翌日、愁平がちょうど八時前に約束の駅に着く予定の電車に乗っていると、仕事帰りのスーツ姿の幸がたまたま同じ車両に乗り合わせてきた。
「あれ、愁」
「よう。すげえ偶然」
窮屈な車内で、二人で並んで吊革を両手で握る。
「もしかして、この前展示会で会えてなくても、こんなふうに電車でばったり会ったりしてたのかな?」
仮定の話に頬を綻ばせる幸を、少し複雑な思いで愁平は見つめた。
「さあ、どうだろうな。俺今までこの路線でこっち方面来たことなかったし、今日も八時って約束してたから乗ったようなもんだし」
そんな奇跡的な偶然はそう起こらないだろうと、愁平は車窓から暗い外を眺める。
「……そっか。そうだよね」
だからこそ先日の邂逅に感謝しているのだという意味で言ったのだけれど、正しく伝わらなかったらしく幸は視線を落として睫毛を伏せた。そこをフォローできるような気の利いた語彙力は、残念ながら愁平は持ち合わせていない。
いきなり気まずくなって、黙ったまま数駅を過ごし、電車は幸の住まいの最寄り駅に到着した。
「どっか店入る? このへんあんまり充実してなくて、イタリアンかスペインバルか、あとはファミレスくらいだけど」
改札を出ながら、幸が問う。
「おまえんちは?」
これからしようとしている話はオープンスペースには向かないと判断しての提案だったが、幸は驚いて足を止め、愁平を振り返った。
「……俺は、構わないけど。昔告ってきたホモの部屋とか、いやじゃないの?」
わざと露悪的な言い方をして、自虐しているのだと愁平にも伝わる。幸は自分が変に期待してしまわないよう、牽制しているのだ。
「べつに。行こうぜ、どっちだ?」
「……こっち」
やっぱりやめると愁平が言えばいつでも軌道修正するつもりだった幸は、惑いながら愁平を先導した。
幸が前を歩き、その半歩後ろを愁平が歩く。いつもとは逆の構図で愁平は、斜め前で歩を進めるたびにふわふわと揺れる亜麻色の髪を眺めた。
その色を、ずっと探していた。
程なくオートロックのどう見ても分譲物件なマンションに着き、幸は取り出したカードキーで解錠する。
「うへー、社会人二年目でこのマンション住まいかよ」
嘆息する愁平に、幸はくすっと笑いを漏らす。
「ブルジョア家庭ですから。親の持ち物だったけど、今は俺の名義。他にも不労収入が何軒分か」
「まじかぁ!」
「ふふ。貢がせるにはお得な物件だと思うけど、どう? 俺なんて」
「――っ」
エレベーターの中で不意に色のある流し目を寄越されて、馬鹿正直に愁平は固まってしまった。
「……冗談だよ」
疲れたように、薄く笑って幸はそっぽを向いた。またしてもフォローの言葉はまるで浮かばない。自分のポンコツ具合が嫌になってきた。晃生ならきっとスマートに場の空気をまとめるだろうに。
そんな自分の卑屈にはっとして、愁平は小さく頭を振った。なぜ晃生と自分を比較するのか。ハイエンドスマホとガラケーくらいの歴然としたスペック差があって、比較の俎上に載せること自体が間違いというものなのに。
「ビールくらいしかないけどいい? つまみ的なもの何かあったかなぁ」
2LDKのリビングに通されて、冷蔵庫から缶ビールを出してくれる幸の背を目で追う。
そうだ。晃生とはそもそも比較にならない。晃生みたいにうまいこと伝えるのも得手ではない。ならば、自分にできる限りでぶつかるしかないではないか。
覚悟を決め、愁平は短く息を吸った。
「おまえが好きだ」
出し抜けに告げた愁平を、缶を両手に幸が驚いた顔で振り返る。
「おまえがいなくなってから、ずっとおまえのことが気になってた」
偽りのない正直な気持ちを、愁平は渡してやりたかった。
けれど目の前で、幸ははっきりと傷ついた顔を見せた。
「……なんで?」
想定外の反問に、愁平も訝しく眉を寄せる。
「何が?」
「さっきの真に受けた? 貢がせるにはおあつらえ向きって話。冗談だよ? 俺、愁に貢がないよ?」
「は? わかってるよそんなの」
何を言うのかと苛立つ愁平の前で、眇められたブルーグレーの瞳に涙が浮かぶ。
「じゃあ、俺が水上と寝たって知ったから? 軽くやれると思った? なら金払わなくても抱いてくれるの?」
「違う!!」
瞬間的にはらわたが煮えて、強く怒鳴った拍子に肩を震わせた幸がビールを床に取り落とした。固い音に、はっと我に返る。脅かしてどうするのだ。
「……ごめん、泡だらけで飲めないねこれ」
愁平に背を向けて、床にしゃがんだ幸が転がったビールを拾う。
「いや、悪い……でかい声出して」
「ううん。……あのさ。悪いけど帰ってくれないかな。今ビールこれしかないんだ」
「……ユキ、」
「ほんと、来たとこで悪いんだけど、帰って。お願い」
懇願が揺れて、薄い背中を向けた幸が涙を落としたのを知る。
何を考えるより先に、愁平は床に膝をついていた。
縮こまった背中を、後ろから抱く。細い肩が硬直して拒むように身じろいでも、じっと愁平は幸を抱き締めた。
「愁っ……やめて」
「……確かに、こないだそれ聞いたときは、めちゃくちゃ驚いた」
ストレートな告白すら、幸には正しく伝わらなかった。これ以上自分の貧困な語彙で誤解なく何かを伝えることはできるのだろうかと、見通しの暗さに心細くなりながら愁平は慎重に言葉を選ぶ。
「すげえもやもやして……俺のこと好きだって言った直後にかよって、腹が立って……それから、晃生にすげえ嫉妬した」
もう抵抗は見せず、幸は愁平の言葉を聞いている。
「あいつに嫉妬するなんて初めてだったよ。勉強もスポーツも見た目もなんもかんも全部、持って生まれたもんが違うんだからしょうがねえって、張り合う気も起きなかったのに。あいつに嫉妬したってするだけ無駄だって、俺ほどわかってるやつもいねえのによ」
幼い頃からすぐそばで、何においても自分より先んじていた晃生に、下手なコンプレックスなど持っているだけでもしんどいので、認識するより早く放棄した。
潔いその諦念が、人から大らかに見られる愁平の性格を形作ったのかもしれないとも思う。そこに幸が惹かれてくれたなら、いろいろを棄てた甲斐があったというものだ。
「惚れかけた女が晃生に惚れてたときだって、こんなふうには思わなかった。でもおまえだけは、晃生や、ほかのやつのもんになるのがどうしても許せねえんだ」
自分以外の誰が幸を悲しませても喜ばせてもいやだ。
幼稚なその独占欲が、愁平の幸に対する好きのすべてだった。
「愁……」
ず、と幸が腕の中で洟をすする。
「おっせえ。くそばかやろう」
らしからぬ口の悪さで愁平を罵倒した幸に、虚を衝かれて思わず愁平は声を上げて笑った。
「おっしゃる通り。申し訳ねえ!」
抱き締めた腕を緩め、肩越しに見上げてくる濡れた瞳と視線を絡める。やわらかい髪を抱いて、薄く閉じられていく瞼に吸い寄せられるように愁平はくちづけた。
白い頬を伝う涙を、拭うのは全部俺でいい。俺でありたい。
「……おまえが好きだ」
俺も、と応えた幸のくちびるを、そっと愁平は塞いだ。