――俺は、愁を、好きじゃない。
甲斐のない自己暗示は続く。
もう形骸化してただの習慣になりつつあるが、それでも日に一度はそうして想いを沈み込めていないと、何かの拍子に漏れ出してしまいそうで。
一度愁平が他の誰かのものになってしまう恐怖を覚えてから、幸は愁平の周りの人間関係にひどく敏感になってしまった。
会話の中に、バイト先の女子の話題が上るたび。隣のクラスから、去年のクラスメイトが教科書を借りに来るたび。その子が愁平を好きになって、愁平もその気になったらどうしようと。
何もできないくせに、幸は不安でたまらなかった。どうせ本当にそういう事態になったとしても、何もできずに陰で泣くしかできないのに。
前期の中間考査が終わった六月末、帰り支度をする幸の両眼を、背後から大きな手のひらが覆った。
「だーれだ」
その声と、そんなことをするのは一人しか思い当たらず、迷わず「愁」と答えた幸の視界が開けると、上から晃生のいたずらな顔が覗き込んできて本気で驚く。
「俺でした」
「えっ!? 今の声水上!?」
見れば愁平は少し離れたところで腹を抱えて笑っていて、自分としたことが晃生と愁平の声を聞き違える不覚を取ったと知る。
「そいつアホだろー。俺の声マネ、無駄に上手いんだぜ」
「そうなんだぜ。おっすオラ愁平」
「キャラぶれすぎだろ!」
けらけらとふざけ合う二人の姿に、呆れながら幸は少し安心した。
夏希の一件の後も、愁平と晃生が気まずくなる様子はない。幸の前で晒した気落ちを晃生の前ではおくびにも出さない愁平のことを、幸は尊敬すらする思いで見つめる。
帰り支度を終え、テスト最終日の解放感に「終わったー!」と思いきり伸びをした愁平は、満面の笑みで晃生と幸を振り返った。
「なあなあ! 今からユキんちでゲームしねえ? テスト期間中ずっとゲーム断ちしてたから、もう五時間ぐらいぶっ続けでやりまくりたい!」
欲求に忠実な物言いに呆れて、幸と晃生が顔を見合わせて笑う。
「人んちに事前の断りもなく五時間も滞在しようとしてるよね、この人?」
「しかもやりまくりたいって、危険な発言だなー。まさかエロゲーじゃないだろな?」
「アッホか! 俺ぁ至って健全だぞ! 竿と網ぶん回して、詐欺ダヌキと勝負すんだよ!」
「『ぶつ森』かよ……」
「確かに至って健全だね」
全年齢向けのタイトルをやると愁平が言い張って、三人は幸の部屋に集まった。注文した宅配ピザは、試験勉強で二人から世話になりっぱなしだった愁平のおごりだ。
「あ、愁、さっき海にでっかい魚影が」
「まじか! 走っちゃったよ、逃げたかな?」
「うーん、逃げたかも」
愁平と幸が床に座ってゲームに向かい、その後ろでソファに寝転がった晃生が途中で買ったファッション誌を読んでいる。他の誰にも気を遣わない三人の時間は、とても居心地が良くていろんな雑念を忘れそうになった。
一時間ほど経った頃、高いアラーム音が晃生の携帯を震わせる。画面を確認して、晃生は体を起こした。
「やべ、今日バイト入れてたんだった」
「はあ? テスト最終日にかよ」
「最終日だからだろ。おまえに勉強教えなくてもよくなって、時間も空くんだから」
「悪かったな、お時間とらせまして!」
イイエ、と言って晃生はさっさと荷物をまとめて部屋を出て行った。
晃生のバイトはおしゃれカフェの店員で、晃生目当ての女性客が多いという噂だから、店長からは戦力として重宝されているのだろう。かなり頻繁にシフトを入れられている様子だ。
それにしたって今日はバイトは休みだと言っていたはずではなかっただろうか。
ふと幸は、晃生が気を利かせて愁平と二人きりにしてくれたのではないかと思い至った。あのアラームは自作自演なのでは。
急に心拍数が上がる。好きな人と、密室に二人きりという状況。
「ユキ、コーラちょうだい」
けれど全く意識していない愁平は当然ながら通常運行で、今はゲームとコーラにしか関心はないらしい。
「はいよ」
一人で意識過剰になっても空しいだけで、幸はコーラを取りにキッチンへ立った。
その後も愁平は一人でゲームを続け、本当に五時間ほどやって、午後六時を報せる防災無線の音楽が聞こえる頃にようやく伸びをした。
「んー、満足! 腰いてえ」
「まじでやり切ったね」
「有言実行の男だからな」
「なにそれ」
帰り支度をして玄関へ向かう愁平の後を、財布一つ持って幸も追う。
「コンビニ行くから、途中まで俺も行く」
言い訳がましく聞こえていないだろうか。もう少し一緒にいるための口実でしかないのだけれど。
外に出ると、夏至を過ぎたばかりの日差しはまだ強く、けれどそろそろ傾き始めて二人の影を長く伸ばす。
西の空が赤く染まり、夕日を背にして幸は愁平の半歩後ろを歩いた。
「……なあ、ユキ」
振り返らないまま、西日を受けた背中がやけに静かに幸を呼ぶ。
「うん?」
「こないだ俺、自分で思ってたよりへこんでたみたいなんだけどさ」
体育祭のときの話だと気づいて、幸は黙って続きを待った。
「おまえが励ましてくれたおかげで、すぐ立ち直れたよ」
「……そう」
この話の着地点がどのあたりにあるのか、なんとなく幸には見える。
きっとそれは、望む処からは遥か遠く。
「おまえが友達で、ほんとによかったよ。こっぱずかしいこと言うけど、これからもよろしくな」
うん、と頷く声が喉元から離れていかない。
光栄じゃないか。友達として認めてもらえて。これからもそばにいられて。もしかして親友認定? そんな嬉しい話はない。そうだろ。
頷いて、こちらこそって笑って、改まって気色悪いこと言うなよって、茶化してやればいい。さあ。
「……ユキ?」
コンビニはまだ先なのに、幸の足は止まってしまっていた。数歩分の距離が空いて、急に黙り込んで立ち止まった幸を愁平は訝しんでいる。
心の底に、好きを沈めて。
生まれ湧くたびに、息もさせずに沈めて。
際限なくこの先もその作業を続けるだけだと思っていたら、今急に、その容量に限界があることに気づいてしまった。
あふれる。
自己暗示の蓋が落ちる。
「――きなんだ」
「え?」
「俺は、愁が、好きなんだ」
唱えてきた暗示とはまるで正反対の言葉。
言いたくて言えなくて言わないと決めて苦しんで、言えば少しは楽になれるかと思ったのに、くちびるを離れた瞬間、それはひどい後悔を呼んだ。
目の前の愁平の表情に、驚愕の後、苦い困惑が広がる。
「え……え? なに? からかってんのか?」
間違えたのだと気づく。
少しの卑怯な期待があった。誰のことも分け隔てず、幸のありのままを認めてくれた愁平の、その優しさにつけ込めばあるいは、と。
しかしやはり言ってはいけなかったのだ。愁平にこんな顔をさせたかったのではない。
「……ごめん……」
深く、幸は頭を垂れた。けれど渡してしまった言葉はもう肚の中へは戻せない。伝わった響きが真剣すぎて、取り繕うことももうできない。
「冗談じゃねえのかよ……」
できることなら冗談であってほしかったという愁平の願いも、友達でいたいという思いも、どちらも裏切った。
罪悪感で顔を上げられない幸の前に、愁平の白いスニーカーが近づいてくる。
「……正直、意味がよくわからん。俺はおまえを友達としか考えたことねえし」
顔を俯けたまま、幸は小さく頷いた。このままゴメンナサイされて、この先口も利いてもらえない未来しか想像ができない。
けれど困惑しているなりに、愁平は幸に対して配慮を見せた。
「でも、一応その方向もありえなくはないんだってのが今初めてわかったから、ちゃんと考えたい。時間くれ」
その言葉に、幸は嗚咽を噛み殺して強く目を瞑る。
よかった。首の皮一枚つながった。これで絶交じゃなかった。
安堵に、ぽたぽたと、つま先に落ちた涙がアスファルトの色を変える。
「……じゃな」
結局顔を見ることもできないまま、視界から愁平のスニーカーが消える。
ずいぶん離れた頃合いにようやく顔を上げ、幸は愁平の小さくなっていく背中を見送った。
二人で歩いてきた道を、目元を拭って一人で引き返す。睫毛に絡んだ涙に西日が眩しさを増して前がよく見えなくて、先を歩いてくれる人がいないだけでひどく心細い。
関係を変えることを誰も望んでいなかったのに、誰にも望まれない想いを明かしてしまったのは幸。だからこれからの幸にできるのは、せめてこれまでと変わらない態度で、これまでと同じ関係を続けていくことだけだと、このときの幸は思っていた。