片恋シーケンス -06-


 会場を出て、手近な居酒屋へ向かう。愁平が先を歩き、半歩後ろを幸がついていく。変わらない物理距離と、計測不能な心理距離。
 見つけた居酒屋は、時間が早いのもあってすぐに個室の座敷に通された。
 向き合って座り、とりあえずのビールを二つと枝豆を頼んで、二人きりになるとすとんと沈黙が落ちた。
 幸は愁平と目を合わせようとしない。愁平は幸のつむじばかりを見つめながら、視線の合わない相手というのはこんなに居心地の悪い思いをさせるものなのかと痛感していた。今の幸は、あの頃自分が幸に見せていた姿だ。
 話の取っ掛かりも見当たらないので、愁平は自分の名刺を幸の前に置いた。
「あっ……ありがとう。俺も……」
 慌てたように幸も名刺入れを取り出して、一枚抜いて愁平へ几帳面に差し出す。それを受け取って読んでみれば、驚いたことに幸の働く会社と愁平の会社とは、同じ路線に最寄り駅がある上に取引関係があった。
「近所じゃねえか」
「ほんとだね。通勤の電車、一緒になったこともあったかな」
「今どこ住んでんだよ?」
「最寄りはH駅」
「じゃあ電車は逆だ。俺はK駅」
「でも同じ沿線だね。意外と近くにいたんだ」
 ふわりと、幸が笑む。長く探していたそれが、愁平の心拍を上げる。
「H駅なら、その一個向こうに晃生が住んでるぞ」
 気取られまいとこの場にいない晃生の名を出すと、幸は苦笑いを浮かべた。
「……だめだよ、こんなところで有名人の個人情報話したりしちゃ」
「晃生が有名人なのは知ってんのか」
「そりゃあね。テレビにも雑誌にも中吊りにもバンバン出てるじゃん。見ない日ないよ」
「CM新しいの決まったって言ってたぞ」
「そうなんだ。今も連絡とってるんだね」
「一応な。時々だけど」
 運ばれてきたビールのジョッキを掲げて、乾杯をする。ひどく薄情な別れからの、実に丸八年ぶりの再会なのに、何事もなかったように表面上穏やかな会話を交わす。
「愁と酒飲めるなんて思わなかったな」
 ようやく視線が合うようになってきた目を細めて、幸が枝豆をつまんだ。
「今日は、展示会には何か用があって? 設計さんって内容的にあんまり関係なくない?」
「あぁ、納品先の会社がブース出してて、挨拶と、打ち合わせを兼ねて。ユキは?」
「俺は広報やってて、ほんとは今日は営業だけで対応する予定だったんだけど、外国人の来客対応要員で駆り出されたんだ」
「それでさっき、手伝いがどうのって言ってたのか」
「そう。今朝いきなり、カナダ帰りの岸川くんは本日お暇ですかーって、名指しで拉致されて参ったよ」
「そりゃ災難だったな。苦手っつってたけど、今は英語できるのか?」
「まあ、一応向こうの大学出たからね」
 二人ともなるべく核心には触れないように会話しているつもりなのだが、どうしても話題を広げようとするとそちらへも近づいていってしまう。
 やはり再会したからには触れざるを得ないかと、少しの覚悟を愁平は飲み込んだ。
「……いつ日本に戻ってきたんだ?」
 行くときも戻ったときも、連絡ひとつ寄越さなかったことの恨みを滲ませてみるが、取り合うつもりもないように幸は笑う。
「一昨年の夏に、大学を卒業してすぐ。そこから就活して、今は社会人二年目だよ」
 愁平の方はそのつもりでもこちらはノーサンキューだと線を引くように、幸は笑んだまままた視線を外した。その仕種が愁平を苛立たせる。
「ユキ。俺も晃生も、いきなり何も言わないでおまえがいなくなって、どんだけ心配したと」
「やめようよ、そんな話」
 責める語調になった愁平を遮り、頬を強張らせて幸はジョッキをあおった。半分ほどを一気に飲み上げてテーブルに戻し、手の甲で口元を拭いながら、早口に幸は言葉を重ねる。
「ねえ、愁の話が聞きたいよ。大学はどうだった? 仕事はどう? 彼女とかいるの?」 
 痛々しく強張ったままの頬を笑みの形になんとかつり上げて、精一杯の友人面を、幸が続けてくれようとしていることが愁平にも知れた。
 空々しい質問が並び、愁平の望んだ単なる友人関係の継続が幸にとってどんなに残酷な要求だったのかを思い知る。
「今はいない」
 短く答えた、今は、の部分を思いきり胸に引っかけた顔で、幸は視線を落とした。
「……そうなんだ」
 大学時代に、愁平は二人の女性とつき合った。肉体関係も持ったけれど、どちらとも一年ももたなかった。
 明るく染められた髪を抱いていても、ふとしたときにあれ、という違和感にとらわれた。あれ、これはユキじゃないぞ、と。
 人として最低最悪なその違和感はかつての彼女たちにも幸にも伝えられないけれど、いつも頭のどこかで、幸のことを考えていた。
 夕日を背に、愁平に好きだと言った。
 陽光に透けた、溶けた飴みたいな髪の色。
 急いた、必死な声。
 つま先を濡らした涙。
 今と同じ、緊張を孕んだ空気。
「……あのとき」
 瞼の裏の光景がまさか伝わったのか、観念したように幸は呟いた。
「変なこと言って、ごめん」
 拗れた発端はそこだったと、懺悔するように幸は言う。再会の瞬間から、今初めてようやく幸と向き合えた気がして、愁平はテーブルの下で両手を組んだ。
「……返事、結局できてないよな」
「いいんだ。応えてもらえるなんて思ってなかった」
 諦めた声で、幸は微笑んで首を振る。
 もう自分への気持ちは残っていないのかと、無神経に問いそうになって愁平は口を噤んだ。
 訊いてどうする。ずっと気になっていたなんて、そんな言葉は夕日の中の幸に対する何の応答にもならない。それに、一切の連絡を絶ってから八年が経った。もしかして今もまだ、と疑うこと自体が自惚れも甚だしい。
 終わったこと。少なくとも自分の前から姿を消した時点で幸は、終わらせてしまいたかったはずだ。
 だから、八年前からの続きは今日で終わり。また新しく関係を築き直そうと、愁平はビールを飲み上げた。
 飲み物と食事を追加して、空白を埋めるように愁平は幸がカナダに行ったあとのことを話した。
 高二の前期の期末試験は散々な結果だったこと。高三で晃生とクラスが別れて、新たに勉強を教えてくれる友達を作るのに苦労して、結局晃生の元に通ったこと。大学で一人暮らしを始めて、自炊が得意になったこと。大学での勉強は意外に面白くて、案外単位には苦労しなかったこと。今の仕事は忙しいけれど、やりがいを感じていること。
 楽しそうに相槌を打ちながら聞いた幸は、自分のことは話そうとしなかった。
 思いがけず長い時間を過ごして、ほろ酔い気分で同じ電車を待つホームで、愁平は次に会う約束を取りつけようと携帯を取り出した。
「そうだ、おまえの今の連絡先教えろ。ほら、ふるふるすんぞ」
「え、なに、ふるふるってどうやんの。俺、番号からの登録しかしたことないんだけど」
「知らねえのかよ! ここ、ここ押して、おら振れ!」
「振るの? どんくらい? 全力?」
「全力に決まってんだろ!」
「まじか! あ、なんか来た。これ絶対こんな振らなくていいやつだろ!」
「アホか、全力でやんねえで、楽してアタクシの連絡先ゲットしようとか甘すぎるわ」
「なんなんだよ、何キャラだよ」
 酔いも手伝ってけらけらと笑っている幸に、愁平は自分の電話番号と気持ち悪いスタンプを送った。
「既読無視禁止な。リターンは三分以内ルールで」
「どこの女子高生だよー。うわきっしょ、女子高生はこのスタンプは使わんわ」
「次は晃生にも声かけて、三人で飲もうぜ。あいつもおまえに会いたいだろうし」
 途切れなかった笑い声は、しかし愁平のその言葉でふつりと止む。見れば先ほどまでと打って変わって、幸は冴えない表情でくちびるを噛んでいる。
「ユキ?」
「水上にはもう、合わせる顔がないんだよ俺」
 トーンの落ちきった声に、そういえば晃生も何か事情があって幸と連絡を取らないでいるうちに幸が消えてしまったと、言っていたことを思い出した。
「晃生とも何かあったのか?」
 ホームにアナウンスが響き、乗る予定の電車が滑り込んできた。ドアが開き、降車する乗客が溢れ出てくる。
「抱いてもらったんだ」
 周りが騒がしくて、だから愁平は、さらりと幸が口にした言葉を一瞬聞き間違いだと思った。
「……は?」
 固い表情の幸は横顔しか見せていなくて、その眉が歪んでいるのを見て、聞き間違いではないと悟る。
「いつ?」
 それより他に追及するところがあるはずなのに、動揺のあまりそんなことを訊いていた。
「高二の、夏休みが始まる前日」
「……俺に告白してきた直後じゃん」
 呆然とする愁平に、幸は苦い笑いを向ける。
「そう。……だから今日も、どの面下げてって感じ」
 いたたまれず目を伏せて、幸が歩き出す。幸を乗せたとたんに、目の前の電車のドアが音を立てて閉まった。
「……はぁあ?」
 意味がまるで汲み取れなくて、自分も乗る予定だった電車が走り去るのを、愁平はただ見送った。
 あまりの衝撃に呆然自失の愁平は、帰宅して玄関ドアを閉めたものの、どうやって自分が帰ってきたのかをよく覚えていない。
 抱いてもらった? ユキが、晃生に? 晃生がユキを? 抱いた? ……抱いた!?
「うわーっ!!」
 何度も頭の中で反芻した言葉の意味がやっと繋がって、生々しい想像が浮かびそうになって思いきり頭を振った。脱ぎ捨てた革靴が廊下に転がるのも構わず、ワンルームの部屋に上がって携帯を取り出す。
 電話を掛け、留守電に切り替わり、を何度も繰り返して、不在着信を十五回も記録させたところでようやく晃生が出た。
『どこのストーカーだ、鬼電しやがって』
 不機嫌な声に、愁平は携帯を握りしめる。もう少し握力が強ければ、握り潰してしまうほどに。
「おまえ、ユキと寝たのか!?」
 久しぶり、の挨拶もなく開口一発喚いた。
『あぁ?』
 不機嫌を煮詰めた声が返る。
『酔ってんのかよ』
「酔ってるけど酔ってねえ! 本人に聞いた。あいつ今東京にいる」
『……会ったのか?』
「今日行った展示会で偶然会ったんだ。会って飯食って飲んで、最後にそう聞いた」
 電話の向こうで晃生が黙り込み、小さなため息と舌打ちが聞こえる。
『バカかあいつは』
「答えろよ、寝たのかって訊いてんだ俺は!」
『なんでおまえがそんなこと訊く?』
 冷静な声で反問されて、愁平は詰まった。
『その件に関して俺は黙秘する。岸川が誰と寝ようと、おまえが気にする筋合いじゃないだろう。おまえは岸川の告白に応えなかったんだから』
「……まじで寝たのかよ」
『黙秘する』
「くっそ、話にならねえ!」
 叫んで終話ボタンを押して、クッションに携帯を投げつける。と、すぐにメッセージの受信音が鳴る。
『岸川の連絡先教えとけ』
 腹立たしい命令に、愁平は幸の名刺の写真画像だけを送りつけてベッドに転がった。
 しんと静かな一人の部屋で天井を見上げていると、先ほど振り払ったはずの想像が意識の端に忍び込んでくる。
 ――水上。
 やわらかい幸の声が、あえかな吐息を伴って晃生を呼ぶ。思わず目を瞑って耳を塞いだけれど、それは自分の脳内で鳴っていて。
 ――あ、あぁ、いや。いや、水上……。
 拒む声と裏腹に、肌の白い華奢な腕が求めるように晃生の背を抱いて、甘えた猫のように爪を立てる。反らした喉元に噛みつかれて、痛みではない感覚に大きく口を開けて喘ぐ。息も肌も濡れて、汗の光る腿を大きく割られた間で晃生が上下するのに合わせ、押し出されるような嬌声を上げて幸が小さく痙攣する。荒い呼吸に、なめらかで平らかな胸が忙しなく膨張と収縮を繰り返す。
 ――あぁ、水上、もっと。
 晃生の名を呼びながらねだる声など聞きたくもないのに、妄想を止められないまま愁平は自分の下肢に手を伸ばした。
「……ぅ」
 いつの間にかそこははっきりと張り詰めていて、指を這わせただけで先端から先走りを滲ませた。輪郭の確かな欲情に、何の言い訳もできなくなる。
 閉じた瞼の中で幸はますます艶かしく乱れ、切迫した喘ぎが限界を伝える。
 ――あ、あ、もうダメ、……
 極みに向かい、幸が背中をのけぞらせた。
 ――愁……!!
 瞬間、目の前が発光して、愁平は目を見開いた。
「はっ……はっ……」
 目の前には、自室の白い天井。自分の荒い呼吸だけが部屋に響いて、濡れた右手のぬかるみが生々しい。
「……うそだろ」
 男友達二人のセックスを想像して自慰をするなんて。しかも最後の瞬間、幸を犯す存在を自分に置き換えるなんて。
 でも堪らなかった。晃生に抱かれて幸が達するのが、我慢ならなかった。幸が晃生の名を呼んで気をやるのが、どうしてもどうしても、妬ましくて。
「……うそだろ……」
 愕然とした。こんな自覚のしかたってない。
 幸を抱いた晃生に対する激しい嫉妬と、他の誰にも幸に触らせたくないという独占欲。そんなものが自分の中にあったこと。
 知らなかった感情を抱えきれずにもて余して、愁平は苦しく目を閉じた。