金曜、定時を過ぎて帰り支度をしていた奏太の肩を、ぽんと紺野が叩いた。
「もう上がり?」
いつもと変わらない調子で問われて、奏太もいつものように笑みを浮かべたつもりだった。
「はい」
返事をして、そんなふうに会話を交わすのがひどく久しぶりな気がして奏太は惑う。
席が隣だった頃は、毎日仕事で十分すぎるほど会話していたので、わざわざ平日にメッセージを送り合う習慣もなかった。つき合いはじめの熱が高い時期ですら、特におやすみの挨拶も交わしていなかった二人だ。
その感覚は席を替わってからも変化しておらず、相変わらず二人のトークルームにやり取りは多くない。
それでも普段の会話の減少を補うために、意識的に昼休みを一緒に過ごすようにしたりしていたのだけど、今週はその時間も一度も取れなかったのだということをはたと思い出す。
紺野は仕事が立て込んでいて、ほぼ毎日プロジェクトメンバーとランチミーティングをしていた。
つまり、奥寺と一緒にいた。
「俺も今日はもう少しで上がるから、飯でも食って帰ろうぜ」
こうして二人の時間を持つのは先週の金曜――当麻と飲んだ夜以来だ。
ちらと隣の席を見やると、こちらを見上げていた当麻と目が合った。当麻はにこっと笑って、内緒話をするように口元に手をやる。
「いいですね、週末デート」
こっそりと小さく囃した当麻に、奏太は眉を下げて笑い返した。
紺野の片付けを待って、並んで会社を出ると、まだ十九時にもなっていないのに、暗い夜空にぽっかりと月が浮かんでいた。
つき合い始めた夏の終わりはまだこの時間は明るかったと思うのだけど、十一月に入って晩秋の日は随分と短くなった。
いつの間にか時間は過ぎている。
「何食いたい? 飲む?」
希望を聞いてくれる紺野に、苦笑して奏太は首を振った。
「禁酒してるんで」
「……はは。本気だったのか。ソレ俺もつき合った方がいいやつ?」
「ううん。紺野さんは遠慮しないで飲んでください。そういえば俺、紺野さんが飲んで乱れてるとこ見たことないです」
「若い頃、ワイン一本と日本酒半升空けてつぶれたことがあるな。自分の限界を知っておくのは必要なことだ、うん」
「ただの無茶じゃないですか」
他愛もない会話だけれど、やっぱり紺野と話していると楽しい。他の誰と話すのとも違う、気持ちの安らぎを感じる。
好きだな、と奏太は思った。紺野の目を細めた横顔も、低い声も、匂いも仕草も、全部好きだ。
大好きだ。
「最近、仕事はどうだ? 順調?」
中華が食べたい、と奏太がリクエストして入った中華料理店で、向かいに座った紺野が問う。
「はい、一応。当麻にだいぶ助けられてます。やっぱり専任で何年も経験があると違いますね。俺よりスキルあるから頼っちゃってます」
「そっか。なら心強いな」
ふ、と笑う紺野の表情に寂しさが滲んで、奏太は少し驚いた。
「……ま、何か困ったことがあれば、俺も相談には乗るから」
紺野と一緒の仕事がなくなって心もとなさを感じている自分と同様に、紺野も子離れの寂しさのようなものを感じたりしているのだろうか。
そうだったらいい。
「本当は……また紺野さんとのペアの仕事に戻りたいです」
ぽろりと、泣き言のような本音がこぼれてしまう。
「……仕事だからな」
仕方がないと、紺野はため息をつく。同じ気持ちを共有してくれたようで、奏太は嬉しかった。
夕食を終え、店から近い奏太の部屋へ移動する。道すがら、店では和やかに会話を交わしていた紺野が、なぜかだんだん口数を減らしていく。
言いようのない心細さの中、ほとんど無言で上がった奏太の部屋で、紺野は不意に奏太を強く抱き締めた。
「紺……」
「なあ、俺おまえのこと不安にさせてる?」
出し抜けに問われて、紺野の表情も見えずに奏太は戸惑う。同時に、軽く混乱していた。
この背を、抱き返しても良いのだっただろうか。
「奥寺のこと……おまえ一言も聞いてこないけど。外野がいろいろ言ってんの、おまえも聞こえてないわけじゃないんだろ? 何も気にしてねえの?」
「……」
気にしていないわけがない。だけど、そんなことを紺野に言ったところで、困らせるだけだ。
棒立ちのまま俯いた奏太の沈黙に気持ちを察して、紺野は奏太を胸から離して瞳を覗いた。
「おまえが不安なら、俺はおまえとのこと、公表してもいいと思ってる」
「……え?」
「外野が憶測で騒いだりしないように。奥寺だけじゃなくて、会社の他のやつにも、俺は柚木とつき合ってるって言ってもいい。ただ、それはそれで別のノイズが増えるかもしれないから、おまえがどうしたいかを聞きたい」
奏太の両肩を掴んで両目を見据えてくる紺野の表情は真剣で、奏太は本気で紺野が自分との関係を公にしてもいいと思っているのだと知った。
そのことは、単純に嬉しかった。それだけ紺野は真剣に考えてくれているのだ。
でも、そんなことはさせられない。今はちょっと脱線しているけれど、元のレールに戻るすべがあるのだから、わざわざ退路を絶ってしまう必要はない。
奏太は俯いて小さく首を横に振った。
「……だめですよ。紺野さんはゲイなわけでもないのに。可能性を摘むようなこと、軽々しく言わない方がいいです」
諭す言葉に、奏太の肩を掴む手にぐっと力がこもった。
「可能性……?」
怪訝な声にはっと奏太は顔を上げる。出会った瞳は、怒りを湛えていた。
「何のだよ。誰の可能性だよ。俺が? おまえ以外の誰かと? 女とつき合うための可能性か? そんなもん、おまえにとっちゃなくたっていいだろうが!」
苛立って紺野は奏太を突き放す。
「俺がっ……どうすればおまえとずっと一緒にいられるかを考えてるときに、おまえは……! おまえが何考えてんだか、俺もう全然わかんねえよ……」
頭を抱え、壁に背をつけてズルズルとしゃがみこんでしまった紺野を前に、奏太は、もうだめだと思った。
奏太とつき合うことで、紺野が消耗している。こんなこと、奏太は少しも望んでいない。
「わかんなくていいよ」
感情のない言葉がこぼれ出た。それに、紺野が顔を上げる。
「わかんなくていいし、わかろうとしなくていいんだよ。紺野さんが俺を好きでいたって、何もいいことないんだから」
害悪でしかなくて、紺野の重荷にしかなれなくて、傍にいるのが申し訳ない。
「……は? なに……」
「紺野さん、ごめんなさい。俺もう消えたい。消えたい」
口元を笑いの形に歪めて呟いて、奏太は膝から崩れた。そのまま額を床に打ち付けてうずくまり、そして、懇願した。
「別れて。忘れて……」
「――……」
床に座り込んだまま言葉を失った紺野は、突っ伏して動かない奏太を長いこと見つめていた。
沈黙が痛くて身が切れそうだ。
紺野はどんな表情をしているのだろう。怒っているだろうか。軽蔑しているだろうか。それとも悲しんでくれているだろうか。
怖くて顔を上げられない。けれど不思議と、別れを口にしたことへの後悔はなかった。
「……うん……わかった」
そして、何も問わずに受け入れた紺野の返事に、安堵してもいた。
うずくまったままの奏太の前で、紺野が立ち上がる気配がする。
「無理させて悪かった。けど……おまえの力になりたいと思ってるのは、ただの同僚に戻っても変わらないから。仕事で困ったことがあれば、それは遠慮なく頼ってほしい」
最後まで優しい紺野がかけてくれる言葉にも、奏太は反応できなかった。相槌の一つでも打とうものなら、声を上げて泣き出してしまいそうで。
小さく床が軋み、紺野の足音が離れていく。静かに扉が開閉され、紺野は部屋を出ていった。
しんと静まり返った一人の部屋で、呆けたように奏太は体を起こす。
これで良かった。言えて良かった。
束の間の回り道を、早く紺野が忘れてくれるといい。