結局紺野はそのまま三時間ほど眠り、昼を回った頃に目を覚ました。
「すーげえ汗。気持ちわり……」
先程より随分顔つきもしっかりしている。絞れそうなTシャツを脱ぎ捨てて検温すると、三十七度台まで下がっていた。
「よかった、少しは楽になりました?」
「や、全然違う。解熱剤すげえ。ちょっと今のうちシャワーしてくるわ。汗やばい」
額の冷却シートを剥がしながらTシャツを肩に、紺野はバスルームへ向かう。その間に奏太は枕カバーやシーツを全部剥いで清潔なものに換え、剥いだものを洗濯乾燥機にかけた。この辺りは勝手知ったる紺野の家、だ。
あの様子なら昼食は摂れるだろうかと、買い物袋の中からレトルトのお粥を取り出す。いくつか種類は買ってきたが、いかんせん紺野がお粥を食べるところなど見たことがないから、好みがよくわからない。
器を借りてどれを開封しようかと迷っていたら、脱衣所のドアが開いて風呂上がりの紺野がすっきりした顔で現れた。
「紺野さん。お粥、玉子、梅、鮭、どれがいいですか?」
「んん? じゃあ鮭。それより肉食いてーな」
「お腹びっくりしちゃいますよ」
「そんなもん? あ、布団全部きれいになってる。ありがとなー、助かる」
紺野は頭にタオルを被った濡れ髪のまま、奏太が整えた掛け布団の上にごろんと転がった。
「あ、ほら、髪乾かさないと。また冷えて熱が上がりますよ」
「めんどいー。体だるいー。乾かしてー」
「……もう」
器に鮭粥をあけてレンジにかけて、奏太は洗面台からドライヤーを持ち出す。その辺の空いたテーブルタップから電源をとって、温風を出した。
「ちょっと、ちゃんと座って」
「へーい」
のろのろと体を起こした紺野は、ベッドの端にあぐらをかいて、下を向いて頭を差し出す。座った姿勢がまだつらいのかもしれないと思い、手早く終わらせるべく奏太は紺野の髪に手を伸ばした。
(……あ、意外に柔らかい)
天パの自分の髪質ほどではないが、さわさわと指を通す紺野の髪はしなやかで柔らかかった。そんなことも、自分は知らなかったのだと知る。
いろんなことを、深く知り合うには短すぎた三ヶ月だった。
涙が落ちそうになって、奏太はひとつ強く目を瞑る。
紺野の短い髪はまもなく乾いて、ドライヤーのスイッチを切ると急に部屋が静かになった。レンジの稼働音もしないので、レンジアップ終了の電子音は風音に紛れて聞こえなかったらしい。
「はい、終わりました」
テーブルタップから抜いたコードをまとめていたら、不意にその手を紺野に握られた。さっきよりも熱は低く、力強いその手にドキンと心臓が鳴る。
「……ちょっと、話聞いて」
俯いたままの紺野が低く乞うた。
「お粥……冷めますよ」
我ながら白々しい逃げ口上に、紺野は「いいよ」と首を振る。どうすることもできず、奏太は紺野の隣に腰を下ろした。
「……おまえに謝らないといけないと思ってて」
温風に吹き晒されたままのボサボサの髪の間から、紺野が奏太を見つめる。
「俺となんかつき合う気がなかったおまえの気持ち、俺全然考えてなかったなと思って。俺ばっか好きで、俺ばっか幸せで、それに無理につき合わせて、ごめん」
思ってもみない紺野の謝罪の内容に、驚きのあまり声もなく奏太は目を瞠った。その奏太の表情に、紺野は苦笑を浮かべる。
「よく考えてみたら……おまえ俺に一度も好きだなんて言わなかったもんな」
寂しげな笑みを直視できず、奏太は俯いた。
紺野を好きだと、確かに奏太は言わなかった。無意識に、紺野を縛るかもしれない言葉は避けていた。
そのことが、紺野に奏太から好かれていないと思わせたのかもしれない。悲しませたのだとしたら、申し訳ない。
「……けど、俺はおまえが好きだったよ。今までの彼女からもふられてばっかだったけど、別れてこんなに引きずったこともなかった」
しかし紺野の話は、謝罪のひとつもしようかと考えていた奏太の想定外の方向へ転ぶ。
「もしかして俺って元々女より男の方が好きなタイプだったんじゃないかって、そういうことも初めて考えた。おまえと別れても、女には戻れないなって、思ったよ」
「やめて」
思わぬ方向に話が流れていくのに、慌てて奏太は紺野の言葉を止めた。
紺野が元々ゲイだった? そんな馬鹿な。
「そんなこと考えないでください。俺は……ただ紺野さんに、普通に幸せになってもらいたくて」
「遅い自覚をしたって話だよ。俺はたぶん、この先普通に結婚したりすることはないと思う」
「だから、そんなこと言わないでよ!」
焦燥と、深い後悔に、奏太の涙腺は突然決壊した。
「俺のせいですよね……俺が紺野さんを巻き込んだから。紺野さんはそんなこと考えなくて済んだはずなのに」
「たまたまおまえがきっかけになっただけで、遅かれ早かれだったかもしれないよ」
「ほんとに? ほんとに紺野さんは女より男の方が良くなったの? じゃあ、紺野さんは俺と別れて、別の男とつき合うかもしれないってこと?」
そんなの、
「そんなの……いやだ」
呟いた瞬間、紺野の両手が奏太の両肩を掴む。動揺の中で落とした奏太の本音を、紺野は見逃さなかった。
「なんで?」
強い眼光に正面から射竦められて、紺野が唐突に作った奇妙な会話の流れの意図を知る。
紺野は奏太の口を割らせようとしている。当麻が言った『おためごかし』の裏にある、奏太の本音を。
「俺は……」
言わないと決めていた。紺野を元の場所に送り返すために。
「……紺野さんが好きです」
けれど、彼が元の場所へ戻るのではなく他の男の元へ向かうと言うのなら、引き留めるにはそれを明かすしかなかった。
いったんこぼれてしまった本音には、隠してきた言葉たちが数珠繋ぎになっていて、とどめておけずに奏太は紺野に肩を掴まれたまま項垂れる。
「だけど、紺野さんを好きなことに対する罪悪感がひどくて。当たり前の、普通の幸せをあげることもできない俺が、なんで紺野さんを好きでいていいのか、どうしても自分が許せなくて」
涙はとめどなく溢れて、顎を伝って換えたばかりのシーツを濡らした。
「紺野さんの人生を踏み躙ることでしか幸せになれない俺なんか、消えてしまえばいいと思ったんです」
泣きじゃくる奏太の後ろ頭を、困惑げに紺野は撫でる。
「……そんなこと言われてもなぁ。俺はおまえに人生踏み躙られた覚えもねえし、おまえに消えられたらその方が困るんだけど」
奏太が初めて聞く、途方に暮れた紺野の声だった。
「結婚願望もないし子どもは苦手だし、おまえ以上に誰かを好きになれそうな気もしないし。そんな俺がおまえと別れて、この後の人生幸せだとも思えねえんだけど。そこんとこおまえはどう考える?」
もう俺にはわからん、と思考を放棄して紺野は奏太に問いを放った。
「一緒にいたらお互い幸せで、離れたらつらくて、じゃあどうすればいいかなんて単純な話だと思うんだけど、俺ふられてるし。どーすればいいんですかね……」
こつんと、紺野は奏太の頭に自分の頭をぶつける。奏太がそろりと顔を上げると、至近距離に弱りきった紺野の顔があった。
涙は止まらないまま、奏太は紺野の瞳を覗く。
「十年、二十年したら、俺なんかただのおっさんですよ?」
「……そしたら俺もおまえプラス五歳の立派なおっさんだけどな」
「デブってるかもしれないし、禿げてるかもしれないし。そうなったときに、紺野さんに嫌われてしまうのが怖いです」
「デブって禿げた程度のおまえなんか余裕で愛せるわ。ていうかなんだおまえ、逆に俺がデブって禿げたら俺のこと捨てる気か? 体はともかく、髪は努力じゃいかんともしがたいぞ!?」
「そ、そんなこと、俺はないです」
「俺もねえよ」
呆れたように、疲れたように、紺野は深くため息をつく。
「……不安なのはおまえだけじゃないよ。つき合ってたら、二人の間にあるいい感情も悪い感情も二人のもんだろ。一人で抱えたあげくに、捨てられる前に捨ててやれって発想、ほんとやめてくれ。この先も俺はおまえのこと捨てる気なんかさらさらないのに」
ふと言葉を切って、紺野は声を揺らがせた。
「……一方的に捨てられたらめちゃめちゃ傷つく」
奏太は涙でぼろぼろの目元を服の袖口で拭い、肩を掴む紺野の右手に右手を重ねる。ごめんなさいと、こぼれた謝罪は嗚咽に掠れた。
「紺野さん、俺……いいのかなぁ、紺野さんを好きでいても」
紺野が強く肩を引き寄せ、奏太はその腕に崩れる。
「……やっぱり別れたくない……」
言えないと思っていた気持ちを口にして、諦めるしかないと思っていた紺野へ手を伸ばして。
二度と抱き合えないと思っていた相手の腕の中で、自分が本気でこの腕から離れようとしていたのだという事実に、奏太は初めて戦慄した。
紺野は紺野で、今度こそ自分が説き伏せるのではなく奏太からの本心を引き出そうと、恥も外聞もかなぐり捨てた追い縋りがようやく功を奏して、安堵と脱力感にまだ熱の引かない頭がめまいを起こす。
もうこのままベッドへ倒れ込んでしまいたいけれど、今一度奏太を抱き締めた腕に力を込めて、紺野は「あ~」と低く唸った。
「おまえむちゃくちゃめんどくせえ!」
「えぇえ!?」
紺野の心からの叫びに、奏太は衝撃の声を上げる。
慌ててごめんなさいと何度も繰り返す奏太の耳元に、「でも好き」と小さく囁いて、紺野は触れるだけのキスをした。