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都会の雑踏で、流れを乱さないよう早足で歩く。肩に掛けた筒型の図面ケースが落ちそうになって、ストラップを持ち上げ直しながら、愁平は高層ビルを見上げた。
まだ残暑厳しい折なのに、広告塔では秋物のシックな色合いの服を重ね着した晃生が涼しい顔でポーズを決めている。
八年が経ち、スーツも着慣れた社会人三年目の愁平は、二十五歳になっていた。
九月の声を聞くと、毎年のように高校二年生の夏休み明けの衝撃を思い出す。一番親しかった友人が、周りの誰にも何も言わずに、日本を離れて海外赴任中の両親の元へ行ったと担任から聞かされたときのこと。
あまりの驚きに、愁平は同じクラスで同じ話を聞いた晃生を振り返った。晃生も同じ表情で愁平を見ていたので、彼も初耳のようだった。
「おまえ、夏休み中にユキと連絡とってなかったのか?」
一限が始まる前に廊下に晃生を呼び出して問うと、珍しいほどに激しく動揺した様子の晃生は首を横に振った。
「一度も?」
「……ああ」
「なんでだよ。じゃあおまえもカナダ行きのこと、何も聞いてなかったのか?」
「聞いてねえよ。おまえこそ何も聞いてなかったのかよ。そういう予定があるとかないとか。あいつ行かないってずっと言ってたじゃないか」
「俺も行く気はないとしか聞いてねえよ!」
苛立ちに地団駄を踏んで、愁平は自分の髪を掴んだ。心臓がひどく動悸していた。
最後に見た幸はどんな顔をしていただろうか。
亜麻色の柔らかいくせっ毛をふわりと揺らして、いつも控えめに笑っていた幸。ブルーグレーの瞳を細めて、愁、と優しい声が呼ぶのを聞くのが好きだった。
でも今は、泣きそうな顔で愁平に触れがたくしていた姿しか思い浮かばない。
――ごめん。
何も悪いことはしていないのに、接し方を見失った愁平が素っ気なくするたびに小さく詫びていた。いいとも悪いとも、どうしていいかわからない愁平には言えなくて、ただ目をそらした。そうされて幸がどう感じるかも考えないで。
「ユキに、告白されたんだ」
晃生と二人きりの帰り道で、愁平は小さな声で明かした。
「……知ってる」
晃生が頷くのを、そうか、と少し安堵しながら聞いた。誰にも相談できずに思い悩んでいたのではなかったのだ、と。
「俺、あてもないのにユキの気持ち保留するようなこと言って、挙げ句あいつにひどい態度とった」
そのときはそうするしかなくて、傷つけるつもりもなかったのに、今こうなると自分の行いが悔やまれてならなかった。
「……岸川に、応えてやるつもりはあったのか?」
晃生に問われて、愁平は正直に「わかんね」と呟く。
「……大事な、友達だったんだ。好きだとか言われてもわかんねえよ。男同士でつき合うとかどういうことだよ。キスしたりエッチしたりすんの? 俺とユキが?」
まるで想像もつかなくて、あり得ないことのように言った愁平に、晃生が息をつく。
「それなら、下手に保留するようなことは言わない方が良かったかもな。友達でいたいならそう言えば、岸川は友達でいるように努力してくれたと思うよ」
晃生はそう言うけれど、それも違う気がして愁平は眉を寄せる。
「けどそんなのユキは望んでないだろ」
「望む形を与えられもしないくせに、綺麗事言ってんなよ」
ざっくりと斬られて、愁平は俯くしかなくなる。
「……そっちはなんかあったのかよ。ユキがそんなことまで相談するような仲なのに、なんで夏休み中に一度も連絡とらなかったんだよ? それも俺のせいか?」
話題の矛先を向けた愁平に、感情を消した顔で晃生は首を横に振った。
「いや。それは、俺の事情」
そう言ってくちびるを引き結んでしまった晃生が、それ以上は何も語らないことを、愁平はよく知っている。黙ったまま、二人は帰り道を歩いた。
そして二人は幸のいない高校生活を過ごし、別々の大学に進学した。
晃生は高校の頃からいろいろなスカウトを受けていて、大学入学と同時にタレント事務所に所属し、ファッション誌のモデルを始めた。大学を卒業してからは、元々興味があったという俳優業にも進出し、最近はあちこちのドラマに出ているのを見るようになった。時々は愁平と連絡を取り合っているが、仕事が忙しいようで直接会うことはほとんどなくなっている。
一方、愁平は大学を卒業して電機メーカーに就職し、設計部署に配属された。営業と一緒に客先に出向くこともあり、毎日残業続きの忙しい日々を送っている。
今日は午後から、製品を納めている取引先がブースを出している展示会に行くことになっていて、午前中で今日納期の業務を上げてしまわねばならず、急ぎ足で会社に向かっていた。
その足が、ふと止まる。
人混みの中に、わずかな亜麻色を見つけて、目が反射的にそれを追う。
しかしよく見ればそれは軽薄そうな格好をした学生で、小さな落胆を振り捨てるように愁平はまた足を早めた。
こんなことを、未だに何度も繰り返している。
もう会うことはないのだろうと、わかっている。今はどこにいるのかもわからない。国内にいるのかどうかさえ。
そして会えたところで、今の自分が幸に何を言えるかも、まだ愁平はわからないでいた。
「井浦、この間の筐体と板の干渉、直ったサンプル届いてるから確認しといてくれ」
会社につくなり上司から声がかかり、背筋を伸ばして「はい」と返事する。デスクにはそのサンプルがどんと置かれていて、鏡面加工がきれいに施されたそれを手にとって、ノギスを片手に内側の断面を指でなぞる。
自分が設計に関わったものが、こうして形になるのはとても楽しくて誇らしい。まだ設計精度の厳しいものには携わらせてもらえないが、上司は愁平のやる気と周囲とのコミュニケーション能力を買ってくれていた。
「おはよーっす。井浦ぁ、今日の午後、出発一時半な。会場で先方と二時に落ち合って、その後は適当に展示見学して直帰でいいから」
出勤してきた先輩に声をかけられ、愁平はサンプルから顔を上げる。
「あ、はい、わかりました。宮野さん、これこの間の設変のサンプルです」
「おー、届いたか。いけてそう?」
「はい、ちょうどこの隙間に板が来るんで、これなら干渉しないです」
「いいねー。鏡面も美しいねー。これで品証の量試判定に回そう。ゴー出すよ」
「はい、お願いします」
量産に向けたステップがひとつ進むたびにわくわくする。周りは作業着の男だらけで色っぽさはかけらもないが、今の愁平は仕事に打ち込むことが一番の楽しみだった。
だだっ広いイベント会場で行われる企業向け文書管理ソリューションをテーマとした展示会には、携帯可能な電子文具から、オフィスの大型複合機と連携するアプリケーションまで、いろんなツールを提供する企業が大小さまざまなブースを出して自社製品を紹介していた。
その一つのブースに愁平は先輩と一緒に出向き、担当者と挨拶を交わし、試作中の製品の打ち合わせも兼ねて小一時間を過ごした。
何度も頭を下げながらそのブースを辞去し、少し離れたところで先輩に自販機のドリンクをおごってもらって一息つく。
「さて、とりあえず今日の任務は終わりだ。井浦どうする? 俺は今外に出てもあちぃし、適当に面白そうなとこ見て回ってから帰ろうかと思ってるけど」
ネクタイを緩める先輩に訊かれ、愁平は腕時計を見た。
「そうっすね。俺もちょっと見てから帰ります。けっこう発想の面白いベンチャーの展示とかもありますね」
「だよな。すげえニッチだけど、痒いとこに手が届いてるなーって感じの製品とか。数は出ないかもしんないけど、コアなファンがついてんだろうなぁ」
楽しそうに言って、先輩は飲み上げた缶を捨てて、じゃあな、と行ってしまった。学生時代の友人関係と違って、同僚とのつき合いはあっさりしたものだ。
特にあてはないが、とりあえず先輩が向かった方向と逆向きに歩き出す。スタッフが配る会場案内を手に、興味を引かれるブースを片っ端から見て回った。
なんだかんだで歩き回るうちに展示会の終了時間間際になって、持たされたパンフレットやノベルティを鞄に詰め、帰り始める来客の波に乗ってぼんやりと出口に向かう。
その途中で、性懲りもなく視界の端で亜麻色をとらえた。また思い過ごしだろうと思うけれど、確認せずにはいられなくてそちらを振り向く。
その目を瞠った。
ワイシャツとスラックスをまとったノータイの痩身が、少し大人っぽくなった笑顔で、談笑しながらブースの片付けをしている。
見間違えるわけがない。何年も、いるはずのない場所でまで探し続けてきたのだ。
流れに逆らって愁平は引き返し、そのブースへ駆け寄った。
「ユキ!!」
非常識な大声で、愁平はその名を呼んだ。
驚いた顔がこちらを向く。ブルーグレーの瞳がさらに大きく見開かれ、愁平をとらえる。
「……愁」
呆然とした声で呼び返し、幸は動きを止めた。
「岸川くん、知り合い?」
談笑相手の白いスーツの美女が尋ね、はっと我に返ったように頷く。
「は、はい。高校の時の友達、で」
「そうなんだ、じゃあ会うの久しぶりなんじゃないの? こっちの片付けはいいから、行っておいでよ。今日は無理言って手伝ってもらっちゃってありがとうね、助かったわ」
「や、あの」
「いいからいいから。お疲れ様!」
美女はブース裏から幸のものとおぼしきバックパックまで引っ張り出して渡して、幸の背をぐいぐい押して送り出した。
数歩で触れられる距離に幸がいる。その距離を詰めることはしないで、愁平は俯いた幸を見つめた。
「もう上がれるのか?」
問うた声が思いがけず剣呑で、幸はびくりと肩を震わせた。
「あ……うん」
「じゃあ飯でも食おうぜ」
「や、でも、あの」
動揺した口元が断る口実を探している。その揺らいだ目を睨め据えると、観念したように幸は頷いた。