不意に大樹は覚醒した。目は覚めたのに、なんだか体が重くて瞼も開きづらい。
懐かしい夢を見た。全身のひどい倦怠感は、夢見が悪かったせいだろうか。
ようよう重い目を開けると、見慣れない天井が目に入った。薄暗い周りを見回すと、どうやらここは病室らしい。
左腕に点滴の針が刺さっていて、そのチューブが繋がった機械が小さくアラーム音を立てている。提がった点滴のパックは空になっていて、どうやらこの音で自分は目を覚ましたようだ。
「棚橋さん? 気がつかれましたか?」
ちょうど点滴の終了予定時間だったのか、病室のドアが開いて看護師が入ってきた。きびきびと機器の状態を確認し、大樹の腕に刺さった点滴のルートを外していく。
「起き上がらないでくださいね。気分はいかがですか? 吐き気などはありませんか?」
「はあ、大丈夫です」
「棚橋大樹さん、年齢十八歳。通われている大学の校舎内で、階段から転落されました。覚えておられますか?」
「はい……なんとなく」
「転落された際に、右側頭部をぶつけて怪我をされていました。傷自体は浅かったのですが、幅が広かったので四針ほど縫っています。縫合の都合上、少し髪を切らせていただきました」
「あ、はい。わかりました」
どんなことになっているのか気になって触ろうとしたが、患部はガーゼの上からネット包帯が被せられていて、よくわからなかった。
「あと、頭を打っていたので、脳への影響を検査させていただいています。とりあえず脳波の異常はないことを確認しましたが、明日もう一度詳しい検査を行って、異常がなければ帰宅していただいて構いません。それまでは安静になさっていてください」
「はい」
「他に何か聞いておかれたいことはありますか?」
事務的な説明が終わり、看護師が笑顔を見せる。今の自分の状況がわかって、大樹は少し肩の力が抜けた。
「あの、今何時ですか?」
「もう少しで午後九時になるところです」
午後一の講義の後に階段から落ちたはずだから、六時間以上意識を失っていたらしい。
「夕方にお母様がいらしてましたよ。容態が落ち着いていることをお伝えしたので、明日の検査の頃にもう一度いらっしゃるとのことでした」
「ああ……そうですか」
心配性の母にも連絡が行ってしまったのか、と少しテンションが下がる。意識のない間に病院で騒いだりしなかっただろうか。
この年になると、他人から母親の話を聞かされるのは気恥ずかしい。
「それと、学校から付き添っていらっしゃったお友達が、廊下でずっと待っていらっしゃいますよ」
「えっ」
なのに現金なもので、悠が待っているのかと思ったとたんに瞼が全開になる。
「お通ししてもよろしいですか?」
「は、はい! お願いします」
勢い込んで頷くと、看護師は会釈して、病室を出て行った。
ややあって、再び病室のドアが開く。
「よう、大丈夫か?」
けれど入ってきたのは期待した悠ではなく、孝之だった。
「千葉さん……」
「おーい、露骨にガッカリした顔するなよ。悪かったな、悠じゃなくて。俺だって一応心配してたんだぞ?」
笑う孝之の服の裾には乾いた血がついていて、ここに運び込まれるにあたって孝之にも大きな迷惑をかけたのだろうことを大樹は知った。
「いえ、すみません、そんなつもりは。ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした」
丁寧な謝罪に、孝之は首を振る。
「いいや、こっちこそ悠が迷惑かけたよ。ありがとうな、悠を助けてくれて」
「あの、先輩は? 先輩に怪我はありませんでしたか?」
「悠に怪我はないよ。麻衣と一緒に病院まで付き添って来てたけど、夕方からバイトに行った。麻衣もさっき帰らせたとこ」
ベッドサイドの椅子に腰掛けながら孝之が言うのに、大樹は落胆した。
「バイト、ですか」
悠がほぼ毎日バイトを入れているのは知っているが、こんな時にまで怪我人よりもバイトを優先させるのか、と思ってしまった。孝之や麻衣はずっと付き添ってくれていたというのに。
その気持ちがそのまま顔に出てしまっていたようで、孝之が苦笑する。
「許してやってくれ。あいつ、実家からの援助なしで、バイトだけで生計立ててる苦学生なんだ」
「え……」
それは初耳だった。
正直なところ、大樹や悠の母校はわりと学費の高い私立校で、周りに金銭的に困窮した家庭環境の生徒はいなかった。だから悠の家も一人暮らしの息子に十分な仕送りをしているものと思っていたのだ。
その思いも顔に出ていたのか、孝之は情報を補足する。
「授業料は、今もらえてる無償の奨学金でほとんどまかなえてるらしいんだけどな。家賃や生活費は稼がなきゃいけないみたいだ。どうも、親御さんと絶縁状態らしい。……悠の性指向がバレたときから」
目を伏せて、孝之は呟いた。
「悠はたぶん、自分と同じ思いをきみにさせたくないんじゃないか。きみのことが、大事だから」
「……」
「悠の大号泣、初めて見た」
以前孝之にゲイなのかと訊かれ、躊躇なく肯定した自分に、おまえは違う、と噛みついた悠の声を大樹は耳に返した。
懐いてくる大樹を牽制するための言葉かと思っていたが、そのような事情を知ると違った響きを帯びてくる。
――違うだろ、おまえは!
線を引くのは、俺をゲイにさせたくないから? 自分と同じつらい思いをさせたくないから?
――ただの練習。今後に備えて、経験を積んでおくだけ。
その行為には何の感情も介在しない、特別な意味などない、ただの練習であって一つの経験値になるだけだと、そんな予防線を張ってまでわざわざ俺に触れたのは何故? ただの練習だと言い張るなら、最後まで平気な顔をしてくれていればよかったのに、それができずに泣いたのは何故?
辻褄を合わせるように解けた糸を撚っていくと、一つの答えが浮かび上がる。
それはとても大樹にとって都合の良い、思い上がりのようにも思われるけれど、その感情が根底にあったというのなら支離滅裂な悠の行動にも説明がつく。
「あの人は……俺に何も教えてくれなくて」
ぼんやりと、大樹は呟いた。
「親にゲイバレして絶縁されてるとか。だからバイトしまくってるとか。……俺のこと、本当はどう思ってるかも」
好き、なのかな。先輩は、俺を。大事なあまりに突き放す程度には。
「きみら、仲良く喧嘩ばっかしてて、大事な話はまるでしてなかったんだな」
会話は少なくはなかったはずなのに、と孝之は苦笑する。
曖昧だけれど傍にはいられる今の関係を維持しようとするかのように、核心に触れない二人のやり取りは表面的でくだらなくて、はたから聞いているぶんには楽しかった。でも、いつまでもそのままでいいのか、とは孝之もお節介ながら疑問に思っていた。
さすがにこんな事故という形で転機が訪れるとは、想像していなかったけれど。
「……そろそろ悠のバイトも終わる。大樹くんの意識が戻ったことは俺から伝えておくよ」
携帯を振りながら立ち上がり、孝之は病室の扉を開けた。
「きみらはちゃんと顔を合わせて話をしなさい」
じゃあな、と出ていく孝之に、大樹は小さく手を上げた。
言われなくても大樹は悠と顔を合わせて話をするしかない。未だに悠の新しい連絡先を、大樹は教えてもらえていないのだから。