週明け、出社した奏太がオフィス内を見回しても、いつも一足早く来ているはずの紺野の姿が見当たらなかった。
珍しいなと思いながら自席へ向かっていると、後ろから大声で電話をしながら、社長がオフィスに入ってきた。何事かと思っていると、社長がガッシと奏太の肩を掴む。
「おまえ、死ぬぞ!」
「!?」
電話口の相手に向かって物騒なことを言う社長に怯えながら、肩を強く掴まれたままの奏太は身動きができない。
「最悪救急車呼べ、一人暮らしの四十度はマジでヤバい。孤独死したくなかったら絶対安静にしとけ。助っ人は送り込むからおとなしくしとけよ!」
怒鳴るように言って通話を切って携帯をしまった社長は、財布から五千円札を取り出して奏太に握らせた。
「というわけだ。かなたん今からすぐに朔の看病に行け」
「え? 今から? 仕事……」
「業務命令! 朔が四十度超えの熱出して寝込んでる。普段熱とか出さないやつが一人でそんな熱出したら、対応わからずに死ぬかもしれない。今朔が死んだら会社が終わる。なので業務命令です」
「いや、誰か他の人でも……」
「朔んちの勝手がわかってて朔が気兼ねしない親しい相手なんて、かなたんしかいないだろ! まさか奥寺なんか送り込むわけにいかないしさぁ! 俺はこのあと取引先と会議だし、な、頼むよ! あいつの熱が下がるまでかなたんも出社しないでよし!」
「は、はぁ……」
今来たばかりの会社を追い返されて、奏太は握らされた五千円札を広げて眺めた。
前に、同じように社長のカンパで紺野が見舞いに来てくれたことがあったな、と思い出す。
あのとき奏太は前彼からの復縁要請と紺野への恋心との狭間で、悩み疲れてボロボロになっていた。そして見舞いに訪れた紺野に押されて、つき合うことになったのだ。
紺野に初めて抱かれたのもあのときだった。あの日紺野を受け入れなければ、もっときちんと拒んでいれば、こんなふうに紺野を巻き込むこともなかった。
紺野に愛されたいと思ってしまった。流された自分の意志薄弱がただ憎い。
(えぇと……何がいるかな)
途中で立ち寄ったドラッグストアで、発熱時の必需品や食料品を買い込んで、紺野の家に向かう。通い慣れたはずの道が、ひどく懐かしく感じられた。
部屋の前で、少し逡巡し、動悸を抑えてインターホンを押す。けれど反応はなく、もしかして、と思ってノブを回した玄関ドアは鍵が開いていた。不用心だなと思いつつ、そんな適当さも紺野らしいと笑みが浮かぶ。
お邪魔します、と小さく声をかけてそっと部屋に上がると、開けっぱなしのドアの向こうの寝室で、紺野が寝息を立てていた。
ベッドサイドに水の入ったペットボトルが置かれているし、額には冷却シートも貼られている。
(ちゃんとしてるな……俺なんかが看病しなくても、紺野さん生活力あるもんね)
あまり来た意味はなかったかも、と思いつつベッド横の床に腰を下ろし、その寝顔を見つめる。きれいな寝顔だ。
閉じられたまぶたを縁取る睫毛は意外と長くて、鼻筋はすっきりと通っていて、薄く開いたくちびるの形も整っている。この人が女性からモテるのを、奏太はよく知っている。
ふと紺野の頬が常になく上気していて、そのくちびるから漏れる息が荒いことに気づく。まだ熱が高いのだろうか。
額は冷却シートが貼られているので、首筋にそっと手の甲を当てて熱を測ると、その熱さに驚いた。これは本当に高熱だ。
すると、そのひんやりとした手にすり寄るように紺野が身じろぎ、うっすらと目を開けた。
「……夢?」
奏太を見上げてぼんやりとそう問う紺野に、奏太は苦笑する。
「夢じゃないです。社長に言われて看病に来ました。まだだいぶ熱が高そうですね」
「ん……」
「水分はとれてますか? あまり高い熱が続くようなら解熱剤を使いましょう。病院は?」
「土曜に……薬もらった……」
「食べられるようなら少し食べて薬飲みましょう。熱測らせてくださいね」
紺野が億劫そうに布団から出した腕を取り、Tシャツの袖口から体温計を差し入れる。ほんの数十秒の予測検温の間、奏太はやたらとどぎまぎした。
(なんか……視線! 痛い!)
至近距離で、紺野が熱に潤んだ瞳をじっと奏太へ向けている。
普段なら紺野の性格上、照れてそんなに長く見つめてくることなどないのだが、朦朧としているからか奏太と目が合っても凝視にまったく遠慮がない。
「……紺野さん、顔に穴が開きそう」
恥ずかしくてそう訴えても、紺野はぼうっと奏太を見つめたままでよくわかっていないようだった。
ピピッと高い電子音が検温完了を知らせ、取り出してみると三十九度八分。社長が言っていた四十度は切っているものの、これではしんどいはずだ。
「紺野さん、やっぱり少し熱下げないとまずいです。少し腹に入れて解熱剤飲みましょう」
買い出しの袋から経口補水液のゼリーパウチを取り出して、蓋を開けて紺野の口元に運ぶ。それを支える手を上げるのも億劫らしく、紺野は奏太の手ずからゼリーを吸い上げた。
ちびちびと飲み下し、半分ほどを飲んだところで一緒に解熱剤も服用する。とりあえずこれで少しは熱が下がるだろうと、安堵して奏太は紺野の肩まで布団を着せかけた。
「じゃあ、これで少し眠ってください。寝て起きたら少しは楽になってると思うので」
布団の肩口をぽんぽんと叩くと、パウチの中身を飲みきらないうちからうとうとしかけていた紺野がはっと目を開けた。
「帰る?」
咄嗟のように、紺野の手が奏太の手首を握る。熱くて、弱い手だった。
「……帰りません。社長から、紺野さんの熱が下がるまで出社しないでいいと言われてます」
「そっか……あいつ使えるな……」
弱っていても紺野は紺野で、社長に対する物言いが相変わらず過ぎて奏太は思わず笑ってしまった。
「ほんと、どっちが立場上ですか」
クスクス笑っている奏太の手首を掴んだまま、ほんのり笑って紺野も見上げる。やっぱりその視線は、いつもより無遠慮だ。
「……何か、リクエストありますか?」
「ん……?」
「ほしいもの、買ってきてほしいもの、してほしいこと」
できることだったら何でも、と微笑む奏太に、紺野はふと思案げに眉を寄せる。
「!」
そしておもむろに手首を強く引かれ、バランスを崩した奏太は紺野の上に抱きつくようにして倒れ込んでしまった。
「わ、すいません、重く――」
なかったですか、と慌てて起き上がろうとした背中を、強く腕で抑えられた。
抱き締められていた。
「別れないで」
耳元で、掠れた声が懇願する。
「……俺とつき合って」
それが奏太へのリクエストなのだと、気づいて奏太は目を見開いた。
とたん、奏太の心臓がずきずきと鼓動を早めた。ドッドッと、抱き締めている紺野に響きそうな勢いで早鐘を打つ。
(どう……しよう……)
早く紺野の上から退かなければと思う一方で、どんな顔を向ければ良いのかが見当もつかない。
顔を上げられないまま逡巡していたら、不意に背中に回された紺野の腕が離れた。
「紺……」
そろりと紺野の上から起き上がると、紺野は手で目元を覆っていた。
「……悪い。冗談だ」
そう言って奏太に表情を見せないまま、紺野は寝返りをうって壁側を向いてしまう。しばらく沈黙が続いて、やがて紺野のやや苦しげな呼吸音が安らかな寝息に変わった。
――別れないで。俺とつき合って。
弱々しく自信なさげな懇願は、まるで紺野らしくなかった。熱に浮かされて、心にもないことを言ってしまったのかもしれない。紺野自身が冗談だと言ったように。
けれど、はっきりしない意識の中でぽろりとこぼれたそれが本音だったのだとしたら。
どんな言葉を返せるのだろう。自分が紺野の元から去ることが、紺野の幸せに通じると信じていたのに。