スパイシィ・ライアー -07-


 大樹が退院して大学に出てきたのは、転落事故の二日後のことだった。
 昼休憩も終わろうかという頃に、食堂に現れたところを悠の向かいに座っていた麻衣が気づく。
「あーっ! 大樹くん、元気になった?」
 立ち上がって大声を上げた麻衣が手を振る方を悠が振り返ると、頭と左手首に包帯を巻いた痛々しい姿の大樹が、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。
「すみません、お騒がせしました。昨日無事に退院しました」
 茶化すでもなく、落ち着いた声で大樹は頭を下げる。
「左手はどうしたの?」
「これはただの捻挫です。受け身をとろうとしたときに捻ったみたいで」
 簡潔に説明すると、大樹は空になった悠の食器をトレイごと麻衣の前に移動させた。
「おい?」
「園部さん、返却お願いします」
「え、うん、いいけど」
「行きましょう」
「は?」
 訝しむ悠の手首を掴んで、大樹は逆の手で悠のバックパックを取り上げてしまう。そのまま食堂の外へ引っ張って行かれ、有無を言わさぬその行動に面食らって悠はただついて行くしかなかった。
「おい、ちょっと待て! もうすぐ午後の授業が」
「自主休講です」
「はあ!?」
「いいでしょう、今日一日くらい。風邪でも引いたと思ってください」
 悠の言うことに異を唱えることなどなかった大樹のいつもと違う様子に、何も言い返せずに悠は黙り込んだ。
 手首を掴まれたまま、大きなコンパスで足早に歩かれて、悠の足が小走りになるのが悔しい。しかも頭に包帯を巻いたでかい図体の男に引きずられている様は周囲の注目を集め、屋外に出たところで悠は大樹の手を無理やり振りほどいた。
「わかったから! 逃げないから、手は放せ」
 しっかりと手形がついた手首をさすりながら言った悠をじっと見つめて、大樹は悠の荷物を持ったまままた歩き出した。
「……どこ行くんだよ」
「どうしましょうね。俺んちにでも行きましょうか」
「はあ?」
「すぐ近くですよ」
 財布も携帯も入った鞄を取り上げられていてはついて行かざるを得ず、悠は大樹の後ろを少し離れて歩いた。
 近くだと言った大樹の下宿は本当に大学からほど近く、最寄り駅までの途中にあった。築十年ほどの、三階建ての学生向け1K。その二階の角部屋が大樹の部屋だった。
「適当に座ってください」
 促されて、室内に足を踏み入れる。一人暮らしを始めて半年足らずだからか、物の少ない部屋は整然としているというよりは殺風景だった。
 その部屋の隅にゴム弓と弓懸が置かれているのが目に入る。
「……弓道、続けてたのか」
 テーブルに麦茶のグラスを出してくれた大樹に、ぽつりと訊いた。
「地区大会で結局入賞もできませんでしたけどね。和弓のサークルがなかったんで、今は家でゴム弓引くくらいです」
 悠と目を合わせない横顔は、知らない人のようだった。
 これまで悠たちと行動を共にするときに見せていた天真爛漫さはなりをひそめ、低く落ち着いた、聞き心地の良い声。
 そうか、おまえの素はこんなか。
「この間は、悪かった。急にお前に感じ悪いこと言って。怪我までさせて」
 頭を下げた悠に、大樹は黙って視線を向けた。
「それから――高校卒業した後の、春休みのことも」
 ずっと触れられずにいたその話題に、ついに悠は自ら踏み込んだ。
 ゴム弓と弓懸が置かれたそのそばのテレビ台に、小さな多肉植物の鉢が鎮座している。
「まさかおまえが大学にまで追いかけてくるとは思わなかったから。ほんとに、深い意味はなかったんだ。ちょっとからかったっていうか、そういう、好奇心も強い時期だったろ。お互い気持ちいい思いして、パッと別れて、後腐れなくてラッキー、みたいな」
 愛想笑いを浮かべて早口に並べた言葉はいかにも白々しくて、口から出た端から自ら嘘だと白状しているようで。
 黙って聞く大樹も表情をなくし、痛ましいものでも見るような凪いだ目をしている。
「……通じないよな。当たり前か」
 取り繕うことはもはや諦めて、深く息をついた。
「おまえにとって、深い意味を持たせたくなかったのは本当なんだ」
 ただの練習で、ただの経験だと、思ってもらいたかった。あれは最後に大樹に触りたかった悠のエゴでしかなくて、大樹には蚊にでも刺されたと思って忘れてほしかった。
「おまえは俺とは違う。ゲイなんかじゃない。これからだって、普通の恋愛をして普通の人間として生きていける。誰に後ろ指をさされることもない。おまえなら誰からも愛される。俺なんかに躓かないでほしい」
 声が震えそうになって、喉に力を込めた。
 泣いたりしてはいけない。これ以上変に大樹の情を引いてはいけない。
「俺に合わせて、俺を持ち上げるために、もうちっちゃかったおまえのふりなんかしなくていい。おまえが崇めた俺はただの卑怯者で、今のおまえは俺なんかよりずっと立派な人間だ」
 今後自分に一切かまうなと、拒絶した真意はそういうことだったのだと明かして、悠はまた息をつく。
 もう弁解できることもなくて、目の前で黙って俯いている大樹の背後にある自分の荷物に手を伸ばそうとすると、その手を遮られた。
「待って」
 近い距離で、大樹の瞳につかまった。
「従順でかわいい後輩が好きなんだと思ってたから、そういうふうに装ってたのは認めます。でも俺は、後輩から先輩への尊敬や憧れを恋心と勘違いするほど、一回抱いたくらいで二年も執着し続けるほど、そんなに幼稚じゃない」
「大樹、よせ」
 大樹の瞳に必死の色を見て、それ以上はやめろと、言葉を止めたくて呼びかける。けれど大樹は両手で悠の二の腕を掴んでしまう。
「俺はあなたを、本気で愛しています。どんなに拒絶されたって諦める気はないし、あなたの他に誰かを選ぶ気もありません。俺は」
「大樹!」
 そのまま大樹の腕に抱き込まれそうになって、叫んで悠はもがいた。
 自業自得だろうか。こんな風にはなってほしくなかったのに、結局自分がそうさせてしまった。
 安易に手を出して、いちばん守りたかったはずの足を引っ張って自分の沼に引きずり込んでしまった。
 肉親から拒絶される悲しさを、一人で生きていかなければならない苦しさを、悠は身をもって知っている。同じ思いを大樹にさせることだけは、絶対に避けなくてはならない。それなのに。
 悠は大樹に抱かれたかった。一度でいいから、抱きしめられたかった。その願望を、堪えることができなかった。
 取り返しのつかない悔恨に、ついに涙が落ちる。
「だめだ。俺が悪かった。おまえを巻き込むつもりじゃなかった。普通に生きられるならその方が絶対いいに決まってる。俺は、ただ自分の欲を満たすためだけに、おまえを」
 純粋に慕ってくれた大樹に、いったい何をしてしまったんだろう。
「ごめん……」
 甲斐のない謝罪がひとりでにこぼれる。
「おまえが好きだった」
 そんな気持ちを、悠もなくしてしまいたかった。行き過ぎた悪ふざけだったことにしてしまえたら、どんなに楽か。感情も感傷もないふりを、貫こうとしていたのに。
 最後の最後に大樹から与えられた、たった一度のキスで、悠の欺瞞は全て暴かれてしまった。余裕を装った笑みも、練習云々の言い訳も、大樹への恋心も。
 大樹の想いを伝えるそのキスが、あまりに嬉しくて、あまりに哀しくて。
 悠の二の腕を解放した手が、そっと両肩を包んだ。そのまま、ゆるく抱きしめてくる。
「……過去形?」
 抱き返せずに、悠は大樹の肩に瞼を埋めた。
「そうだよ」
「俺が先輩を好きだって言うから、先輩は泣くの?」
「……そうだよ」
「俺が、先輩を好きじゃなくなればいいと思ってる?」
「思ってる。本気で、引き返すなら今だと思ってる」
 嘘はついていない。だから強く言い切れたのに、大樹は腕を緩めて瞳を覗き込んでくる。
「でも、俺が先輩を好きじゃなくなったら、やっぱり先輩は泣くんでしょう?」
「……っ!」
 駄々っ子を宥めるような困った顔で言われ、思いがけない言い様に悠は二の句が継げなくなる。
 驚いて見返すと、大樹はふっと口元にいびつな笑みを浮かべた。
「それでいつか俺を忘れて、他の誰かを好きになって、また先輩は泣くんだよね。どうせ同じことを繰り返すんだよね。相手が誰でも。巻き込みたくない、おまえは自分とは違う。相手の幸せのためとか言って、ほんとは自分が傷つきたくないから身を引くふりして逃げるんだ。自分の気持ちに蓋をして、相手の気持ちも蔑ろにして、幸せから逃げるんだ。俺がどんなにあなたを好きでも」
 責める言葉を紡ぎながら、大樹の顔から笑みが消え、苦しげに歪む。
「先輩、俺はね。親のためでも、先輩のためであっても、先輩を好きじゃなくなることなんてもうできない。できないんだよ」
「大樹……」
「だったら、好きなのに諦めるなんて、そんなことしなくていいじゃない。そんな、俺も悲しくて先輩も悲しい、誰も幸せにならない、そんっな無駄なこと」
 再び、今度は強く、大樹は悠を抱きしめた。
「先輩、他の誰かのために泣くくらいなら、俺のために泣いて。この先もずっと」
 腕の強さに、大樹の痛みを知る。
 最後のキスをくれたあのときから、悠は大樹のすべてから目を背けていた。
 大樹の情を動かしてしまった責を負いきれなくて。自分といては不幸にすると、そればかりを疑わずに。二年もの間、置き去りにされた大樹の気持ちを推し量ることもしないで。
「……うん」
 どれほどの思いで、ここまで会いに来てくれたのだろう。少しも思いやれなかった、こんな酷薄な男のために。
「ごめん。俺、おまえが好きだ」
 大樹のためになら、どれだけ泣くことになっても耐えようと思った。
 きっと悠が泣いたなら、それを慰めるのは大樹だから。
「……やっと言った」
 半分安堵したような、半分は呆れたような、ため息をついて大樹は微笑む。その穏やかな眼差しを、ようやく悠も正面から受け止める。
 涙に濡れた悠の頬を手のひらで包み、大樹はそっとくちびるを寄せた。