片恋シーケンス -07-


 パソコンをシャットダウンして、帰り支度をしていると、隣席の同僚が先に立ち上がって「お先でーす」と声を上げる。それに「お疲れ様です」と返し、幸は自分も席を立った。
 スラックスの後ろポケットに収めた携帯は、今日も鳴らなかった。既読無視禁止とか、リターン三分以内ルールとか、言ったわりに連絡先を交換してからの数日、愁平は連絡を寄越さない。
 そりゃそうか、と幸は会社の廊下を歩きながら一人ごちた。
 別れ際に晃生との関係を明かしてしまった。いきなり友人同士の生々しい行為の事実を聞かされて、ストレートな愁平は嫌悪感を持ったに違いない。抱いてもらったという言い方をしたから、愁平は幸のことを、大事な友人を唆したビッチくらいに思っているかもしれない。
 それも仕方ないと思う。あながち外れてもいない。晃生だって幸を抱いたことを後悔していた。
 もう会うことはないと思っていたから、八年ぶりの邂逅に、ときめかなかったと言えば嘘になる。連絡先を交換できて、嬉しかったことも否定しない。それでももう一方で、やっぱりもう関わらない方がお互いのためだと思う気持ちも本当だった。
 幸は今でも愁平が好きで、ずっと愁平だけが好きで、愁平が望むような関係を演じ続けることはできないと思うから。
「――っ!?」
 そんなことを考えながらオフィス街を駅に向けて歩いていたら、突然片腕を引かれてビルの隙間に引っ張り込まれ、幸は驚きのあまり声を失った。
 暗がりで腕を引いた相手を見上げると、帽子にサングラスにマスクをつけた長身が、振りほどけない強さで押さえ込んでくる。今時不審者でもこんな不審な格好はしないという姿の男相手に、抵抗を試みるが全く効かないという状況に、さすがに恐怖で足が竦んだ。
「だ、誰か……」
「しーっ! でかい声出すな」
 けれど助けを求めて叫ぼうとした幸を止めた声に聞き覚えがあって、再度見上げると、長身はマスクとサングラスを外して見せる。
「俺だよ」
 暗がりでもその美貌は輝いて見えるようで、驚きに幸は声を上げた。
「水上!?」
「だから! でかい声出すなっつーに!」
 慌てた晃生に口を塞がれて、しまった、とその上から幸も自分の口元を押さえた。終業時間でこれから人も増えてくるオフィス街で、水上晃生がいるなんて知れたら大事だ。
「ご、ごめん。びっくりして。どうしたのこんなところで、そんな格好で。逆に目立たない?」
「目立ったとしても、明らかにヤバいやつには人間近づかないもんなんだ」
「あぁ、そうなの」
 そうは言うけれど、気づいてしまえばそんな格好をしていてさえ晃生はシルエットからして常人離れしていて、表を歩けばすぐに囲まれそうだ。
「愁平がおまえの連絡先、名刺の画像しか教えやがらないから。会おうったってこのへんで張ってるしかねえじゃん。昨日は逆方向で張ってて時間無駄にした。忙しいのに」
「そりゃ……ご苦労様でした」
「ほんとご苦労だよ」
 憤慨して息をついて、晃生は腕を組む。
「つうかおまえ! 俺とのこと愁平には言うなとか言ったくせに、何さらっと暴露してんだよ! 墓場まで持ってってやろうと思ってたのに、愁平と気まずくてたまらんわ!」
「あ……。ごめん、つい、流れで」
「どんな流れだよ。……まあいいけど。事実だし」
「水上にも、もう合わせる顔がなかったのに、こんな普通に会っちゃってるし」
「俺は気にしないからおまえも気にするな」
「無茶言わないでよ」
 ため息をついて、幸は足元を見た。
「……再会しちゃって、もういい加減諦めなきゃって思ってるんだ。呆れられて、いっそ嫌われた方が諦めもつくから」
 地面に落ちる声を見送っていると、晃生の指が顎にかかり、強引にではなく上を向かされた。
 芸能界に入って、前よりさらに男前をあげた彼の瞳が、まっすぐに幸を見下ろしてくる。
「俺にしとくって選択肢はないの?」
 低い問いに、驚いて目を見開いて、すぐに失笑する。
「……何言ってるんだよ、売れっ子芸能人が。この間も共演女優と噂になってたじゃん」
「好きでもない相手と噂になってもな」
 顎に掛かったままの親指が、幸の下くちびるをなぞる。妙に官能的なその動きに幸は体を引こうとしたが、すぐに背中はビルの壁に突き当たってしまった。
「……俺を好きだって言ってる?」
 まさかあり得ない、と思いながらの問いを、晃生は否定しない。
「有り体に言えばな。ていうか、好きでもなきゃ男抱かないだろ」
 あのときの行為に思いがけない理由がついて、幸は驚きに声を詰まらせた。
 あれは落ち込んだ幸の刹那的な欲求を満たすために、晃生が胸を貸してくれただけなのだと。晃生の側には何の感情も伴ってはいなくて、あったとしても好奇心ぐらいだと、思っていた。そう思っていた方が、幸にとっては楽だったから。
 ――俺はつき合うとしたら、お互いに本気で好きか、お互いに遊びって割り切れる相手だけでいいや。
 考えもしなかった。そんなふうに言っていた晃生が、いつからか幸を好きでいたなんて。
「……あの」
 言葉が出てこない幸に、晃生は微笑む。
「いいよ。まだ全然愁平のこと好きで、諦められそうもないんだろ。俺は、いよいよダメそうなときの二番手で」
 びっくりするようなことを事も無げに言う晃生に、眉を寄せて幸はかぶりを振る。
「そんな……水上晃生をキープ扱いなんて、何様だよ俺。畏れ多いよ」
「拒否らないでくれよ。俺が勝手に想ってるだけだから」
 ゆるく晃生に腕を引かれて、幸は躊躇った。
「……水上」
「ぎゅってするだけ」
 少しだけだからと、説かれて幸は晃生の胸に添う。その幸を、晃生はほんの数秒強く抱き締めて、すぐに解放した。
「俺にも連絡先教えろよ。今度三人で飲みにでも行こうぜ。いい店知ってるからさ」
 湿り気のない笑顔を、晃生は見せた。芝居で泣けるスキルを身に付けている彼が本心で何を思うのかは、幸には想像もつかない。
「……うん、そうだね」
 愁平から教わったのとは違う方法で連絡先を交換して、晃生はビルの隙間の奥側に消えていった。
 一人暗がりに残り、腕を抱くとひとりでに涙が落ちた。
 彼らの前から姿を消して、何もなかったことにして生きていけると信じていたことがもう信じられない。八年経っても歪な形が変わらないままここにある。
 あの日声を上げて泣いた幸も、何一つ変われていない。


 愁平の元に晃生から三人での飲み会の誘いが入ってきたのは、幸との再会から一ヶ月が経つ頃だった。
 この間にも愁平は何度も幸に連絡を取ろうとしては取りあぐね、相手からのアクションを期待しては落胆するという、へたれの見本みたいなことを繰り返していた。
 幸からの連絡は一切ない。まさかまた何も言わずに消えようとしてるんじゃないかと危ぶみつつ、晃生とのことは気になるわズリネタにした罪悪感はひどいわで、何でもない挨拶文をこねくり回しているうちにビジネスメールのような文面になってしまい、全文削除で振り出しに戻る。
 自分でも情けなさすぎる自覚はあって、そこへ晃生が幸との旧交を復活させたらしい知らせが入り、焦燥のままに晃生への返事を送った。
『ユキとつき合ってんの?』
 どストレートの探りを入れてしまい、取り消して送り直そうかと思ううちに既読がついてしまう。
『つき合いたいから、今押してるとこ』
 ややあって送られてきた返事に、頭が煮えてフリック入力もまどろっこしく、音声通話に切り替える。晃生は呼び出しにすぐに応答した。
「押すな。ユキはダメだ」
 前置きもなく言った愁平に、ムッとした声が返る。
『ダメって何が。自由恋愛の妨害反対』
 晃生の言い分は正しいが、理不尽だろうが飲む気は全くなかった。
「あいつは俺を好きだって言った」
『高二のときの話だろ』
「とにかくあいつはダメだ!」
 屁理屈すらひねり出せず、愁平は癇癪みたいな声を上げる。ワガママなお子様だなー、と呟いて晃生は嘆息した。
『ならそのダメな理由を、ちゃんと岸川に話してやれよ』
 怒気すら孕んだ声が、愁平を責める。
『再会のあてもなしに、八年! 八年もだ。おまえは岸川を落ち込ませたまま、あいつとずっと会えなくても良かったのか? その方が気が楽だったのか? いつまでおまえは、岸川に片想いさせとくんだよ』
 畳み掛けられて、返す言葉もなく八年という年月を愁平は思った。
 もしかして今もまだ、という疑念を思い上がりだと自分勝手に掻き消した。八年も、会うこともない自分を好きで居続けているわけがないと。だからまた友人関係を築き直せばいいだなんて、頓珍漢な試みでまた幸を傷つけて。
 普通に考えても長い。それも、なんとなく幸のことが気にかかっていただけの愁平の八年と、幸のそれとは全く性質が異なっていただろう。そしてこの間の展示会で偶然出くわさなければ、近くにいるとはいえ人の多いこの東京で、もう一生会うこともなかったかもしれないのだ。
『ちゃんとできねえなら、まじでもらうぞ俺が』
 最後通牒のような晃生の忠告を残して、通話は切れた。そこまで言われてようやく、愁平の中でも覚悟が決まる。
 これはもはや猶予はほとんど残されていないのかもしれない。既成事実がある上にあらゆるスペックが自分より高い晃生が本気で幸を落としにかかったら、まるで太刀打ちできる気がしない。
 一刻を争う事態だと思われた。
『明日何時に仕事終わる? おまえんちの最寄り駅前で待ってる』
 性急に幸へLINEを送って、『八時』という素っ気ない返事が来るまで、うぶな高校生のように、愁平はそわそわと落ち着かなかった。