あぁ、やっぱ断れば良かった。
奥寺のメンターを引き受けてほんの数日で、紺野は既に数えきれないほどの後悔をしていた。
奥寺はエンジニアとしての経験も実績も豊富で、覚えも早くて手もかからない。その優秀さは初日で紺野も感心したところだ。
特にコーディングに対する思想は紺野と通じるところがあるらしく、紺野の書いたソースを読んだ奥寺も「自分が書いたかと思いました」と驚いていた。
プログラムは同じ結果を導くにも書き方は幾通りもあって、それは学習した年代であったり職場の方針であったり本人の思考の癖であったりに左右されるのだが、つまりこれまで別々の会社で働いていた二人のそれが一致するというのは、なかなかレアなことだと言える。
なので、仕事上のパートナーという意味では申し分のない相手だった。話の通じやすさという点では奏太を超えるかもしれない。
しかし、紺野三十歳、奥寺二十七歳、双方独身で誰の目にも好バランスの美男美女。妙な憶測は瞬く間に広がった。
「朔ちゃんもとうとう運命の相手に巡り逢ったんじゃないのぉ?」
セクハラの概念が希薄なおじいちゃん社員にニヤニヤとつつかれ、紺野は辟易と眉間の皺を深める。
「短絡が過ぎるでしょーが。奥寺にも選ぶ権利はあるんだし」
当然その権利は紺野にもあるし、紺野は奏太を選んでいるのだが、奥寺に配慮したその言い方がおじいちゃんの要らぬ好奇心をくすぐったらしい。
「おっ? てことは奥寺さんに選ばれたら朔ちゃんとしては満更でもないってことだね?」
「っ、だからー!」
「照れない照れない。朔ちゃんの理想通りの子なんてそうそう出会えるもんじゃないもんね。見た目良し中身良し、かなたん並みにプログラム読み書きできる女の子なんて」
紺野の言い分など最初から聞く気のないおじいちゃんは、善意のかたまりのホクホク顔でふらふらと自席へ戻っていく。
ちっ、と思いきり舌打ちをして、紺野は乱暴にキーボードを叩いてパソコンのスリープを解除した。
あぁもう! やっぱ断れば良かった!
これまで恋人がいても長く続いたことのない紺野は、今までも恋愛ネタで他の社員からいじられることは間々あった。それについては紺野自身は全く構わない。続かなかったのは事実だし、自分のことをどう言われようと至ってどうでも良かったからだ。
でも今は違う。そういう話をされたくない。奏太の耳に入れたくない。
つき合うにあたっても、当初奏太はゲイである自分とノンケである紺野を明確に線引きして、ノンケとはつき合わないと頑なに受け入れようとしなかった。
前の恋人がバイセクシャルで、女と浮気した挙げ句、結婚を理由に捨てられたのが深くトラウマになったのだそうだ。同じことを繰り返してしまうのではないかと危惧した奏太の気持ちは、紺野にもわからなくはない。
だからこそ、紺野は奏太が不安になるような事実無根の噂は聞かせたくないし、紺野が元々ノンケであることを殊更に意識させることもしたくない。
しかしだからと言って、奏太の前ではその話をするなと社員に触れて回るわけにもいかない。そんなことをしたら奏太が不要な詮索を受けることになりかねない。
それに、これまでその手のいじりは適当にいなしてきた自分が躍起になって否定しては、却って火に油を注ぐようなものだ。
八方塞がり。打つ手のなさに紺野は深くため息をついた。
(守ってやれねえな……)
元彼との一件で、ボロボロに痩せこけた奏太の姿が瞼に返る。
全然大丈夫じゃなさそうなのに、大丈夫だと弱く笑っていた。紺野の差し出した手を頑なに拒んで、懸命にその両足で立っていた。
そうやって一人でなんとか耐えてきた奏太に、紺野はもう一人じゃないと言ってやりたいのに、今度は自分が傷つける側になってしまっては目も当てられない。
どうしても、奏太を泣かせたくないのだ。
たぶん、まだ紺野は奏太の全幅の信頼を得るには至っていない。奏太が紺野に遠慮しているのはありありで、本音をぶつけられるような関係だとは認識してもらえていない。
折に触れ、紺野は不得手ながらも奏太への好意を言葉にして伝えているし、恥じらいながらも奏太はそれを受け取っているはずなのだけれど、奏太が張り巡らせている予防線を紺野はなかなか越えられないでいる。
抱き合うことはできるのに、紺野はまだ奏太の真ん中のやわらかい部分に触れさせてもらえていない。今のところ、そこの攻略法は見つかってもいない。
「……ぅあー……」
と思わず声が出たところで、打ち合わせで席を外していた奥寺が戻ってきた。
「……どうしました紺野さん。ぅあー言ってました?」
「言ってました。助けてください」
「バグですか」
「バグっているのは俺ですすいません」
「はい?」
「はぁー……」
怪訝そうに紺野を観察していた奥寺だったが、しばらく眺めたあとにぷっと吹き出した。
「……なんだよ?」
「いいえ、紺野さんって悩み事とかないタイプかと思ってました。ざくっと切って捨てて気にしなさそうで。意外とすごーく分かりやすく悩むんですね」
クスクスと笑われて、紺野は顎をつまんだ。言われてみれば、確かに自分はそういうタイプだったように思う。
「……悩まない方だったんだけどな」
過去の恋愛でも、破局の危機を迎えた場面ですら紺野はあまり悩んだことがない。人と人とのことだから、相性や縁について悩んでも仕方がないし、なるようにしかならないと思ってきた。
なるようになった結果が悪い方向に行かないように足掻こうとしている今が、紺野にとってはイレギュラーなのだ。
「悩み慣れてねえから、考えすぎちまうのかも」
少し離れたミーティングスペースで、奏太が新人と打ち合わせをしている姿が見える。
いつも隣で、自分を頼ってきていた奏太よりも、その横顔は大人びて見えてなんだか少し寂しい。
(……ヤバい。かなりキモくねぇか、この恋愛脳……)
自分らしからぬ思考に疲れて、紺野はひどく深いため息をついた。