予定よりドラマの撮影が立て込んだとかで、ふた月ほどの待機を経てようやく晃生のスケジュールが空き、三人で飲むことになった日。最後に店に到着した晃生がマスクと黒縁眼鏡の装備で個室に案内されると、そのテーブル上で愁平はこれ見よがしに幸と手を繋いでいた。
「こういうことだから。今後一切ユキに色目使うなよ!」
絶対にこれだけは最初に言っておかなければ気が済まないという風情で気勢を上げた愁平の隣で幸は苦笑いを浮かべるばかりで、晃生はげんなりとマスクを外しながらテーブルに肘をついた。
「はいはい、お幸せそうで何よりだよ。おまえらもう飲み物頼んだ? まだなら岸川何にする?」
「おぉい! 流すな! つうか俺にもオーダー訊け!」
「おまえはどうせビール一択だろ。岸川は少食だから炭酸じゃない方がいいかと思って」
「は!? そうだったのか!?」
いつも配慮なく一緒にビールを頼んでいた愁平は、豊富なドリンクメニューを晃生から勧められている幸を振り返った。
「いや、いいんだよ俺も一緒で」
控えめな苦笑に幸側の配慮を感じて、完全敗北に愁平は愕然とする。
「言えよおまえもそーゆーの! 小さい我慢するより小さい自己主張どんどん出してくれた方がいいんだって!」
「ごめん、でも我慢なんてほどのことじゃないんだよ。俺ビール好きだし」
言いながらカクテルメニューに目を通した幸はギムレットを選んで、あえなく愁平は撃沈した。
「カレシ気が利かねえなぁ。二ヶ月つき合ってて酒の好みも把握してくれてないとか、苦労するぞおまえ。やっぱ俺にしとけって」
堂々と口説きにかかる晃生はちらりと愁平を流し見て、悔しさにぎりぎりとテーブルに爪を立てる愁平の隣で、幸はにっこり笑って「いいんだよ、愁にそういうのは求めてないから」と無自覚に介錯の刀を振り下ろす。一太刀で頭を落とされた気持ちになってテーブルに突っ伏した愁平を、晃生は大声で笑った。
「はは、こっちの彼氏も案外きっついな!」
「あれ? 今なんか言葉間違ったね俺。愁はそういうんじゃなくて、もっと本質的なところがちゃんと俺に向いてるからいいんだってことを言いたかったんだけど」
「……岸川よ、気が利かないのくだりは否定してやらねえの?」
「え? あ、そこを否定してほしかったの愁は? 大丈夫、気が利かないことないよ!」
思いきり気を遣われて、テーブルに頭をつけたまま惨めに愁平は幸を仰ぐ。
「そういうとこ求めるに値しない彼氏でごめんねユキちゃん。そのへんもおいおいスキル上げてくから、捨てないでね……」
「何言ってんの」
「はいストーップ。公共スペースでーす。ついでに店員さん呼びまーす」
寸劇は始めた晃生によって閉じられて、久々に三人が揃った記念の乾杯を交わして互いの近況を話した。順風満帆に見える晃生も実はいくつかのオーディションで落選続きだとこぼし、そのことに愁平と幸は盛大に驚いて、皆それぞれに社会人としての苦労があるんだなと励まし合う。
途中、愁平が晃生に「絶対口説くなよ」としつこく牽制しながらトイレに席を立った。障子が閉まって二人きりになると、晃生は黒縁眼鏡の奥の目をふっと細める。
「よかったな。うまくいってそうで」
優しい声をかけられて、幸は小さく「うん」と返す。愁平に受け入れられたことは幸から報告していたが、それに対する晃生の返事は『おめでとう』の一言だけで、それから初めて顔を合わせた今日、初っぱなからあんな惚気た姿を見せることになるとは思っていなくて、幸は少し気まずかった。
片想いの辛さも、それが叶わない切なさも、幸ほど身に染みてよくわかっている者も他にいない。
「なんだよ、浮かないな。やっぱ愁平の気が利かないのか?」
晴れない表情の理由を誤解されて、幸は首を振る。
「そんなことないよ。ほんとに、愁には大事にしてもらってる。申し訳ないくらい」
ここ二ヶ月の自分を思い返せばその幸福は身に余るほどで、それ以前との高低差に耳鳴りがしそうだ。
普段から自炊しているという愁平が、手料理を振る舞ってくれたり。幸のリクエストに、わざわざレシピを調べて応えてくれたり。
そういうわかりやすい行為だけではなく、気が利かないと晃生は言うけれど愁平は幸の疲れや気落ちをとても敏感に察知してくれて、そうしてほしいと思うときにさりげなくハグしてくれたりキスしてくれたり、それは幸の心を何より甘く満たしてくれている。
かといって肉体的な接触を強く求めてくることもなく、いつも幸の体調を最優先にしてくれて、二ヶ月間で最後まで求められたのは片手の指の数にも満たないほどだ。
「愁がつき合う相手にこんなに優しいと思わなかった。いいなぁって、愁の彼女になる人を指咥えて見てることしかできないと思ってたから。自分がその立場になれるなんて夢みたいで」
幸せそうに、けれどどこか不安そうに幸は呟く。
「俺に八年間片想い続けさせた罪滅ぼし? みたいなものなのかな? 償い終わったら、どうなっちゃうのかな」
一度知ってしまった温もりが、いつまでも自分のそばに在るとは信じがたくて、心構えをしておくようにいつも失ったときのことを考えてしまう。
でも考えたところでそのときにどうすればいいのかはまるでわからなくて、いっそ明日世界が終わったりしてくれないかな、なんて馬鹿な想像をする。けれど朝が来れば幸せは現在のところまだ続いていて、今世界が終わってくれては困る、とも思う。
「――なるほど、それか」
稚いものを見るような目で、納得した声を晃生が漏らした。
「え?」
「この間愁平と電話で、今日の予定を話してたときにな。岸川は『幸せ慣れしてない』って。いつでもどこでも無闇やたらにとりあえず不安だから、そこを突いて口説いたりしたら殺すって言われた」
幸自身も言われたことのあるフレーズを晃生が口にして、幸もこれがそれなのか、と腑に落ちる。
「まあ、愁平相手に死ぬこたないと思ってるんで、不安になったらいつでも俺に遠慮なく相談してこい。下心満載で聞いてやる」
眼鏡の縁を押し上げながらにやりと笑って言った晃生に、幸も笑った。
「満載かよ。なら言わないよ」
軽口をたたき合っていると、障子が開いて愁平が戻ってきた。
「ふいー、ただいま。部屋わかんなくてちょっと迷った。ここのトイレわかりにくいな」
「だっせ」
「うっせー」
しれっと罵倒した晃生にいちいち言い返して、愁平がジョッキの残りを一気に流し込むのを、幸は苦笑いで見守る。
そのあと会がお開きとなり、個室を出たまさにその通路の真正面突き当たりに、非常にわかりやすくトイレを示す暖簾がかかっていることに、幸は気づいた。
翌日も舞台の稽古で朝早いという晃生がタクシーに乗り込むのを見送って、二人は駅に向けて歩き出す。
このあとのことは何も約束していない。愁平が先を歩き、半歩後ろを幸が追う。
「俺ね」
脈絡もなく話し始めた幸の声を、振り返りもしないし返事もしないけれど、ちゃんと愁平は聞いてくれていると信じられる。
「ずっと、俺は愁を好きじゃないって、毎日自分に言い聞かせて思い込もうとしてた。高校の頃」
自分に必要なのはこういう信頼の積み重ねだろうかと、幸は思った。
「抜けてないんだ、たぶんそういう、予防線張るみたいな臆病なとこ」
何年経ってもその根は張ったままで、頑なな自分の弱さをいつか愁平が疎ましく思うのではないかと、その不安を幸は明かした。
「……罪滅しとか償いとか、そんなことは思ってねえよ」
振り返らないまま、愁平は言う。やっぱり聞いてたんだ、と幸は切なくなる。
「確かに、八年前の俺がおまえを受け入れられたかどうかも、受け入れたとして今ほど大事にできたかどうかも、正直わからん。そういう意味で俺には八年もの時間が必要だったんだろうし、その間おまえが寂しいままだったことには謝りたいと思う。けど、罪滅しのためにつき合ってるんじゃない。今すぐじゃなくていいから、わかってほしい」
気長につき合うと言った約束を守って、急かずに愁平は幸に願った。
「……いや、わからせるのも俺の宿題だな。圧倒的に俺は信用が足りてないんだ。おまえが不安になるのは全部俺のせいだ。昔の俺と、今の俺」
足を止めて、愁平は肩越しに振り向く。
「今の俺が挽回したい。頑張らせてくれ。ちょっとくらいの無理は目をつぶってくれよ」
困った顔で笑う愁平に、幸は笑い返した。そして一歩踏み出して、愁平の真隣に並んでまた歩きだす。
「愁、今日は泊まっていってよ」
顔を覗き込みながら誘うと、愁平は困り顔を深めて苦笑いした。
「おまえ……今日はやべえぞ俺。絶対襲うぞ」
「襲ってよ。いつもダメなんて言ってないよ。なぜか愁平くんがお行儀いいだけで」
「今俺、試用期間中の心境なんだよ。お行儀よくポイント稼ぎしねえと本採用に至らないだろ?」
「はあ? 何勝手にバイト彼氏やってんだよ。こっちは最初から即戦力募集で正社員採ってんのにさ」
そんな甘い考えじゃ困るんだよ、と厭味な上司を真似て言う幸に愁平は笑う。
愁平の方が少し背が高いので、肩の位置は完全には揃わない。でも歩幅を合わせて、同じ速度で進めば、同じ場所へきっと並んで歩いて行ける。
「おまえ幸せか? 八年も待った相手が俺で」
物好きな上に気が長いよな、と半分呆れて愁平は訊いた。
「幸せに決まってんじゃん。あの水上晃生を袖にして掴んだんだよ? 俺は愁じゃなきゃいやだったんだから」
当たり前のように答える幸に、やっぱり筋金入りの物好きだな、と再認識する。
「……そっか。ならいい! 俺はおまえに全部やる。ちゃんと受け取って、全部持っとけ」
自分を幸に預けることを表明して、愁平は笑った。
たぶんお互いの中に、八年前の愁平の態度や、晃生との情交や、いろんなことが蟠っている。ここまで時間がかかった分、それを解くにも時間がかかるのだろう。
一朝一夕にどうこうするつもりはなく、ここから始めるのだと愁平は思った。
「……末長く、よろしくね」
それは幸にも伝わっていて、薄く笑って幸は握手を求める。
「おう」
その手を愁平は強く握り返して、夜の道を二人で歩いた。
<END>