――別れて。忘れて……。
奏太にそう懇願されて、わかった、としか言えなかった自分は何だったのだろうと、紺野は考えていた。
土下座みたいに床に伏せた奏太の姿で思い出すのは、夏の終わりの歓迎会の翌朝、紺野と一夜の過ちを犯したと思い込んだ奏太が紺野に謝罪した時のことだ。
――昨夜のことは忘れてください。なかったことにしてください!
奏太はそう言ったのだ。
あのときの奏太の望む通りにしていれば、二人の間には何もないまま、つき合うこともなかった。
そもそも最初から奏太は、ノンケとつき合うことを望んでいなかった。
(……俺の身勝手で引き留めて、結局苦しませただけだったのか)
本音もつらさも、紺野には何一つ言えないで。
消えたいとまで思い詰めさせて。
幸せにしてやりたいと思っていたのに、できなかった。
この先できるようになるとも、もう紺野には思えない。
これ以上奏太を苦しめないためには、奏太の願いを受け入れることしかできなかった。
――わかんなくていいし、わかろうとしなくていいんだよ。
温度のない声が耳に返る。
ずっとそんなふうに思っていたのだろうか。紺野が奏太を理解したいと、奏太を想っていたその横で、奏太は自身と紺野との間に線を引いて隔てて、わかり合えるわけがないと思っていたのだろうか。
好きな人に近づきたいという努力は、最初から無駄だったのだろうか。
好きだったのは、自分だけだったのだろうか。
(……これは……かなりこたえるな)
胃の上あたりが疼いて、強く拳を押し当てる。
奏太と別れて一週間が経った。
メンタルな要因で体調に異変を来すことが滅多にない紺野が珍しく食欲の低下を感じている一方で、奏太はとても元気そうだ。
出社時には紺野を含めた同僚たちに朗らかに挨拶をし、仕事も意欲的に取り組んでいる。時折前の席からは当麻と談笑する声も聞こえてきて、ペアの仕事も順調なのだろう。
空元気かとも思ったが、顔色も良いし、いつぞやのように見る間に肉が削げていく様子もない。
憑き物が落ちたような、明るい奏太の姿が今の紺野には痛い。
(要するに憑き物は俺だったのか)
自分と別れてこれほど清々と過ごすことができるなら、大いに結構なことじゃないか。元恋人の幸せを願うくらいの度量はあるぞこんちくしょう。
今週ずっと止まらないため息を吐いたところでふと隣から視線を感じて見やると、奥寺が半眼で紺野を見つめていた。
「辛気くさ」
片側の口角だけを上げてぼそっと言う奥寺に、イラッとして紺野は身を乗り出した。
「うるせえな。落ち込むくらい自由にさせろ」
「失恋ごときで落ち込むようなキャラです?」
「ごときって、おまえが言うな! っとに口が悪い女だな俺にだけ! 開き直りやがって」
「そっくりそのままお返しいたします」
ひそひそと言い合う二人は傍目から非常に仲睦まじくも見えるが、もちろんつき合ってはいない。
奥寺が自身のことを、他者を愛せない人間だと告白してきたのは、紺野が奏太と別れる少し前のことだった。
「紺野さんは『アセクシャル』というのをご存知ですか」
紺野と同じ打ち合わせに同席していた奥寺は、会議室に紺野と二人きりになったタイミングでそう切り出した。
「Aセク、とか呼んだりもするそうですが」
「? なんか聞いたことはあるな。異性にも同性にも恋愛感情持たない人のことだっけ」
唐突にそんな話を始めた奥寺を不審に思いながら、彼女と十分な距離をとって、紺野は打ち合わせの資料を片付ける。
「そうです。恐らく私は、そのアセクシャルの人間です」
「……恐らく?」
「はい。アセクシャルを自認していても、先々も絶対に恋愛感情を持つことがないかというと、そういうものでもないそうです。アセクシャルでなくなる可能性はありますが、今のところ私は自分をそういうカテゴリに属する人間だと思っています」
「……はあ。そうですか」
「なので正直、辟易していまして」
そう言うと奥寺は、普段は愛想の良い顔を、露骨に不機嫌そうに歪めた。
「こうして紺野さんと会議室に二人きりという状況も、たぶん今頃誰かの噂の種になっているでしょう。仕事の話をしているだけなのに、仲いいねとか、実際のところどうなのとか、もう本当に心の底から鬱陶しいんです」
「お、おう……どうしたいきなり」
どちらかといえばおしとやかなタイプかと思っていた奥寺が急にヒートアップしたのに気圧されて、乗ってやるべきか宥めるべきか迷った紺野は狼狽えた。
その紺野を、奥寺はじろりと睨みつける。
「紺野さんも困ってるんじゃないんですか? ちゃんと柚木さんフォローしてあげてます?」
「っ!? ……待て待て待て。なんでここで柚木が出てくる?」
「当麻くんに聞きましたよ。お二人は恋人同士だと思うから、あんまり紺野さんとの仲を誤解されるようなことはしない方がいいって。それもまた腹が立つんですけどね、私誤解されるようなことした覚えないですし!」
「……当麻か……」
当麻がそんなふうに陰で二人をバックアップしてくれているとは知らなかった。
奏太を取られるような気がして、つい当麻を目の敵にしてしまっていた紺野は、己の短慮を反省する。
だいたい先日の飲み会の時だって、当麻の機転で奏太は何事もなく紺野の元へ帰ってきたのだ。感謝こそすれ、敵視する筋合いではない。
それなのに奏太と当麻を穿って見てしまうのは、紺野に自信がないからだ。
本当は、奏太には自分ではダメなんじゃないかと。
胸を占めるその思いを振り払うように、紺野は額に拳をぶつけた。
「……俺が、ちゃんとフォローしないとな」
奥寺の前で、そう自分にも言い聞かせてみせたのに、結局奥寺には奏太との破局を報告することになってしまった。
そして破局の報告を受けた奥寺は、迷惑そうな態度を隠さなかった。
「いや、それ私に相談されましても」
色恋沙汰は本当にさっぱりわかりませんので、この度は誠にご愁傷さまです。
そんなふうに全く取り合わなかった奥寺のリアクションに、ある意味紺野は救われていた。下手に慰められても却って紺野は立ち直れない。
「……落ちるだけ落ちたらそのうち浮上するから、しばらくほっといてくれ」
失恋で落ち込むなど柄ではないと言う奥寺に、紺野はそう言って背中を向けた。
奏太とつき合っていた間は通わなくなっていた金曜のジムに紺野が顔を出すと、出くわした馴染みの顔があった。
「あれー? 朔、久しぶりー」
月会員で通い放題の紺野とは違い、週末会員として週末だけ同じジムに通っている社長だ。
「久しぶりって。会社で毎日会ってるだろ」
「ここで会うのは久しぶりじゃん。金曜に来るの、何ヵ月ぶりよ?」
「……三ヶ月、弱くらいか」
「てことは、三ヶ月弱でかなたんと破局?」
「んー。……て、当たり前のように知ってるな。お見通しなんだろうとは思ってたけど」
「まあ、見てればねぇ」
ふふんと得意げに笑った社長は、ルームランナーの上を走りながら、ふと不思議そうに首を傾げた。
「あれ? でもかなたん最近普通じゃね? てかむしろ元気じゃね? あの子、そんな事態になったらめちゃめちゃ落ち込んでげっそりしそうなのに」
やっぱり他者の目にもそう見えるのかと、紺野はまた落胆を深める。
「……そりゃまあ、俺がふられたんだもん」
「えー!? おまえ何やったの!?」
「何もしたつもりないからへこんでる」
「えー!? おまえかなたんにふられてへこんでんの!?」
「うるせえな! 気軽に抉ってくんな!」
「えー!? マジで引きずってんじゃん! やべえ、超楽しいんだけど何これ」
「あんたいっぺん死ねよ」
横から紺野がルームランナーの速度設定をガンガン上げると、社長は慌てて「無理無理ごめんごめんごめん」と謝りながら紺野の手を制止した。
速度設定を元に戻し、ゆったりと走りながら社長はまたうーんと首を巡らせる。
「……おまえがかなたんにふられる要素あったかなぁ? おまえはかなたんのこと大事にしてたし、かなたんもおまえのことは信頼してたろ? 奥寺や当麻のことは、外野が何言っても二人なら大丈夫だろうと踏んでたんだけど、まずかった?」
紺野も社長の隣のエアロバイクに跨がって、同じく首を傾げた。
「んー……まずくなかったこともないけど、それが直接の原因じゃない気がするんだよな。やっぱ俺が、あいつに対してどっか足りてなかったんだと思うんだ。どうしてやればいいかわかんないで、結局あいつを追い詰めちまってたってのが、ふられた理由なんだろうな。情けねえ」
自嘲して俯いて、紺野は目を伏せる。
「……もし、俺のせいで柚木が会社辞めるとか言い出したら、全力で引き留めてやって。今あいつに抜けられたら、戦力的に痛いし。たぶんまだ当麻も一人じゃ困る」
頼まれた社長は、思案げな顔を作って顎をつまんだ。
「そりゃ引き留めるけどー。どうやったら思い止まってくれるかね?」
「給料三倍くらいにしてやりゃいいんじゃないか」
「三倍!? うーん、三倍か~。三倍な~」
俺より多いんじゃねえのそれ、と唸った社長に、やっと紺野は笑えた。
そのあとは二人で競うようにバイクを漕ぎ、筋トレをして、風呂も済ませてジムを出る。
ジムから程近い紺野の部屋で久々に飲もうか、などと話していたら、道の向こうから見知った顔が近づいてきた。
「あれ? 紺野さんじゃん。ご無沙汰ー」
相変わらずの美女っぷりでキラキラと笑いながら手を振るのは、奏太の親友兼保護者役で男の娘の、ケイこと川本圭一郎だ。
「おい! 誰だよその美人!? 紹介しろ!」
ひそひそと浮き足立つ社長の様子に気をよくしたのか、ケイは「どうもー、はじめましてケイでーす」などと、女声でしなを作っている。
ケイと社長の間に挟まれて、紺野は心の底から今すぐここから消えたいと思った。
「今日は奏太さんと一緒じゃないの?」
無邪気に問うてくるケイは、まだ事情を知らないらしい。うまく言い逃れられれば、と考えた紺野が誤魔化そうとした寸前、
「コイツかなたんにふられちゃって傷心なんだよー」
と、ケイを二人の事情に通じた者と踏んだ社長が余計な口を挟んで空気を凍らせた。
「へぇ~、そうなんだー……」
社長に笑顔を向けたままストップモーションしたケイが、黒目だけ紺野へ巡らせる。
「……説明、してもらえるよね?」
ドスの効いた男声は健在で、当惑して固まった社長の横で、怯えた紺野はふるふると頷くしかなかった。