「なんでおまえがまたここにいるんだよ!?」
麻婆豆腐定食のトレイを持って、悠は根気よく怒声を上げた。
「あ、先輩。お疲れ様でーす」
片手で敬礼を作ってみせた大樹は、あたかもそこが以前からの定位置であるかのように、当たり前の顔をして麻衣の隣に座っている。
一年生が受ける一般教養科目の講義が主に行われるのは別の建物で、そちらにも同等の食堂が備えられているにも拘らず、である。
この光景が日常化して早二週間、それでも毎日丁寧に悠は怒り続けていた。
「何なんだよおまえらも! なんでフツーに受け入れちゃってんだよコイツを! 俺に対する嫌がらせか!」
プンスカしている悠を半笑いで眺めて、麻衣と孝之は目を見合わせる。
「そうやって毎日怒りながらもちゃんとあたしらに合流してくる悠がもうね……」
「愛しくてしょーがねーわよね」
「ふざけてんのか!?」
腹立たしく孝之の隣に腰を下ろすと、今日の悠の昼食メニューを斜向かいの大樹が覗き込んでくる。
「あ、先輩今日は麻婆豆腐ですか。俺花椒持ってますよ、花椒。かけます?」
「花椒?」
問い返したのは麻衣だった。
「これこれ。辛い系の中華にかけると美味いんです」
いそいそと鞄から取り出したのは、使い込んだポーチに入った小さなスパイスの瓶。そのポーチに、悠は見覚えがあった。
「えー何これ、大樹くんこんなのいつも持ち歩いてんの?」
「あはは。あ、千葉さん、ちょうどガラムマサラ持ってました。使います?」
「えーマジで? 使う使う」
孝之は受け取った小瓶の中身をカレーに振りかけ、スプーンで口に運ぶ。
「ん! あーコレ! 美味いね!」
「でっしょ! ちょっと物足りないときにスパイスかけるとめちゃめちゃクオリティ上がるんですよー」
言いながら大樹は、悠の前に花椒の瓶を置いた。
「って、これ先輩からの受け売りなんですけどね」
余計な話を始めそうな雰囲気に「おい」と低く唸ってみるが、大樹は気にしてくれない。
「俺らの中高の学食が、不味くはないんだけど今一歩って感じだったんですよ。で、どうやってあと一歩を埋めるかってのを、部活の仲間とすげえ真剣に考えて」
懐古する口元には笑みが上り、指先がポーチを弄ぶ。
「ケチャップやマヨネーズ持参していろいろ試行錯誤してたところに、先輩がこのポーチに各種スパイス詰め合わせて持ってきてくれたんすよ! 少量入れるだけで深みが増すよ、って教えてくれて」
「へえー」
「悠グルメー」
「うるせえな! ちょ、もうおまえ余計な話ばっかすんなって」
半眼でニヤニヤ笑いかけてくる二人を睨んで大樹を止めようとするけれど、三人は当然のようにそれをスルーする。
「で、先輩生徒会長のときに学食にスパイス揃えて置いてもらうように働きかけてくれて、ついにそれが実現したんですけど」
「すげえ! やっちゃうんだ」
「実現したとたんに先輩飽きちゃって、結局本人は塩胡椒しか使わないっていう」
「何それー」
「違う! ただの塩胡椒じゃねえぞ、いろいろ試した結果マジックソルトに行きついたってことで」
「んー、そこはどうでもいいわぁ」
「なんでだよ!」
苛立ちながらも悠は花椒を麻婆豆腐に振りかけ、いつもより美味しくなったそれを頬張った。
それにしても、悠には大樹の気がまるで知れない。一体どういうつもりで悠たちと行動を共にしているのか。
高三のとき、地元を離れてこの大学に入ることを決めてから、悠はもう、大樹には会えなくなるのだと思っていた。
前述の通り、当時の大樹とこの大学とは偏差値的にかなりの隔たりがあったし、大樹は地元の入れる学校に入って地元で公務員でも目指すと言っていた。
もう会うことはない、もう会えないと、そう思ったから悠は、引っ越しの前日に部室へ大樹を呼び出したのだ。
四年間、掛け値なしに悠を慕ってくれた大樹。いつからとはなく、悠は大樹を特別な存在として意識するようになっていた。
悠のことをまさかゲイとは思っていないだろう大樹に気づかれないよう細心の注意を払いながら、悠は大樹への想いを募らせていた。
素直で従順で、天真爛漫な大樹。
会えなくなることが寂しくて、忘れられてしまうのがつらくて、思い余って悠はあのとき判断を誤った。
そのことを今までずっと後悔してきた。謝りたいと思う一方で、もう合わせる顔などないとも。
それなのに、当時の学力では照準圏外の大学まで大樹は悠を追ってきて、そのわりにはそのときのことに触れもせずに、悠の仲間内に馴染んでそばにいる。
これをどういう事態と理解すればいいのか、悠には皆目見当もつかなかった。
「悠、時間大丈夫か? 今日金曜だろ。もうすぐ一時だぞ」
腕時計を掲げた孝之の声に、悠は残りの定食をかき込む。
「ん、もう行く」
金曜は午前中で履修している授業が終わるので、午後からは夕方までゼミの教授のもとでアルバイトをしていた。他の曜日も日曜以外は夕方から夜まで、塾の講師や家庭教師のバイトを入れている。
働きづめな悠のサイクルを大樹も覚えて、もうそんな時間か、と残念そうに口をとがらせる。
「先輩もう行っちゃうんですか。もっと話したかったのに」
「うるせえ、俺には話すことはない」
呼吸をするように悪態をついて、悠はバックパックを背負って「じゃあな」と席を立って行ってしまった。
「あーあ。また来週、か」
つまらなそうにグラスを弄ぶ大樹の隣に、さっと孝之は移動して麻衣と挟み込んだ。
「なあ。実際のところ、大樹くんはゲイなの? どうなの?」
声をひそめて問う孝之に、反対側から麻衣も顔を寄せてくる。
「そこはあたしも聞きたい。悠は違うって言ってたわよね」
両側から二人に詰め寄られて、大樹は少し困ったように天井を仰いだ。
「うーん。先輩がゲイじゃないって言うなら、ゲイじゃないのかな」
「何よそれ? 意味わかんない」
「男が好きか女が好きかって訊かれたときに、答えられないんですよね。男も女も、先輩以外は好きになったことがないんで」
「えっ。大樹くん今まで悠だけなの?」
「はい、中一から一筋です」
朗らかに返す大樹に、二人は思わず『ストーカー』の一言を飲み込む。
「……引いてますね。いや、中一のときから先輩を恋愛感情で好きだって自覚してたかは怪しいですけど。確信したのは、先輩が高校卒業した頃ですね」
「同性の先輩に対する憧れ、とは違うの?」
「やー、ただの憧れで偏差値二十のハードルは超えらんないっす」
「それもそっか」
納得しかけた麻衣の反対側で、孝之が大樹の肩に腕を回してさらに距離を詰めた。
「悠で抜けるの?」
手を筒型にして上下して見せた孝之に、麻衣が赤くなって額を小突く。
「女子もいるのに何訊いてんのよ!」
「むしろ主に先輩ですよね」
「あんたも何真面目に答えてんの!」
男二人が小突かれた額をさする横で、麻衣は深くため息をついて腕を組んだ。
「はー。悠は否定するけど、大樹くんが悠を好きなのは間違いないわよね。大樹くんは悠とどうなりたいの? どこがそんなに好きなの? モテる男なのはわかるけどさ」
どこがと訊かれて、大樹も腕を組んで考え込む。
しかし即答できるような具体的な事案は思い浮かばなかった。
「うーん、何でしょうねぇ。何においても完璧だったこととか、総合的に、ですかね。それを四年間、ずっとそばで見てたから。みんなが小さい俺を『小枝』って呼ぶ中で、先輩はずっと大樹って呼んでくれてて。自惚れかもしんないですけど、先輩、俺とは他の部員より仲良くしてくれてたと思うんですよね。いつも一番近くに置いてくれて、それで特別感があったのは確かかもしれないです」
「ふぅん……」
要領を得ない大樹の話を聞きながら、孝之は膝に頬杖をついて思わせぶりに相槌を打った。
「……博愛主義だった昔の悠が。大樹くんだけ特別近くに置いて。そんなことしてりゃ惚れられるのはわかりそうなもんなのに、牽制もしないで四年間も。これは……」
ぶつぶつと推理を重ねて、孝之は探偵よろしく髭もない顎を撫でる。
「……案外、逆なのかもね」
「逆って?」
結論だけ拾って問うた麻衣に、ふふ、と孝之は薄く笑った。
「ううん、なんでもない」