秋の夜長の迷い道 -06-


 ドアがパタンと閉まる音で目が覚めた。
 ズキズキと痛む頭を寝返らせて重たい瞼を上げると、部屋着姿の紺野がタオルで濡れ髪を拭いている。
「紺野さん……?」
「ああ、悪い。起こしたか」
「いえ……あれ、俺……」
 そこは紺野の部屋の寝室で、奏太はベッドのど真ん中で堂々と寝こけていた。
 その足元に紺野が腰掛け、奏太もヨタヨタと体を起こす。時計は深夜の一時前を指していた。
「さっきまで当麻と飲んでてつぶれたの、覚えてないか?」
「え、あー……」
「当麻が連絡くれて、駅まで送ってくれたぞ」
「えっ!? 紺野さん迎えに来てくれたんですか!?」
「そりゃまあ。当麻も彼氏に引き渡せば安心だとか言ってたし。……おまえ、当麻に喋ったのかよ」
 不愉快そうに眉を顰められて、奏太は青くなった。
 泥酔して迷惑をかけた挙げ句、外聞の悪い男同士の関係を吹聴したと思われただろうか。
「いや、俺は喋ったりしてないです。当麻は……俺たちがつき合ってること、気づいてたみたいで」
「は?」
「あ、でも大丈夫です、他の人にはわかりやすくもないと思うって言ってたし」
「なんで他の人にはわからないようなことを当麻だけは気づくんだよ?」
「あ、の……それは……」
 詰問口調の紺野に追い込まれて、まだ酒の残る頭で奏太は必死で当麻の言葉を思い出す。
 プライバシーに関わることを、奏太だって勝手に他人に話したりしたくはない。でも奏太と紺野を応援したいと言ってくれた当麻は、紺野になら話すことをきっと許してくれるだろう。
 ごめん当麻、と内心で謝りながら、奏太は息を継いだ。
「当麻、ゲイなんだって。俺も知らなかったんですけど、ど、同類だから俺のことがわかっちゃったのかもしれないです」
「……は?」
 しかしはっきりと機嫌を損ねた紺野は、ベッドに乗り上げて奏太の両手首を掴み、そのままベッドに押し倒した。
「おまえ、ゲイ同士で二人きりで飲みに行ってたのかよ」
「それは、飲みに行くって決まった時点では俺も知らなくて」
 弁解は聞き入れられる様子もなく、紺野は奏太のシャツの裾に手を這わせてくる。
「……当麻と何もなかっただろうな?」
 低く問われて、え、と奏太は固まった。
 ここは変な間を作らずに、あるわけないじゃないですかぁ、と明るく笑い飛ばすべきところなのに。
 聞きようによっては甘ったるい焼きもちで、そこから他愛もないじゃれ合いを始めることもできたはずだった。
「……紺野さん」
 けれど胸に引っ掛かったその言葉は、思いがけない角度で奏太に傷をつけた。
「ゲイだからって、男相手なら誰彼構わずなんてことはないです」
 力なく、奏太は笑う。
「俺には紺野さんがいるのに、俺と当麻で、何か起こると思いますか」
 訊きながら、思ったからその言葉が出たんだよなと、奏太は答えを待たずにどっぷりと落ち込んだ。
 それがノンケの感覚なんだろう。そういう偏見が存在することを、知ってはいる。
 でもなんとなく、紺野はそんなふうには思わないでくれると思い込んでいた。それは紺野に対して無防備過ぎた自分が悪い。傷つくなんてお門違いだ。
「悪い……」
 失言に気づいてすぐに紺野は奏太の上から退いたが、奏太は自分の言葉こそをもう取り消したくなっていた。
 言うべきではなかったし、言えた立場ではなかった。
「いえ、ごめんなさい、なんか俺過剰反応でした。忘れてください。心配してもらえてありがたいです」
「柚木、」
「お風呂、借りますね。なんか俺酒臭いし。今日は脱衣所で寝たりしないから大丈夫ですよ」
 いつぞやの大失敗を蒸し返して笑い話にして、奏太は寝室から逃げ出した。
 紺野が使ったあとのまだ暖かい浴室で、熱いシャワーを頭から浴びる。
 嗚咽が漏れそうになって、奏太は両手で口を塞いだ。
 今だけ。今だけ。
 泣いて、さっぱり忘れて、紺野さんの前では笑えるように。
 今だけ。


 消灯した寝室で、自分に背を向けて寝息をたてている奏太の髪を、紺野はそっと指で梳いた。
 あのあと、風呂から出てきた奏太は、何の蟠りも残していないような顔で笑っていた。面倒をかけたことを詫びて、もう俺禁酒しようかな、なんて言っておどけていた。
 奏太が平気でそうしているとは紺野ももちろん思ってはいなくて、無理をさせていることにとても申し訳なくなる。
 時間も時間だし、酒も入っていて眠たいだろうと、就寝を促した紺野に奏太はほっとした表情も見せなかった。本当はそんな気分ではなかっただろうに、セックスしないことを残念そうにさえして見せた。
 だんだん、奏太は紺野に本心を隠すのが上手くなってきている気がする。
 奏太がどこまで本音で話してくれているのか、最近紺野は見抜く自信がなくなってきた。
(……俺には話せない本音を、当麻には話してるのか?)
 子どもっぽい嫉妬心を、このところ紺野は抱え続けている。
 普段から奏太と当麻は一緒に仕事をしていて、後ろの席から見ていても仲は良さそうに見える。
 特に、他の同僚にはいつでもしらっとした顔でドライに対応する当麻が、奏太にはやたら懐いている。あからさまに他と態度が違うのだ。
『かなたんも朔ちゃんから巣立って、よそで所帯をこさえたみたいだねぇ』
 そんな雑音が聞こえてきて、紺野は正直、気が気ではない。もっと悪くなると、奏太が紺野を捨てて新しい男に行っちゃった、なんて声もある。皆陰で好き勝手言い過ぎだ。
『しょうがないよな、当麻って紺野の上位互換って感じだし』
 職場の女性陣からの人気度合いで、そんなふうにも茶化された。
 どちらがよりモテるとか、そんなことは心底どうでもいい。だがいつも隣にいた奏太が今は当麻と一緒にいて、代わりに自分の横に奥寺がいることを冷やかされる、その状況が歯がゆくてならないのだ。
(だからって、仕事だしな……)
 私情でペアを元に戻せとは言えない。以前より紺野も奏太も、互いのメンティーのお陰で仕事はうまく回っている。
 紺野も、奏太が仕事で成功することを望んでいるし、そこは全力で応援したい。
 だけど。
 さっき当麻がゲイだと聞いて――当麻が奏太の恋愛対象になりうると知って――大人げなく嫉妬心を剥き出してしまった。
 今夜奏太が当麻と打ち上げに行くことは聞いていて、その奏太からかかってきた電話に出てみれば、相手は当麻で。
 奏太が泥酔したから最寄り駅まで送ると言われ、急いで迎えに向かってみれば、改札近くで待っていた奏太は当麻に抱きつくようにしなだれかかっていて、その当麻も紺野の姿に気づくまで、奏太を抱き締めているように見えた。
 その様子だけでも頭に上りそうな血をなんとか下げて、大人の対応を取り繕って奏太を引き取ってみれば、その目元は泣きはらしたように赤く潤んでいて。
「……泣いたのか?」
 思わず、当麻を責めるように問うていた。
「ちょっと酔って昔の恋バナになっちゃっただけです。紺野さんのことじゃないと思いますよ」
 当麻は訳知り顔で一応フォローらしきものを入れていったが、紺野にはいろいろと衝撃が大きかった。
 紺野とつき合うようになって解決したはずの過去の恋は、まだ奏太にとって思い出すと泣くような生々しさを残しているのか。
 そしてその涙を、紺野ではなく当麻に見せるのか。
 紺野にはもう話せないことを当麻には話す、それほど二人の仲は深いのか。
 衝撃は、当麻の性的指向を聞いて、疑いに変わった。
 当麻は、いったいどんなつもりで奏太と接している?
 もし下心があるのなら、絶対に奏太に近づけたくない。当麻が奏太に好意を持っていると知ったら、奏太は――
(……クッソだせぇ)
 深いため息と共に、紺野は拳を眉間に押し当てた。
 奏太を疑っている。当麻が奏太に好意を持っていると知ったら、奏太は当麻の方に行ってしまうのではないかと。
 奏太が自分との恋愛に不安を抱いていることを知っている。元々奏太は紺野とつき合いたかったわけではない。事故のような接近のあと、ストレートとのつき合いに難色を示す奏太を紺野が説き伏せたのだ。
 口説いたのはこちらなのに、奏太は未だに、紺野につき合ってもらっているというスタンスでいる。いつか紺野が女に戻っていくと思っていて、それまでの間、どうにか紺野の気を引こうと懸命になっている。
 知っているのに、どうにもしてやれていない。安心させてやりたいのに、奏太はいつかのための予防線を張り続けている。
 きっと紺野とつき合い続ける限り、奏太はずっと苦しいままなのだろう。
 どうしてやればいい。どうにかしてやりたい。でもこれ以上何ができる。
(おまえは、俺より当麻と一緒にいられた方が楽なんじゃないか……)
 奏太の耳の裏側を見つめながらよぎった考えを、もう紺野は否定できない。
 紺野は奏太の傍にいる自信を失っていた。