秋の夜長の迷い道 -05-


「納品完了おつかれー!」
「お疲れ様です」
 当麻の配属から一ヶ月ほどが経った金曜の夜、奏太と当麻は会社近くの個室居酒屋で、二人でビールジョッキを掲げていた。
 週の半ばに依頼元にシステムを納品して、週末に飲みに行こうという話をしていたのだが、本日受領証が送付されてきたので無事に打ち上げを行う運びとなった。
 システム自体は小規模で、データベースを一つ構築してインターフェースとなるWebページをいくつか作成した程度だったので、二人にとって作業的にはさほど大変な案件ではなかった。が、納期間際に客先都合の急な仕様変更が入り、納期延長ができない事情があったことから、結局残業対応でドタバタと間に合わせることになってしまった。
 連日終電帰宅になっても文句一つ言わずに手腕を発揮してくれた当麻には、奏太は感謝しきりだ。
「やー、今回はほんと助かった。当麻いなかったら何日か帰れなかったと思うもん。今夜は俺がおごるから遠慮なく飲んでよ!」
 鼻下にビールの泡をつけて枝豆に手を伸ばした奏太に、当麻はふふっと笑みを向けた。
 最初は表情が薄くて読み取りづらかった当麻だったが、奏太に慣れてきたのか、それとも奏太の読み取りスキルが向上したのか、本人比ではあるけれど随分わかりやすく感情を出すようになってきている。
「柚木さんにそう言ってもらえたら僕も嬉しいです。今までWeb関係は柚木さんだけが担当だったんですか?」
 当麻は枝豆の器と殻入れのボウルを奏太の方に寄せながら、小首を傾げて訊いた。
 こてんと首を傾ける仕草は当麻の癖のようで、冷たげな見た目のわりに愛嬌があってかわいいなと、奏太は好ましく思っている。
「うん、需要があるわりにうちにはスキルある人がいなくてね。紺野さんはオールマイティーだからWebもやれるんだけど、他の案件からも引っ張りだこで常に忙しいんだよね。だから今まではだいたい俺がメインで、ダブルチェック必要なところだけ紺野さんに手伝ってもらったりしてた感じかな」
「それじゃ大変でしたよね」
「んー、まあそもそもそんな複雑で大規模なのはうちには来ないしね。納期はきっちり確保してくれるし」
「その納期直前に仕様変更ぶっ込んでくることはあるけど、と」
「ははは。まあちょいちょいあるね」
 当麻は、困っちゃうよねー、と笑う奏太を見つめながら、ジョッキをテーブルに置いた。
「今日、僕と二人で飲みに行くってことは、紺野さんには伝えてあるんですか」
「へ? なんで紺野さん?」
「お二人、つき合ってますよね」
「っ……!?」
 わかりやすく動揺した奏太は、ビールを吹き出しそうな口元を慌てておしぼりで押さえた。その様子に目を細めて、当麻は微笑む。
「大丈夫ですよ、他に漏らしたりしませんし。僕はゲイだから気づきましたけど、普通の人にはそんなにわかりやすくもないと思います」
「え!? 当麻ってそうなの!?」
「あれ、気づかれてるものだと思いました。紺野さんには配属初日にものすごく牽制されましたし」
 確かにあの日、紺野は当麻をやけに気にしていた。気にする必要もないと思っていたが、まさか当麻もゲイだったとは。
「でも警戒しなくていいですよ、僕は恋人のいる人には手を出さない主義なので」
 両手を上げて下心がないことをアピールした当麻に、そもそもそんな心配はしていなかった奏太は苦笑した。
「……警戒なんてしないよ、当麻みたいなやつがわざわざ俺に手ぇ出すほど不自由してるなんて思えないし。とっかえひっかえ自在だろ?」
「なんか偏見だなぁ。僕もうしばらくフリーなんですけど」
「またまたぁ」
「ほんとですってば」
 困ったように眉を下げた当麻が、再度ジョッキを持ち上げた。
「まあいいや、この際だから訊いとこ。柚木さんと紺野さんって、どっちから押してつき合うことになったんですか?」
「えっ」
 問われて、奏太は少したじろいだ。
 今までこんな話題、ケイぐらいとしかしたことがないし、ケイにはいつもお悩み相談ばかりで浮かれた恋バナはほとんどしていないかもしれない。
 改めてこんな話をするのはやけに恥ずかしくて、奏太は真っ赤になって俯いた。
「えーと、どっちが押したってこともなくて」
「でも何かきっかけがないと男同士でつき合わないでしょう」
「き、きっかけっていうか、俺が酔って紺野さんに絡んじゃったのが発端で。ほら、当麻たちの歓迎会で飲んだくれてただろ俺」
「ああ。じゃあつき合い始めたのはわりと最近なんですね。柚木さんが先に紺野さんを好きになって迫ったって感じですか?」
「それもちょっと違って……紺野さんノンケだし」
「ノンケ」
 その言葉に反応したように、興味津々だった当麻の表情がふと苦さを帯びる。
「……柚木さん、勇者ですね。紺野さんの性格でノンケだったら、まず男に靡きそうにないじゃないですか」
「あ、うん……なんでだったんだろうね。俺もよくわかんないんだよ。なんで紺野さんが俺でいいと思ってくれたのか……」
 好きだと、紺野は何度も言ってくれて、奏太ももうそれを疑う気はないけれど、なぜなのかはまるで腑に落ちていない。
 つき合うまでは、紺野がフリーなのは彼のお眼鏡に叶う女性がいないだけかと思っていた。しかし、ならば自分が同性というデメリットを差し引いてなお魅力を感じてもらえる相手かというと、そうは到底思えない。
 それに、今は紺野の傍に奥寺もいる。
 身長が高めで細身で、可愛い系というより美人系で我が強くない奥寺は、ずっと前に聞いたことのある紺野の好みに合致している。
 そして何より彼女は、『紺野の書いたコードを奏太並みに読める女性』だ。
 皆が、ようやく紺野の理想の女性が現れたと言っているのを、奏太も知っている。奏太だってそう思う。
 つき合う前に奥寺が紺野のメンティーになっていたら、奏太は普通に紺野と奥寺の仲を応援しただろう。そして紺野も、その気になったんじゃないかと思う。
「今も……考えることがある。あのとき俺が酔っぱらったりしなかったら、って」
 そうしたらきっと今も紺野と奏太はただの仲のいい先輩後輩で、紺野の良縁を少し面白がってからかいながら、奏太も喜ばしく見守っていただろう。
 その方が、良かったんじゃないだろうか。
 じわ、と、視界に黒い染みが広がったような気がした。
(あ……やだな、考えないようにしてたのに)
 広がり始めた染みは、見る間に奏太の視界全体を覆う。今まで避けてきた思考に、一瞬で奏太は囚われてしまった。
 視線を落とした奏太を、ジョッキを空にした当麻が見つめる。
「……僕のこと、語ってもいいですか」
「え? あ、うん」
「酔ってますし。戯れ言だと思って聞き流してください。柚木さんも何か追加しませんか」
 笑いながら、当麻はタブレットで酒を追加注文し、同じものを奏太も頼んだ。
「転職前に、ノンケの上司とつき合ってたんです。四十前で、すごく仕事ができて、尊敬してました。でもその歳までろくに恋愛経験もないような堅物で、ちょっと駆け引きしただけで簡単に落ちたんです」
「けっこうな年の差だよね……」
「十四歳差でしたね。でもあんまり年の差は感じなかったんです。何かと不慣れで、可愛らしい人でした」
 四十前の男を可愛らしいと形容するのを怪訝そうに見る奏太に、当麻はふふっと笑いかける。
「僕は彼と一緒にいられればそれで本当に幸せで。つき合ってしばらくは、彼も幸せそうに見えました。でも、結婚や子どもなんて発想もしないゲイの僕とは、思い描く幸せの姿が違ったみたいで。だんだん、同じようには幸せを感じられなくなっていくのがわかりました」
 店員が、個室に追加のグラスを運んできた。受け取ってすぐ、当麻は半分ほどを飲み上げてしまう。
「その頃になると、彼と同年代の社員はほとんど結婚してて、子育ての話題なんかも頻繁に出るようになって。僕とつき合っている限り、そういうものは得られないってことを強く感じてたんだと思います。本人は無自覚だっただろうけど、街中で男女のカップルや子連れを、すごーく羨ましそうな目で振り返ったりしてて」
 当時を思い返して目を伏せた当麻は、泣き出しそうに見えた。
「……それは、つらかったんじゃない?」
「そう……ですね。挽回したくて、かなり頑張ったんですけど。でも頑張れば頑張るほど、僕には埋められないものがはっきりしていくようでした」
 また当麻は、グラスに残った酒を流し込む。
 あの夜の自分も、周りからこんなふうに見えていただろうかと、奏太は当麻の飲酒のピッチが少し心配になった。
 けれど当麻も語れる場がないのなら、ここで吐き出させてやるのもいいかもしれない、とも思う。
「リソース切れでした。彼が男同士の恋愛に見出したもの……好奇心、性欲、同情……たぶん、そのくらい。枯渇するのに一年ももちませんでした。彼にとっての価値がなくなったのを悟って、僕は身を引きました」
「身を引いた……?」
「……と言えば聞こえがいいでしょう。実際は逃げたんです。捨てられるのが怖くて」
 ふふっと、また当麻は自嘲ぎみに笑った。
「渡りに船、って感じでした。別れを切り出しづらかったから、僕から言ってくれてほっとしたって様子で。しばらくは彼の部下を続けていましたが、上の人の紹介で彼が見合いをしたと人伝に聞いて、会社を辞めました」
 そして今に至ります、と冗談めかして笑う当麻が、言葉を止めて目を瞠った。
「……柚木さん?」
 奏太が涙を落としたからだ。
「え、ごめんなさい、僕何か悪いことを」
「いや、違う。ごめん、俺も」
 慌てて膝立ちになった当麻を、奏太も慌てて制止する。
「俺も、バイの前彼といろいろあって。前彼が女と結婚して、そのあと離婚して復縁しようなんて言ってきて。もうほんとに、女いけるやつは懲りたはずなんだけど」
 当麻の話で呼び起こされたつらい記憶は、紺野との生活で癒えたはずなのに、未だに奏太の涙を溢れさせる。
 涙を隠して、奏太は手のひらに瞼を埋めた。
 消せない怖さを、奏太はまだどうにもできないまま、紺野の目から隠している。
「バカだよね俺。当麻みたいなやつでさえノンケ相手に失敗してるのに。俺なんかの手に負えるわけがないのにさ」
 毎晩布団に入るときに、今日は大丈夫だったと安堵して、明日はどうだろうかと不安になる。当麻の言うところのリソース枯渇が、いつ起きるんだろうかと怯えている。
 紺野が抱き締めてくれる腕で、自分の価値を検算している。
 こんなことは誰にも、まして紺野には言えるはずがない。根っこのところで、奏太は相手の愛を全く信用していないのだ。
 なぜ、どうして、どこが、と愛される根拠を探している。そんなものは見つからなくて、たとえ紺野にここだと示されても信じられなくて、好きだと告げる紺野の声さえ胸に留めていられない。
 こんな自分は明かせない。隠したまま、どこまで走れるだろう。息が切れたとき、遅かれ早かれ終わるのだとわかっていて。
「……柚木さん」
 労るような当麻の声に、奏太は手のひらから顔を上げた。その濡れた手に、当麻の手が重なる。
「僕は、柚木さんと紺野さんのこと、応援したいです」
 優しい笑みで、当麻はこてんと首を傾げた。
「そういうことがあっても、柚木さんはノンケの紺野さんを選んだんでしょ。紺野さんも、同性なのに柚木さんを選んだんでしょ。自信持ってください。お二人が幸せでいてくれたら、僕もなんだか前の失恋を乗り越えられるような気がするんです」
 きゅ、と当麻が奏太の手を軽く握る。その手が温かくて、奏太はまたぐすぐすと涙腺を崩壊させた。
「当麻、飲もう! 飲むしかないよ今日は!」
 ぼろぼろと大泣きしながらグラスを高く掲げた奏太に、当麻は初めて眦を下げて大きく笑った。
「えぇえ、大丈夫ですか柚木さん、あんま強い方じゃないでしょう?」
「うん、弱いよ俺!」
「ちょっとそれ困りますから。紺野さんに殺されるのイヤなんで、つぶれる前に紺野さんちの最寄り駅と連絡先教えといてくださいよ。身柄引き渡しますからね」
「そこまでは飲まないから大丈夫!」
 この大丈夫は大丈夫じゃないやつだな、と思った当麻の予想通り、酒が進んだ終盤に当麻がトイレから戻ると、奏太は畳に仰向けで転がっていた。