秋の夜長の迷い道 -10-


「今日は週末デートはしないんですか?」
 紺野が先に帰ったオフィスで、帰り支度をしながら当麻に問われ、奏太はふふっと笑みを浮かべた。
「もうしないよ」
「……?」
「ごめん、当麻にもまだ言ってなかったな。実は別れたんだよ、俺たち」
「……はぁ!?」
 いつもしらっとした顔をしている当麻が上げた素っ頓狂な悲鳴に、オフィスに残っていた同僚たちが一斉にこちらを向く。
 その注目から逃げるように、当麻は手近なファイルで顔と口元を隠して奏太に頭を寄せた。
「いつ!?」
「先週の金曜」
「ラブラブで一緒に帰ってったじゃないですか!」
「うーん、あの時点では俺も別れ話することになるとは思ってなかったからなぁ」
「何がどうしてそんな拗れたんですか!? っていうか場所変えましょうよ、飯食いに行きましょう!」
「いいけどー。俺禁酒中だから」
「誰も柚木さんになんか飲ませたくないですよ!」
 早く話を聞かねばと急く当麻に追いたてられて、奏太は会社を出る。
 最寄り駅とは逆方向に歩き、路地を少し入ったところにある隠れ家的な創作料理店に、当麻は奏太を誘った。
 店内は照明が絞られていて、それぞれの席が互いに見えないよう、背の高い観葉植物や薄いリネンで仕切られている。その中でも一番奥の席に当麻は座った。
「密談にはもってこいの店……」
「でしょう。酒もあるんですけど、料理も美味しいんですよ。苦手なものとかなければ、適当におすすめ頼んじゃいますけど、どうですか?」
「うん、じゃあそれで」
 奏太の承諾を受けて、当麻は店員にすらすらと料理を注文する。そして店員が去ったとたん、ぐっと奏太との距離を詰めてきた。
「で! 別れたって、何があったんです? 二人仲良かったし、紺野さん絶対柚木さんのこと好きでしょ。別れる理由がわかんないし、今週ずっと柚木さんご機嫌だったじゃないですか!」
「うわぁ……圧。圧がさぁ……」
 イケメンの顔圧に気圧されて、引き気味に奏太は首を掻く。
「……俺としては、善行のつもりだったんだ」
 ぽつりと、奏太は今週の晴れ晴れとした態度の理由を微笑んで語った。
「やっと紺野さんを放してあげられた。事故みたいなきっかけで、なんか俺への責任感じちゃってたみたいだけど。元いたところで、普通に幸せになれる人じゃん、あの人は。いつかは戻してあげなきゃって思ってたし、それなら早い方がいいんだから、別れて大正解だと思ってるんだよ。よくやった、お手柄だって、俺は自分を誉めてやりたいね。けどさ……なのにさ」
 机上のおしぼりを、強く奏太の手が握る。
「……なんでか紺野さんはつらそうで。そのつらそうな顔が、嬉しいんだ俺。なんかこんなの、最低じゃない?」
 眉を寄せる奏太のその手を、バチンと叩くように当麻が握った。
「そんなの、紺野さんが柚木さんを好きで、柚木さんが紺野さんを好きだからじゃないですか! なんでそれなのに別れなきゃいけないんですか? そんなにノンケかゲイかって重要なことですか?」
 当麻が奏太に改心を促して説得の声を上げたところで、店員が料理を運んできた。大学生くらいのアルバイトらしき女の子だったが、テーブルの上で手に手を重ねて何やら言い合いをしている男二人を前に、皿を並べながら怪訝そうな表情をしている。
 会釈をしながらテーブルを離れていったその顔をちらりと見上げて、苦笑しながら奏太は重ねられた手を抜いた。
「重要なことでしょ。あんな目で見られなきゃいけない人生か、そうじゃないかを選べるんだから。選べない俺たちとは訳が違う」
「柚木さん……」
「紺野さんには、真っ当に幸せになってほしいんだ」
 困り果てたように当麻は脱力し、両手を自分の膝に落とす。
 しばしその手を見つめ、ぎゅっと握り固めると、意を決して顔を上げた。
「……柚木さんが紺野さんを好きなのはわかってるから、僕は柚木さんを応援したいと思ってます。それは今もそう思ってます」
「……うん?」
「でも、柚木さんが紺野さんと幸せなら言わないでいようと思ってきたことがあります。この先も一生言わずじまいになるかもしれないと思っていたことです。柚木さんがどうしてもゲイとじゃなきゃ恋愛できないって思ってるなら、言わせてください」
「……」
「柚木さん、僕は柚木さんが好きです。僕じゃだめですか」
「だめだよ」
 けっこうな覚悟をもって伝えた想いだったのに、間髪入れずお断りの返事をされて、当麻はコントのようにこけそうになった。
「えぇ~、柚木さぁん……」
 思わず情けない声を上げた当麻だったが、当麻へ微笑む奏太は、その表情にからかいやおふざけの色を一切混ぜてはいない。
「俺に、当麻がだめだって言ってるんじゃないよ。当麻には俺じゃだめだって言ってんの」
 言われた言葉が、耳には入るのだけど、当麻にはまるで理解できなかった。
「……意味がわかりません」
 ひどく腹立たしくて、急に沸き上がった怒りに当麻の声が固く尖る。
 何か当麻の癇に障ったらしいことは察したが、奏太は宥めるように邪気のない笑みを浮かべた。
「だって、俺と一緒にいたって当麻は幸せになれないよ。俺、たぶんほんとに恋愛向いてないんだ。だからもうやめとく。紺野さんとの時間が幸せすぎたから、もうその記憶で生きていける気がする」
 のほほんとそんなことを言う奏太へ、当麻は静かに怒りを滾らせた。
 ゲイでない紺野を受け入れることができなくて別れたのかと思えば、ゲイである当麻の気持ちも受け入れないと言う。紺野との幸せを自ら放棄しておきながら、その記憶で生きていくと言う。
 自分に自信がないふりをして、どれだけこの人は周りを蔑ろにすれば気が済むんだろう。
 自分じゃだめだ、自分では幸せにできないと、自虐して貶めて、自己防衛のために他人の気持ちも軽んじる。そうやって紺野のことも当麻のことも切り捨てるのだ。
 謙虚そうに見せかけて、なんて傲慢な。
「俺に柚木さんでだめかどうかを決めるのは、柚木さんじゃない。あなた紺野さんに対しても同じように、自分じゃだめだって思い込んで一方的に紺野さんを捨てたんでしょう」
「……捨てた? 俺が!?」
「そうじゃないですか。僕の元彼と紺野さんは全然違う。紺野さんはずっと柚木さんだけを見てるのに、柚木さんは紺野さんの気持ちを無視して自分が楽になりたいからって切り捨てただけじゃないですか。紺野さんの将来とか幸せとか、そんなおためごかしで結局今の紺野さんを傷つけてるんですよ!」
 公共の場で声を荒らげてしまいそうで、当麻は息をついて膝の上で拳を固めた。
「……僕は柚木さんが好きだし、紺野さんとうまくいかないならあわよくばと思っていたのも事実です。でも……柚木さんと紺野さんに幸せでいてほしいと思っていたのも本当なんです。だから柚木さんが勝手に紺野さんには自分じゃだめだなんて考えて別れたなら、紺野さんが不憫すぎる……何が自分を誉めてやりたいだよ、残酷すぎるだろ……」
「当麻……」
 困惑した奏太の声に、当麻は我に返った。
 奏太が紺野と別れた隙を見澄まして告白したのは自分なのに、奏太を責めるのは矛盾も甚だしい。
「……ごめん」
「いえ……ふられたからって八つ当たりしてるみたいですよね。僕の方こそすみません。ちょっと頭冷やします」
 反省を態度で示すように、言葉通り当麻は冷水のグラスを額にくっつけた。
「食べましょう。腹減りました」
 小首を傾げて笑う当麻に促されて、奏太は箸を取る。
 口にした料理は確かに美味しかったのに、なんだか胃がちっとも歓迎していないような気がした。

 帰宅すると、携帯の通知ランプが点滅していて、ケイからのメッセージが来ていた。
『さっき偶然奏太さんとこの社長さんと紺野さんに会って、話は聞きました』
『紺野さん側の言い分しか聞いてないから、一概にどうこう言えないとは思うけど』
『奏太さんが本当に紺野さんのことを考えられているのか、とても疑問に思います』
『今度ちゃんと時間とって話そう』
 理性的な文面だけれど、こうやって直接電話をしてこないで敬語のメッセージを送ってくるのは、ケイがガチ切れしているときだ。
 『了解』とだけ返して、携帯を放り投げてベッドに倒れ込む。
(間違ってるのかな、俺)
 紺野には普通に幸せになってほしい。だから奏太は紺野と別れた。
 因果のはっきりしたシンプルな話のはずなのに、メデタシメデタシで終わらないのはどうしてだろう。
 ――俺に柚木さんでだめかどうかを決めるのは、柚木さんじゃない。
 ――紺野さんの将来とか幸せとか、そんなおためごかしで結局今の紺野さんを傷つけてるんですよ!
 当麻の言葉が頭の中でぐるぐるしている。じゃあどうすれば良かったのか。
(もう、わかんないや……)
 何が間違っているのかもわからない問いは突きつけられるだけで苦しくて、奏太はきつく目を瞑った。