいからおまえは早く着替えて学校行って、いい子で勉強してこい」
「俺ぁコドモか!」
 怒りながらも智也は腕時計を見て慌てて自転車に跨がり、家の方へ漕ぎ出していく。その背を見届けて、誠司は自宅へ向けて車を発進させた。
 ほどなく到着した自宅は古くも新しくもない小さなアパートの一階で、誠司は去年成人してから、祖父母の家を離れてそこで独り暮らしをしている。
 その部屋に男をなんとか担ぎ入れて、風呂に湯を張りながら部屋の暖房設定を強にした。廊下や玄関は後で拭くことにして、自分の濡れた着衣を脱いで洗濯機へ放り込み、廊下に寝かせた男の着衣も解いていく。
 担ぎながら成人男子にしては軽いとは思っていたが、全裸に剥いた男は、どこか痛々しい痩せ方をしていた。
 痩身を抱き上げて湯張り途中の狭い湯船に二人で入ると、まだ浅かった湯もとたんに肩までせり上がる。熱めの湯にため息が漏れ、冷えきった男の体を支えるために後ろから抱く。
 今このタイミングで目を覚まされたら何て弁解しよう、と少しそわそわしたけれど、男の意識が戻る様子はない。結局誠司が自分の体を洗い、男の頭を浴槽の縁にもたれさせて洗髪をし、風呂から引き上げて床に広げたバスタオルで拭いてベッドへ寝かせるまで、男は一度も目を覚ますことなくされるがままになっていた。
 玄関と廊下の塩水の始末を終えて洗濯機を回すと、誠司はどっと疲れてローソファーに身を投げた。軽いとはいえ、意識のない成人男子の入浴介助を一人でまともにやったのだから、その前の救助活動からのえげつない運動量と緊張感も相まって、疲労もひとしおだった。
 ソファーに横たわったまま、このくらいは許せと思いつつ、男の持っていたバッグの口を開けた。探すまでもない位置に長財布を発見し、遠慮なく中をあらためる。現金が数万円とクレジットカード、他に運転免許証が入っていた。
綿谷幹わたや もとき。二十……八歳、か」
 氏名と生年月日、東京の住所が書かれたそれを、眠気にさらわれる前になんとか、誠司は自分の携帯のカメラにおさめた。
 うとうとしかかったところへ、インターホンが鳴る。はっと覚醒して、時計を見れば智也の電話からまだ一時間ほどしか経っていない。仕事がはええな智也父、と思いながら玄関ドアを開けると、険しい顔をした智也の父親が往診鞄を抱えて無遠慮に上がり込んできた。
「災難だったな、朝はよから」
「親父さんも、すんません仕事前に」
「気にせんでええ、ようやった。奥か?」
「はい、布団に寝かせてます」
「おまえもちゃんと頭乾かしい、風邪ひくど」
 智也の父は1DKの寝室側へ入ると、男の眠るベッドの横へ座り、鞄からライトやら聴診器やらを取り出した。
「瞳孔……脈拍、問題なし。血圧……一一〇の五八、低めだけど大丈夫だ。胸の音も悪くない。応急処置も適切だったな、ほんにようやった」
「はい。……よかった」
「しかしえらい酒臭いな。酩酊が深そうだけえ、脱水に気を付けないけんわ。この後発熱するかもしれんけえ、よけいにな。起きたらスポーツドリンク飲まし。様子がおかしかったらすぐ連絡せえよ。厄介なことになりそうだったら俺がなんぼでも証言したるけえ」
 強く誠司の肩を叩いて、手早く周りを片付けて智也の父は立ち上がった。
「……どうするだ、この男」
 心配げに問われて、誠司は少し迷う。
「とりあえず……しばらくうちで様子を見ようかと。助けられたのも、何かの縁かと思うんで」
「そうか。まあおまえは無茶はせんだろうと思っとる。思うようにせえ」
「はい。……あ、じいちゃんたちには伏せといてください。余計な心配かけたくないんで」
「ああ、わかっとる」
 最後にくしゃっと笑みを見せて、智也の父は帰っていった。中学時代に息子を救ってくれた誠司に信頼を寄せてくれていて、誠司も祖父母に話しにくいことの相談に乗ってもらったりしてきた。誠司にとっては単なる医師や友人の父親という以上の存在だった。
 しんと静まり返った部屋で、誠司は男の寝顔を眺めた。先ほどまでは瀕死の様相に見えていたのが、一応医師の診察も受けて大丈夫だと言われると、赤みの戻った表情は安らかにも見える。
「何が、あったんだよ。そんな……死にたくなるようなこと」
 静かに問うても、応えはない。寝返りも打たないその寝顔を、誠司はぼんやりと眺め続けていた。