季節が進み、三年生が就職活動に向けた前準備を始める頃になると、昼食時に大樹が同席するのも当たり前の光景になっていた。
「今度M社のOB訪問あるって。行く?」
「んー、俺本命はH社だけどなぁ。同業だし、一応受けるつもりでいるから行ってみるかな」
この夏で染髪も最後だから、と明るい色のウェーブヘアになった麻衣が、情報誌を開きながら孝之と話している。
その隣で天津丼を食べながら、にこにこ話を聞いている大樹の脛を、テーブルの下で悠が軽く蹴った。
「あいたっ」
さほど痛くもなかったのに反射的に声を上げて悠を見やると、汁椀に口をつけながら不機嫌そうに大樹を睨んでくる。
「おまえ、こんな会話聞いてて楽しいか?」
「え。俺も二年後にはこういうことしなきゃいけないわけでしょ。勉強になってますよ」
「……ならいいけど」
ぶっきらぼうだけれど悠は大樹が退屈していないか気にかけてくれているのだと、嬉しくなって大樹は悠の天ぷら定食の横に抹茶塩を置いた。
「先輩は就職、どこ狙ってるんですか?」
問うと、悠は眉を寄せて白飯の茶碗を持ち上げる。
相変わらず箸の持ち方も食べ方もきれいで、その箸になりたいなどと変態じみたことを自覚もなく大樹は考えた。
「……俺は進学」
「え、そうなんですか」
「このまま成績落とさずに、無償の奨学金取れたらな」
「へえー、先輩親孝行だなぁ。将来的には研究職ですか?」
「残れたら。わかんね、修士でいい話があれば受けるかもしんないし」
「そっかぁ。でも俺が卒業するまでは、先輩と一緒にいられるってことですね! 超嬉しいっす!」
「ばっ……だからおまえは何しに大学来てんだって!」
照れを粗暴な態度で覆う悠を見つめる大樹の視線はあたたかくて、むっと眉を寄せて悠は視線を泳がせた。
こんなふうに、穏やかで少しくすぐったいようなやり取りが日常になっていく。
大樹は悠への思慕を隠さず、いつも明るくてちょっとお馬鹿で、場を和ませてくれるような存在。一緒にいると、まるで中高時代に戻ったようだった。
――本当に、あの頃に戻れたら。
悠の頭を甘い考えがよぎる。同時に、和んだはずの胸が暗く鬱ぐ。
都合のいいことを考えてしまう自分がいやだ。絶縁覚悟で大樹に触れることを望んだのは自分の方なのに。
無邪気な笑みをまっすぐ見られない後ろ暗さは自業自得で、悠は大樹から視線を外して黙ったまま定食を掻き込んだ。
食事を終えて、それぞれに午後の講義の教室へ移動する。
大講堂へ向かっている途中で、今日は教室変更になっていたのだと思い出した悠は、変更先の教室へ再度移動すべく急いで別棟へ向かった。
そういえばあとの三人もこちらの教室で講義だと言っていたっけと、思っていたら案の定、前方に先ほど別れたばかりの大きな背中を発見する。
(……二年であんなに育つとか、聞いてねえし)
男子の成長期とは恐ろしいもので、悠自身も中学時代に一年で十センチくらい伸びた経験があるし、友人の中にはもっと伸びて毎日成長痛に苦しんでいるやつもいた。
だから大樹の発育も想定の範囲内ではあるのだけど、どこかでまだ悠は、成長しきった今の大樹の姿に小さかった少年期を重ねているところがあった。
(あんなかわいかったのに……かっこよくなっちゃってさ。中身全然変わってねえくせに、俺よりでかくなるとか生意気だし)
あれこれ余計なことを考えながら声をかけるか迷っているうちに、横から大樹、と呼びかけながらやってきた男女の集団と大樹が合流した。集団のほぼ中央に大樹が配置されて、一緒に移動を開始する。
あれ、と悠は思った。漏れ聞こえてくる楽しそうな会話に対する違和感。
「大樹、次の統計のノート見せてー」
「いいけど。この間も見せたよな」
「だってー。ユミも借りてたじゃん」
「あ、そうだユミ、レポート用の資料早く返せよ」
「ごっめん、忘れてた! 明日絶対持ってくるね」
しょうがないなぁ、と笑う大樹の落ち着いた声。自分たちの前で話すそれと、ワントーンもツートーンも低く聞こえる。
幼さのない、頼られる者の雰囲気。それは悠がこれまでに見たことのない大樹だった。
違和感が加速する。すごく嫌な感じ。
この大樹は違う。自分たちと過ごす彼とは別人みたいだ。
じゃあ、いつも自分たちに見せているあの大樹は何だ?
稚い、柄ばかり大きくなった、自分が成犬になったことに気づけていない大型犬のような、そんな昔と変わらない彼を悠は大樹だと思っていた。
それに安心していたのは誰だ? 過去の自分たちの関係に、戻れるような錯覚を抱いていたのは誰だ? 大樹に本当の彼ではない姿を装わせていたのは誰だ?
――俺は、大樹の何を見て、何を期待していた?
思い至った瞬間、全身が羞恥で炙られたように熱くなった。
体も、精神的にも成長して、学力も伸ばして、落ち着いた大人になったその姿が本当の大樹だったんだと思い知る。
幼かった中学生の頃からよく気が利く、人の心に敏い子だった。先輩として、当初慕ってくれたのは本当だろう。
だけど本心から崇拝してくれていたのはいつまでだ? そういう自分でいることが俺を安心させると、俺を満足させると、わかっていて演じていただけじゃないのか?
本当は俺からいつでも離れていけるはずだったのに、俺が大樹を傍に置きたくて、引き留めて、その隣で俺の望む姿であり続けて。本人は意識していなかったかもしれないけれど、俺の存在が、幼い大樹を創らせたのだとしたら。
(……そうなら、俺は大樹に何をした?)
取り返しのつかない思いに、今度は心臓が冷えていく。
別れの日、悠は大樹の好意につけ入る形で大樹に触った。自身の欲を満たすために、恣意的に。
たった一度限りのこと。憧れの先輩と性的好奇心を満たせるなら、大樹にも悪い話ではないだろうと自分勝手に打算した。自分にだけ思い出を残して、大樹は経験値だけ得て忘れてくれればいいと。
けれど大樹は忘れないで悠を追ってきた。
追ったのは本当の大樹ではない。悠が創らせた幼い大樹だ。
悠が卒業して大樹の前からいなくなれば、同時に彼の中から消えるはずだった幻だ。
悠の行いが大樹に誤った執着を植えつけて、そのせいで創り物の自分を持ち続けているのだとしたら。しなくてもいい同性との恋愛に走らせているのだとしたら。
知らなくていい苦悩を抱えさせてしまうことになるのだとしたら。
(――だめだ。もう、傍にはいられない)
悠は絶望に、瞼を覆った。
早めに終わった講義の後、悠は大樹のいる教室前の階段ホールでチャイムを待った。
ドアが開くと、中から続々と学生が出てくる。その中に先ほど見かけた男女とともに長身を見つけ、姿を目で追っていると大樹の方も立っている悠に気づいた。
「あっ、先輩!」
打って変わった、キラキラとした幼い瞳を見せる。周囲の友人たちと別れて、浮ついた足取りでこちらへ向かってくる。
「どうしたんですか先輩、さっきの授業は大講堂だったんじゃないんですか?」
トーンの高い、無邪気な声が今の悠にはひどく癇に障った。
「……おまえ、もう俺らと一緒に飯とか食うな」
いつもの不機嫌に輪をかけた険のある声に、戸惑った大樹の笑顔がしゅんとしぼむ。
「え……俺、なんか先輩怒らせるようなことしましたか」
尾を下げた幼犬のような姿を見せるけれど、もう悠にはこれがただの演技であることが透けてしまう。
「大学に入ってまで、中高の関係持ち込むな。俺には俺の、今の人間関係がある。おまえにだってあるだろう。もう俺には一切かまうな」
「せ、先輩」
踵を返した悠の腕を、大樹が掴む。予想外に大きな手のひらに、悠は怯んだ。
「待って、どうして急に。何か気に障ることをしたなら謝ります。一切かまうななんて、そんなこと言わないでください。俺、本当に先輩に会いたくて、それだけのためにここまで」
振り払おうとする腕に、さらに大樹の指が食い込む。
もみ合う二人の向こうから、孝之の「悠?」と呼ぶ声が聞こえた。そちらへ向かおうとしたが、大樹は悠の腕を離さない。
「先輩、お願いです。待って。俺が悪かったなら理由を教えてください。直すから。絶対同じこと繰り返さないから」
講義直後の教室近くで、人が大勢いる中で、ただでさえ目立つ人種の二人がもめている姿は人目を引く。
それにも気づけていない大樹の必死さがやりきれなくて、悠はこれ見よがしにため息をついた。
「……迷惑なんだよ」
一言、低く告げると、大樹は目を見開く。その瞳を揺らしながら、言葉なく大樹は悠の腕を離した。
傷つける意図をもって傷つけた。大樹を遠ざけることができればそれでいいのだから、罪悪感などその場で捨てた。
これ以上話すことはないと顔を背け、孝之たちとも顔を合わせづらくなって、悠は階段を降りようとする。
逃げるように踏み出した瞬間、ちょうど上階から映像機材を運搬していた学生がよろけて、したたかに悠の肩にぶつかった。
あ、と思う間もなく悠の体が階下へ向かって傾ぐ。
バランスを保とうとたたらを踏んだその先に、階段がない。
「先輩!!」
背後から大樹の大声が聞こえて、風景がスローモーションになった中で手首を強く引かれた。
背中に感じる強い衝撃と、だだだだっ、という落下音、そして悲鳴まじりの喚声。
気づくと悠は階段途中に座り込んでいて、その下の踊り場に、長身が横たわっていた。
「だ……大樹?」
無心で駆け寄った。横向きに倒れている大樹の頭から、床にじわりと血だまりが広がっていく。
「大樹! 大樹!!」
「だめだ悠、動かすな!」
抱き起こそうとする悠を、駆け寄った孝之が制止した。
「麻衣、医務室に連絡」
「う、うん!」
「大樹! 大樹ぃ!」
「落ち着け悠! 揺らすなって!」
大樹の体に取りすがろうとする悠を孝之は引きはがして、カバンから取り出したタオルをそっと大樹の傷口にあてがって圧迫する。
自分たちを囲んで輪になって見物する野次馬たちのざわめきが遠く聞こえた。
悠はただ泣きながら大樹の名を呼び続け、けれど大樹はぴくりとも動かなかった。