片恋シーケンス -09-


 間接照明の頼りない灯りの中で、ベッドに腰かけた幸が、律儀にきっちりと締めていた自分のネクタイを緩める。抜き取られて床に放られる音が隠微に響き、愁平は幸の首筋にくちづけながら痩身を横たえた。
「愁……」
 小さな声が呼び、ん? と返事をして顔を上げると、薄明かりにも潤んで見える瞳が心細げに愁平を見つめている。
「愁、だよね。ほんとに」
「うん」
「触ってもいい?」
「当たり前だろ」
 今更許可を取るようなことではないと笑うと、おずおずと、幸が指を伸ばしてくる。愁平の鼓動を追うように、胸の真ん中に。
「……もしかして緊張してる?」
 手を当てて訊かれれば見栄も張れない。
「ど緊張中だよ」
 歯を見せて苦笑いすると、ようやく少し安心したように幸も笑った。
 ワイシャツのボタンをひとつずつ外し、下のTシャツも脱がせて、互いに裸になって抱き合う。体温と早まった鼓動が、触れ合った肌の間で溶けて、どちらのものかが判然としなくなる。
 他人と肌を合わせるのは初めてではないが、これまでの経験とはどれとも違う不安と高揚があった。
 至るところにキスをして、手のひらで肌を探っていくと、徐々に幸の体温が上がっていく。さらさらしていたはずの白い肌が上気して、しっとりと汗ばんで吸い付くような感触になるのに興奮があおられてたまらない。
「……っん」
 抑えて噛み殺しきれない喘ぎが漏れるのも、早くその箍を外させてしまいたい欲求を掻き立てる。
 けれど、ふと愁平は手を止め、そこから先に進めなくなってしまった。
「愁……?」
 急に動きを止めてじっと顔を俯けた愁平に、幸はそっと目を伏せて、脱がされたワイシャツを引き寄せて胸元に被る。
「……やっぱり、俺じゃ無理だったか」
 自嘲したつらい呟きがこぼれ、この期に及んで自分の態度が幸を不安にさせていることに気づいて、慌てて愁平はかぶりを振った。
「違う、そうじゃない」
「や、いいんだよ愁、無理しないで。俺、愁に好きだって言ってもらえただけで充分幸せだよ。一生忘れない」
「本当に、そうじゃないんだ」
 幸に気を遣わせて心にもないことを言わせて、いよいよ自分が情けなさすぎて死にたくなる。けれどどうしても気になって、その先に進めない暗がりがある。
「ユキ。この先二度と訊かないから、今だけ教えてほしい」
 恥を承知で、愁平は意を決した。
「……晃生は、どんなふうにおまえを抱いた?」
 問われて幸も、一瞬愕然とした。
 まさかこんなときにそんなこと訊くか? デリカシー仕事してないんじゃないのか?
 いつもの幸なら何を言っているのかと一蹴する類いの問いだった。
 けれど愁平の切羽詰まった瞳があまりに真剣で、惑いながら、幸は寄せに寄せた眉間のしわで羞恥心をすりつぶした。
「手を……」
「手?」
「……両手首を、こう、縛られて。目隠しされてた」
 万歳をした格好で再現して見せた幸に、自分で訊いておいて愁平は目を剥いた。
「え!? あいつ、そういう趣味なの?」
「違うよ……。俺が、まだ全然愁のこと好きで、すごく落ち込んでたから、慰めつつ水上に抱かれてるってことを意識させないようにしてくれたんだと思う」
 声真似して愁平のふりまでしてくれたことはさすがに墓場まで案件なので伏せておく。
 しかし幸にそう説明されても、晃生による緊縛目隠しプレイの衝撃は凄まじく、いくら訊かずにいられなかったとはいえ、問うたことを愁平は後悔し始めていた。
「けどおまえは、そういうプレイ大丈夫だったのか?」
「大丈夫っていうか……ちょっと俺も精神状態まともじゃなかったし。水上の気遣いに、まんま乗っちゃったっていうか」
 しどろもどろな幸の様子に違和感を覚え、まさか、と愁平は息を飲む。
「まさか、合意じゃなかったのか!? おまえ晃生に無理矢理縛られて!?」
「違うよ!! 合意だったよ、結果的には俺が……って、ほんとに勘弁してよ」
 悲鳴のように愁平の誤解を否定して、幸は額を押さえた。息をつきながら、愁平の顔を見て悲しそうに眉を歪める。
「ごめん、怒らないで。水上は悪くないし、俺の意思が弱かったせいだから」
 無意識のうちに怒りの形相になっていたと気づき、愁平は深く呼吸した。
「いや、こんなこと訊いて悪かった。誰かに怒ってるとかじゃなくて、おまえと晃生のこと、妬けてしょうがねえんだ」
 ここまで体裁の悪さを晒したのだから、もうどんな恥の上塗りも怖くないと、愁平は手の内をすべて明かして笑う。
「たぶんおまえが思うより、てか俺が思ってたより、俺はおまえが好きらしいな」
「愁……」
 幸が愁平の頬に触れる。その手を取って、縛られたという手首にくちびるを寄せた。
「あんま上手くないかもしれねえけど、痛かったらちゃんと言えな」
 気遣う声に、少し笑って幸は瞬く。
 男同士の行為に自信がないなりに、愁平は丁寧に幸の体をほどいた。
 幸も晃生との初体験以来長らく経験がなく、双方ほとんど慣れない中、愁平は少なくとも幸を傷つけることはしないと決めていて、そのいたわりは幸にも伝わる。
 急かない指が、じんわりと幸の固い襞を解し、内側のしこりを探り当てると幸が息をのんで上ずった。その箇所を弱い力で持続的に刺激すると、幸は熱い息を吐いて全身を震わせる。
「し、愁……」
「ん、痛くないか?」
「痛くない……すごい、気持ちぃ……」
 瞳を潤わせて愁平の腕に頬をすり寄せた幸の前髪を撫で上げて、愁平は白い額に口づけた。
「ユキ、すげぇかわいい」
「……やめてよ」
 照れて恥じらうその表情もかわいくてたまらない。
 こみ上げるものを耐えられず、愁平は幸の耳元に低く囁いた。
「……な、入れていいか?」
 その声にも感じるようで、幸は目元を隠して小さく頷く。
 愁平の先端がひたりと入口にあてがわれて、幸は意識して深呼吸を繰り返した。それでもどうしても緊張してしまう幸の体のこわばりを、愁平は慎重に融かしながら行きつ戻りつ奥へ進む。
 幸の中の一番深いところで愁平が動きを止めた時、荒い呼吸の合間に小さな声が「いま」と譫言のように掠れた。
「……夢じゃないなら、死んでもいい」
 涙が止まらない幸の頬に、何度も愁平はくちびるを落とす。
「勝手に死ぬな」
 欲のままに動いてしまいたい逸りを必死で押し殺しながら、幸の体が愁平の形になじむのを待つ。
「もう絶対、黙ってどこにも行くな」
 命じているようで、それは懇願で。ゆっくりと開始された抽挿に、幸は愁平の背にしがみついて何度も頷いた。
 やがて幸の方がもどかしげに熱い吐息を漏らし始め、奥を突いたまま愁平が緩く腰を回すと、こらえきれないように喉をそらした。
「あ……や、見ないで」
 羞恥に染めた鴇色の目元が扇情的で、背に回された幸の両手を外させてベッドに縫い付けて、愁平は律動を解禁した。
「んっ、あ、っあ、あぁ」
 指を絡めてつないだ両手の甲に、幸の薄い爪が食い込む。その痛みにすら欲情した。
「……あ、やばい、加減できね……」
 自制がきかなくなりそうで、もう一度立ち止まる努力のきつさについ幸の肩に歯を立ててしまい、また幸が泣いた声を上げる。
「や、愁、もう……俺も無理、我慢できない、お願い動いて」
 幸の体を慮って必死で自制しているのに、ずいぶんほつれて細くなったその糸を当の幸がとどめに切りに来て、完全に誘惑に負けて愁平の理性が飛ぶ。
「おま……死んでも知らねえからなっ」
「死ぬなって、さっき愁が言ったんじゃんっ……あ、あぁ、や、あ――!」
「俺が殺す分には不可抗力だ、諦めろ」
「そ、んな、前言撤回……っ」
「聞けるか!」
 言下に却下されて少しの怯えを幸は瞳に滲ませたけれど、たとえ箍が外れたとしても幸を傷つけないという決めごとは絶対で、幸の表情に苦痛が浮かんでいないのを常に窺いながら、愁平は互いの極みを目指した。
 好きだと、疑う余地もないほど何度も伝えて。
 歓びに幸が咽ぶのも、それを与えられるのは自分だけだと思えば愁平は幸福に感じられた。
 やがて間歇的な震えが幸の全身を包み、絶頂の細い悲鳴を愁平はキスで塞ぐ。
「んっ、んー……!」
 くちびるに篭った熱が抜けず、額に汗を浮かばせながら、愁平の腕の中で幸は長く痙攣を繰り返し、愁平もきつく収縮するその奥に欲望を放った。
 互いに達し果てて、やっとくちびるを離す。上がった息は、二人して百メートルを全力疾走した直後のようだった。
「……愁、おまえ……ふざけんなよ。まじで窒息するかと……」
 酸欠で赤いのか青いのか判然としない顔色をした幸に詰られて、笑いながら愁平は幸の上に倒れこむ。
「やっべぇ、俺も死ぬかと思った……。おまえは死んでもいいんじゃなかったのかよ」
「だから、前言撤回っつったじゃん」
「だから聞かねえって」
 戯言に笑いが漏れ、呼吸が整えばまた二人はキスを繰り返した。
 時間をかけた睦み合いの後、熱情自体は急激に冷めても、愁平は離れがたくて隣でぐったり横たわっている幸の背を抱く。
 亜麻色の髪を指で梳いたり、目的もなく幸の耳たぶをふにふにと揉んだりしていると、吸い込まれそうなブルーグレーの瞳が少し揺らぎながら愁平を見上げてきた。
「……あの、さ」
「ん?」
 問い返して促しても、幸は躊躇いがちに瞼を瞬かせる。
「後悔、してない?」
 消え入りそうな声が問うた。辛気くさい顔をしてどうせ考えているのはそんなことだろうと思っていたから、間髪入れずに愁平は声を張る。
「する意味がわからん」
 きっぱりと言う愁平に、それでもまだ不安げな瞳が縋る。本当に? と訊いてくる前に、愁平は幸の両耳をつまんで横に伸ばした。
「この耳は俺の話を聞いてるか? 今日だけで俺は何回おまえに好きだって言った? 全部本気で言ったつもりだけど、信じられなかったか?」
 益体もないことを問うたと咎められたようで、幸は視線を泳がせる。
「信じられないわけじゃ……なくも、ない……から、こんなこと言ってんのか俺。面倒くさいよな……ごめん」
 落ち込んで顔を俯けてしまおうとする幸を、気持ちごと両耳を引っ張り上げて留めた。
「ま、しゃーねーな。要は、片想い期間が長すぎたせいで幸せ慣れしてないってことだろ」
「……幸せ慣れ」
「くそばかやろうで悪かったよほんと。気長につき合うから、一緒に慣れてこうぜ」
 焦ることはないと、愁平は歯を見せて笑う。
 信じられないものを今すぐとにかく信じろと言ったところで無理な話で、その信用を積み上げていくのがこれからの自分の課題だと、越え甲斐のある難題を前になぜか愁平の気持ちは高揚した。
「俺は、おまえをちゃんと幸せにするから」
 約束を渡す愁平のことを、幸はどこか懐かしげな、眩しそうな目で見上げていた。