秋の夜長の迷い道 -07-


「え、産休?」
 休憩所で一緒になった営業の女性社員の話に、奏太は目を丸くした。
「そうなのよ。安定期に入ったから課長に報告して、部署内にもお知らせしたとこ」
 今朝営業の朝礼で拍手が起こっていたのはそういうことだったのか、と奏太は納得した。
 しかしだ。彼女は奏太より一回りほど年上ではなかったか。
「あの、でも江本さん、旦那さんとDINKSで行くって決めて、バリバリ仕事してくんだって言われてませんでした?」
 さすがに女性の歳のことを話題にはできず、奏太は以前本人から聞いたライフプランを持ち出した。
「そのつもりだったんだけどねー。旦那の方針が変わっちゃってさぁ」
「方針?」
「四十過ぎて、急に子どもがほしくなったんだって。周りに影響されたのもあるだろうけど、男の本能らしいよ。そのくらいの歳になると自分の血を残したいとか思うようになるんだって。タイムリミット迫ってから慌てるなよって話よね、あたしもう三十七よ、ハイリスク妊婦よ。どうせ産むならあたしももっと若いうちに産みたかったわー」
 江本の愚痴に、当麻の話が重なった。子連れを羨むアラフォー彼氏の件だ。
 二十代半ばの奏太にはまだ感覚がわからないが、男の本能だというならそういうものなのだろうか。
「かなたんも若いうちから、ちゃんっと先々のことまで考えといた方がいいわよ。命かけるのは奥さんだからね」
 そう言って江本は、億劫そうに立ち上がってオフィスへ戻っていった。
 四十近くなると、男は。
 へえ、と思いながら奏太は紺野の歳を数えてみる。今三十のはずだから、あと十年ほどの話だ。
 十年続いたとして、奏太は三十五。若さもなくなって、可愛いげみたいなものも失せて、結婚も出産もできない自分が紺野の隣にどんな顔をして居座っているんだろう。
(……あ、無理だ)
 すこんと、足元が抜けた感覚だった。
 価値が。
 何も見えない。十年後の自分に。紺野がつき合い続けてくれるだけの価値が。
(恥ずかしい……)
 どうしてこんな自分が紺野を好きだなんて言えるんだろう。どうして傍にいられるんだろう。図々しい。恥ずかしい。
「……ん。……ぎくん。柚木くん!」
 間近で呼び掛ける声に、自己嫌悪の沼に首まで浸かっていた奏太は我に返った。
 はっと振り仰ぐと、目の前に経理の女性社員が立っていた。
「あ……里中さん」
「ごめんなさい、休憩中に。江本さんとの話が終わったみたいだったから……今ちょっとだけいい?」
「すみません、ボーッとしてました。大丈夫ですよ」
 愛想よく返して先程江本が座っていた席を示すと、里中はそこに腰を下ろしながら、持っていた数枚のA4用紙を渡してきた。
「あの……こんなの柚木くんにしかお願いできなくて。簡単にでいいの。間違ってないか、見てほしくて」
 細かい手書き文字で大量の書き込みがされたそれは、以前紺野が書いた千行ほどのプログラムコードをプリントアウトしたものだった。
 元のコードに適宜記載されたコメントの他にびっしりと書き込まれた手書き文字はどうやら里中のものらしく、コード内で何をやっているのかを一ステップずつ解説したもののようだった。
『ネットワーク接続文字列を変数に取得』
『try:変数を使ってネットワークドライブに接続』
『catch:接続できなかったら、例外コードを表示して終了』
 丁寧に、この調子で最初から最後まで解説は書き込まれていて、奏太は驚いた。
 経理部門の里中は、開発は全くの畑違いで、プログラミングの知識はないと言っていたはずだ。自分で勉強して、ここまで読んで理解して書けるようになったのだろうか。
「すごいですね里中さん。細かい用語は置いといて、ざっと見た限り合ってますよ」
 まさか転属の希望でもあるのだろうかと里中を見やると、彼女は目元を赤く染めて口元を押さえていた。
「ほんとですか……」
 感極まった声。泣き出すんじゃないかと思うような高揚の訳に、奏太ははたと思い当たった。
 いつかの飲み会で聞いた覚えがある。紺野に思いを寄せているという経理の女性とは里中のことではなかったか。
「里中さん……紺野さんのために?」
 茫然と問うと、里中は少しばつの悪そうな様子で額を押さえる。
「……紺野さんが、柚木くん並みに紺野さんの書いたコードを読める人じゃないと無理だって言ってたことを、真に受けたわけじゃないの。もちろん柚木くん並みに読めるようになったとも思ってない。でも、何もせずには諦められなかったの」
 気恥ずかしそうに、里中ははにかんだ。
「楽しかった。難しいけど、新しいことを勉強するって楽しいのね。自分一人じゃプログラミングの勉強しようなんて思わなかったと思うから、きっかけをくれただけでももう紺野さんには感謝してる。望みもないのにいつまでも引きずるのはもうやめようと思って」
 涙の浮いた目を細めて、里中は笑う。
「奥寺さんが来て、潮時だってわかったの」
 里中の笑みを、奏太は直視できなかった。
 どうして自分よりよほど紺野に相応しい彼女が、潮時を口にして諦めようとしているのか。
 それなら、俺の方こそ。
 休憩が終わる時間になって、里中は自席に戻っていった。奏太も席に戻らねばと思いながら、全身の血が足元に凝っているようで立ち上がれない。
(……いやだなあ)
 俯いて、見つめた手のひらを何度も握っては閉じる。
 自分からこの手を離すのは、いやだなと、思う。
 だけどこのまま引き延ばして、何かいいことがあるだろうか。紺野の時間を無駄に浪費させて、遠回りをさせて、得られるはずの将来を台無しにしている。
 自分は紺野にとって害悪にしかなり得ない。
 そこまで思い至って、ふと肩から力が抜けた。
(……そっか……)
 いやだと思うのは、紺野とつき合えている今の自分が幸せだからだ。
 それはとても有り難いことで、無かったかもしれない時間を与えてくれた紺野には感謝しかない。
 その感謝を、どんな形で返せるだろう。
 と、物思いに見つめていたその手に突然ホットのコーンスープ缶が置かれた。
「え? ……あちっ」
 慌てて缶のふちを持ち直して、驚いて顔を上げると、当麻がいたずらな顔をして見下ろしていた。
「休憩終わりましたよ。何サボってんですか」
 こてんと小首を傾げるいつもの仕草に、ひどく安堵して奏太は笑った。
「当麻もじゃん」
「ふふ。じゃあこのまま打ち合わせしましょう。柚木さん昼飯食いっぱぐれたでしょ、それ飲んでください。ひっきりなしにレディーが柚木さんのところに押し掛けてましたね。モテモテなんだから」
「既婚妊婦と他に想い人のいるレディーだったけどな。って見てたのかよ」
「ひどい顔色して物憂げに座ってたら、そりゃ気になりますよ」
 当麻は奏太の隣に座り、打ち合わせの体を装うために持っていた手帳を広げる。
「悩みごとですか? 僕でよければ聞きますよ、聞くぐらいは」
「なんかおまえが上司みたいだな」
「恋愛経験なら柚木さんに勝てるかもしれません」
「そりゃそうだ」
 笑って、奏太はコーンスープの缶を開けた。立ち上る香りに、空腹を思い出す。口をつけると、優しい甘さにほっとした。
「……でも大丈夫。もう悩み終わった」
 穏やかに目を伏せた奏太を、自分の膝に頬杖をついた当麻がじっと見据える。
「一人で悩んで出した結論って、大抵ろくでもないですよ」
「はは。そうかもしれないけど……」
 口に残ったコーンの粒を咀嚼して、奏太はひとつ息をついた。
「他にどうすればいいかわからないから、もう、いいんだ」
 缶の中に、ぽつりと呟きを落とす。手元に視線を落としたままの奏太を、当麻は黙って見つめていた。